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名もなき創作家たちの恋  作者: おじぃ
2006年8月

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20/307

心の距離

 温泉、それは心もからだも癒す、身近なオアシス……。


 15時を過ぎて雨は止み、雲間からは陽が射し込んで、どこからかヒグラシやアブラゼミ、ミンミンゼミの声が聞こえる。


 あぁ、岩露天風呂さいこ~。わいわい騒ぐ爺さんたちのガヤをBGMにこのまま眠ってしまいそうだ。


 それに壁の向こうには生まれたままの星川さんが……! しかし衆人環視下で‘暴れ棒’将軍になるわけにはいかない。


 のぼせない程度に温泉を満喫したら、広間で風呂上がりの瓶牛乳を一気飲み。


「ぶはーっ! たまんねぇ……」


「おう、待たせたな清川真幸」


 ちょうど2本目の牛乳を飲み干したとき、げっそりした星川さんがアウターを抱えて女湯の暖簾のれんからひょっこり出てきた。


「うあ~、浴室で水飲んだのにもうだめだ~」


 ゾンビ化した星川さんは僕を寄る辺と認識したのか、ぶらぶらバサリと胸に飛び込んできた。前のめりで不安定のためからだが倒れないように抱き寄せる。


 おっ、おう、アカン! 僕の腹に星川さんのお胸が当たってる! しかも風呂上がりのいい香り! うおっ、おおおっ! アソコがっ、アソコが疼くっ! 彼女の荒い吐息が僕のリビドーを加速させてどんどん元気になってゆくっ! とりあえずお尻鷲掴みしていいですか!?


 が、しかし、サウナにでも長居したのか星川美空のボディーがスクランブル信号を発信しているのは明白でお触り&スッキリどころではない。


 僕は星川さんの腕を肩に回し目の前の自販機で牛乳を購入。アームがウィーンとおもむろに牛乳瓶を掴み、取り出し口に落とした。緊急事態で一刻も早く飲ませたかったので、さっきまでは見ていて楽しかったその動作がもどかしかった。


 紙の栓を取り除き、星川さんを座敷に座らせて牛乳を飲ませる。星川さんはまともに口を利ける状態ではなく、口に含んだ牛乳の一部を飲み込めずに端からたらたらと滴り落としていた。



 ◇◇◇



「地獄を見た」


 小田原駅から旧型ステンレス製3ドア車の快速アクティー東京とうきょう行きに揺られ、茅ヶ崎駅に降り立った17時37分。ロングシートの電車はゆっくりと加速して、空の暗いほうへ突入してゆく。電車が信号機の横を通過して、青信号が赤信号に変わった。


 車内で寝ている間に調子を取り戻したのか、牛乳を飲む前以来初めて言葉らしい言葉を発した。その間は念仏のようにブツブツと何か声を発していたが、聞き取れなかったので、うんうんと、とりあえず相槌を打っておいた。


「どうしたの?」


「ちょっと色々あって」


「なに?」


「大丈夫」


「言ってくれるとうれしい」


「うそだ」


「うそじゃない。言ってくれないと哀しい」


「そういうもの?」


「うん、距離置かれるのつらい」


 けれど場所もあってか星川さんは会話を切り、再び口を閉ざした。


 心の距離や場所のみでなく体調やタイミングもあるだろうから無理に聞き出しはしないけれど、わびしさに胸が痛む。


 走り出した電車を横目に、数十人に紛れて階段を上がり、改札口を出てバス乗り場に降りるとちょうど東海岸循環のバスが停車していた。


 駐在所前で降りるならすぐ後ろの2番乗り場に停車している辻堂駅行きのバスが近道だが、なんとなく海が見たいねと合意して前者に乗車。


 ほとんど席の埋まったバスを降り、国道の歩道橋を渡って松林の切通きりとおしを抜ければそこは、もう何度眺めただろう夕暮れの渚。なぜかこの時間帯、夕焼けバックに波打ち際で大型犬と散歩しているひとを撮影するのが人気。


 ボードウォーク上にある小上がりほどの見晴台に腰を降ろし、さやかな波音を聴きながら西陽を浴びる。もうサーファーたちも引き上げて、江ノ島の灯台はその役目を全うし始める時間。そのやわらかな光が数秒おきに僕らの視界に入るけれど、決して眩しくはない。


「そうだ、物語、まだ見せてなかったね」


 うん、と返すと、星川さんは躊躇ためらいつつバッグからおもむろに自由帳を取り出して、俯きながら僕に差し出した。


 せなに夕陽を浴び、その陰るやわな姿は何か重たい荷物を背負っているようで、どうかそれを他ならぬ僕に痛みを分けてくれたらと、わがままながら切に願う。


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