転生男爵令嬢は手段を選ばない~騙される方が悪いんです~
※2025/12/08 大部分を改稿しました
「ごめん……なさい……お姉さま……」
「気にしないでフィオナ。無理しないでいいのよ」
「……うん」
私は寝台で苦し気に呼吸を続けている妹のフィオナを見て、胸が詰まりそうになった。
最愛の妹であるフィオナの苦しみをどうやったら取り除けるか、悩んでいる。
男爵家に生まれた私の名前はレイチェル。その2年後に妹が生まれた。
フィオナは天使もかくやという可愛さで、私は妹に夢中になった。お姉さんとして、この子を守っていこうと幼心に誓ったのだ。
しかし、フィオナは生まれつき身体が弱く、なかなか外を出歩くのすらままならない。
それだけでも大変なのに、もうすぐ15になろうとしている今、その体に重い病気が見つかったのだ。
医者が言うには特効薬はあるが、それを製造しているのは隣国で、とてつもなく値段が張る。
薬は高いし、それを取り寄せる費用も高い。そんな物をほいほい買えるほど、我が家は裕福ではなかった。
(お金が……足りないわ)
フィオナの額に乗せたタオルを濡らし直し、また乗せる。
辛い思いをしているフィオナの姿に、何もできない自分がもどかしかった。
医者に診てもらうのがぎりぎりで、薬にまでお金が回らない。
父も母も家を維持するのに手いっぱい。自分だってデビュタントを済ませているけど、その時のドレスは母のお下がり。新調するお金なんか無かった。
どうやったらお金を工面できないか、部屋にこもって考え続ける。
(こうなったら私が身売りするしか…いえ、お父様たちが許してくれないわ。お金持ちの貴族の愛人に?……それも無理ね。別段美人でもないもの。仮になれたとしても、それだけのお金を出してくれる保証もないわ)
悩みに悩み抜き、ついに一つの結論に至る。
「……やっぱり、もう詐欺をするしかないわ」
私には他の人と違う点があった。
それが前世の記憶がある点。ただ、それは大それたものではない。ほとんどが日常的な記憶ばかり。『すまほ』や『ぱそこん』など、使い方は知っていても、それ自体がないこの世界では何の意味もない。
けれど、その中に一つだけ役に立ちそうな知識があった。
それが詐欺だ。多種多様な詐欺にあふれた前世の世界の知識を持っている。もっとも、私の前世は別に詐欺師でもなんでもない。詐欺が詐欺だと見抜けるよう、最低限の予備知識として学校で教わる程度。
けれど、それだけで十分だ。
この世界であれば、それほど詐欺がまだ蔓延しておらず、簡単に騙せるはずだと思う。
(バレたら……なんて考えてる暇はないわ。もうフィオナには時間がないんだから)
日々命の灯が短くなっていく最愛の妹。その命をつなぎとめる事さえできれば、自分なんかどうでもいい。
最悪の場合は、自分の命で償えばいいのだから。
家族を悲しませることになるかもしれない。妹を泣かせてしまうかもしれない。
それでも、だからといって自分だけがのうのうと生きて、フィオナが死んだ未来なんか考えられなかった。
苦渋の決断の末、犯罪に手を染める覚悟を決め、早速行動に移る。
狙いは仮面舞踏会だ。あそこなら互いの素性を探る真似はしないし、投資話が飛び交っていると聞いたことがある。そこで投資をしたがっている金持ちの貴族を、詐欺にかけて金をだまし取ろうと考えた。
仮面舞踏会に詳しい伯爵家の令嬢に、招待状を融通してもらった。
いよいよ当日。日中忙しくしている両親は、夜はぐっすりだ。その隙に、母のドレスをこっそりと持ち出す。
私は母と少しだけ体型が違い、少し胸が大きい。だから、母のドレスを着ると胸のあたりがきついけれど、その分胸を強調した形になる。嫌だけど、男性の視線を集めて人寄せができれば話を持ち掛けやすいはずだ。
利用できるものは何でも利用する。犯罪を犯すと決めたのだから、いまさらこの程度で躊躇ってなんかいられない。
寝静まった男爵家の屋敷を抜け出し、こっそり仮面舞踏会の会場に向かった。
会場に着くと、案内状を受け付けの人間に見せ、中に入っていく。
顔には、友人から借りたマスクをかぶった。口許だけを見せるデザインなので、私だとは分からないだろう。
決してバレてはならない。バレたら、私はおろか家族もどうなるかわからないのだから。
会場にはすでに多くの仮面を着けた人たちがいた。
初めての仮面舞踏会。その異様な雰囲気に、知らず喉が鳴る。
緊張で足が震えるし、帰りたい。覚悟を決めたはずなのに、心はまだ迷っていた。
(ここで負けちゃダメよ!フィオナのために、なんとしてもお金を稼がなくちゃいけないの!)
気合を入れると、艶のある笑みを意識して口元に浮かべ、金を持ってそうな貴族を探し回った。
そして、いかにも金を持っていそうなゴテゴテと装飾品を身に着けた男性を見つけ、声をかけた。
「ねぇ、ちょっとよろしいかしら?」
「ん、何かね?」
「実は今、とっても儲かっている投資話があるの。あなたも出資してみない?」
「ほう?聞かせてもらおうか」
予想通り、男はすぐに食いついた。
今からこの男を騙すのかと思うと、心が軋み、おじけづきそうになる。
(逃げちゃダメよ、フィオナを救うためなんですもの!ほら、しっかり笑顔を作るのよ、私!)
手を強く握りしめて口元の笑みを保つ。
詐欺をするには自信をもたなければならない。少しでも不安そうな気配を見せれば、投資を躊躇ってしまう。
自信をみなぎらせ、絶対に大丈夫だと確信させなければいけないのだから。
「中身は外国からの輸入業。今出資してくれれば、月1割の配当が得られるわ」
「……1割だと?」
男の目がぎろりと鋭くなる。
怪しむ気配が強くなった。
(当然よね、1割なんて破格だもの。怪しむのは当然。でも、ここからよ)
男の目つきに気圧されないよう、しっかりと姿勢を保つ。
ドレスに隠れて見えない足が震えているけど、それは表情にはおくびも出さない。
目つきなど意に介さず、如何にこの投資がすばらしいかだけに意識を集中させる。
「ええ、すごいでしょう?実はまだ正式に国交を結んでいない国が取引先なの。だからすごく珍しくて、高値で取引できる。でも、いずれ正式に結べば価値は暴落するでしょう。まさに今だけなのよ」
「ふむ……どの程度だ?」
「一口5万リルね」
「ほう……」
5万リルは、王都の市民街に一軒家を建てられる額だ。成金貴族なら、一月で稼げる金額。
これ以上多ければ投資を躊躇ってしまうだろう。
かといって少ないと、それだけ出資者を増やさないといけず、バレるリスクを高めることになってしまう。。
この額が、投資のしやすさと出資者のリスク、ぎりぎりのバランスだと踏んだ。
多すぎず、少なすぎず。その塩梅に、男は悩んでいる。
(それじゃあ、ここでダメ押しよ)
半歩踏み出し、そっと男との距離を詰めた。男からタバコと酒、キツイ香水の匂いが漂ってきて思わず鼻をつまみたくなった。
それをなんとか耐え、男にだけ聞こえるよう、耳元でそっと囁く。
「それに……この話にはディベス公爵家も関わっているのよ」
「…!ほう」
男の目の色が変わった。引っかかったと思いながらも、背中にはたっぷりの冷汗をかいている。
ディベス公爵家は、国の三大公爵家の一つ。ただ、他の公爵家と違い、ほとんど表舞台に出てこないので有名だ。当主が社交嫌いとか、いろいろな憶測があるものの、大事なのはその家の人間を誰もほとんど知らないのだ。
だからこそ利用できるとは踏んだ。
投資にはネームバリューが必要だ。「あの人が投資しているなら大丈夫だ」と思わせるために。
ディベス公爵家なら、当人にまで話が伝わらないと考えた。
その前に引き上げるつもりだし、なんとかなるはずだ。
ディベス公爵家の名が効いたのか、あっさりと男は出資を決めた。
「この話はまだ秘密ですよ?競合相手が増えては困るのだから、ね?」
「ふふっ、分かってるさ」
金を受け取るための口座を連絡し、さっさとその場から退いた。
帰宅すると部屋で一人、誰かに聞こえてしまいそうなほどに大きな鼓動音を奏でる心臓を抑え、荒く呼吸を繰り返す。
「はっ……はっ……はっ…!」
(や、やってしまった…!もう、これで何の言い逃れもできない……)
極度の緊張感から吐き気がこみ上げ、トイレに飛び込んだ。胃の中をすべて出しても、全身の不快感は消えない。
硬いベッドに横になっても、一向に気分は変わらなかった。
ついにやった。人を騙した。
投資の話をあの男が本当に信じたとすれば、期日には金が振り込まれるだろう。
それでフィオナを助けることができる。そのために必要なんだと、何度も自分に言い聞かせた。
(そうよ、私は家族を助けたいだけ……きっと、神様だって見逃してくれるはずだわ)
しかし、眠ろうとしてもなかなか眠れない。
どんなに言いつくろっても、心は真実を知っている。誤魔化されてくれない心は、何度も私にやめろと叫んでいる。
結局その日は人を騙した罪の意識にさいなまれながら、夜明けを迎えてしまった。
後日、本当に金が振り込まれたのを確認。これで薬が買える喜びと、本当に詐欺を働いてしまった罪悪感に板挟みになる。
逃げ出したい衝動に駆られる。
もうこんなことをすべきではないと、良心が訴えてくる。けれど、自分よりももっと辛い思いをしているフィオナを思うと、くじけていられないと気合を入れ直した。
(まだ…まだよ!フィオナが完治できるだけの薬を買うにはまだ足りない。もっと投資してくれる人を増やさなければ)
一月後。
私は投資した男に5千リルを渡した。男は本当に配当が来たと喜んでいるが、単に投資額の一割をそのまま返金しただけ。
その名はポンジスキーム詐欺。ただ投資で集めた金を配当と偽って支払い、ひたすらに投資者を集めて金をだまし取る詐欺の手法。
その後、喜んだ男がこっそり秘密の投資と言って他の金持ちにも声を掛けた。
男の成功体験に乗り遅れてはならないとどんどん金が集まる。その金の一部をまた配当と称して返し、妹のための薬を買った。
フィオナは薬を飲み、少しずつだが体調に改善の兆しが見え始めている。
両親は喜ぶも、私がどこからその薬を持ってきたのかをいぶかしんでいる。
知り合いの医者が、「気休め程度だが効くかもしれない」と、薬を格安で分けてもらっているだけと言い訳した。
「少し、顔色が良くなってきたわね」
「本当に?お姉さまの持ってきてくれた薬のおかげね」
フィオナの顔色は少しずつだが血の気が戻っている。
薬が効いているのは嬉しい。
けれど、この瞬間にも私の心は罪悪感で悲鳴を上げ続けていた。
辛い、やめたい、逃げたい。
もう仮面舞踏会に行きたくなかった。
行く前日には、水しか喉が通らない。何を自分はしているんだろうかと、頭がおかしくなりそうだった。
そんな私の変化に、フィオナも気付いてしまったようだ。
「……私よりも、お姉さまは?なんだか少し痩せた気がするわ」
「そんなことないわよ。お姉さまはいつだって元気だもの」
そう言って、フィオナがこれ以上心配しないよう、元気な笑顔を作ってみせる。
フィオナはまだ気になるようだったけど、「……うん、そうだね」と言った。
詐欺を始めてから、あまり物が食べられない。
いつ詐欺がバレてしまうか不安で気が休まらず、食べても戻してしまうことが多い。
両親もレイチェルの変化に気付いているが、笑ってごまかした。
(まだ……まだよ。薬代が溜まるまでの辛抱だから)
出資者が増え、金も貯まっている。
そろそろ姿をくらます頃と思ったところに、怪しい男が接触してきた。
「やぁお嬢さん。私も、一口かませてもらえないかな?」
その男は、仮面舞踏会には似つかわしくないほどに気品にあふれていた。
仮面から見える髪は煌めく金に彩られ、目元はみえないが顎のラインは細い。口元はうすい唇がなんとも艶やかで、それだけでも男がすばらしい美貌の持ち主だと分かった。
いいようのない寒気を感じる。
何人もの金持ちから金をだまし取り、ようやく冷汗もかかなくなってきた。気分は最悪だし、詐欺に慣れても全く喜ばしくないけど、バレるリスクを下げられるのならと気にしなかった。
それなのに、この男を前にしたらまた冷汗が止まらない。
(な、何この方!?すごくイヤな予感がするわ!)
この人と関わってはいけない。
そう察し、今日はもう撤退すべきだと判断した。
「残念ですが、もう枠は空いておりませんの。次回にしていただけるかしら?」
「そうか、それは残念だね」
男は少しも残念そうには感じさせない声色で、諦めた。と思いきや、そっとレイチェルの耳元で囁く。
「ディベス公爵家としては、ぜひとも君の話を聞きたいなぁ」
「っ!!??」
背筋が凍った。
ディベス公爵家。投資の知名度を上げるために利用した、表にほとんど出てこない公爵家。
接触してくることはないはずだと思ったのに。予想をはるかに上回る早い登場に、恐怖と不安で体の自由が効かなくなった。
ドレスに隠れた脚はがくがくと震え、口はひきつってしまう。
(うそ……まさか、本物…?ま、まずい……早く逃げないと!)
しかし、すでに遅かった。
男の手がレイチェルの手首を掴んでおり、その手からは絶対に逃がさない意思を感じる。
男に促されるまま会場を後にし、奥の部屋へと向かう。
その道中は、まるで処刑台に連れていかれる罪人のような気分だ。
震える足のせいで、歩くことすらおぼつかない。
「座って」
男は先にソファーに座り、隣に座るよう促してくる。
けれど、とてもではないが並んで座る度胸はない。
「すみませんでした!!」
すぐさま土下座した。
床に這いつくばり、地面に頭をこすりつける。この男が本当にディベス公爵家の人間なら、これで許してもらえるわけがない。そう分かっていても、もうそうするしかなかった。
「投資話で金をだまし取り、受け取った金をそのまま配当として還す。それで投資がうまくいっていると喜んだ出資者が他の人にも声を掛け、どんどん増えていく。よくもまぁ考えたね」
(ぜ、全部バレてる!!)
この世界ならまだバレないと思っていたら、あっさりと看過されてしまった。
冷汗が止まらない。変な動悸も収まらず、もう生きた心地がしなかった。
(一体何者なの?もしかして、本当にディベス公爵家の人なのかしら?ああ、どうしよう。家ごと取り潰しになったら、お父様にもお母様にも、フィオナにも申し訳が立たないわ。なにより、フィオナの病気の薬が……)
追い詰められ、何を考えたらいいか分からない。でも、そこでふと顔にまだ仮面を着けていたのを思いだした。
(そうだ、まだ仮面を着けてるから、正体がバレたわけではないはず!ここは何とか逃げ切って、しばらく大人しくしていればどうにかなるはずだわ)
一縷の望みをかけ、この場をどうにかできないか必死に頭を巡らせる。だが、そこに無慈悲の一言が振り下ろされた。
「どこでこんな手法を聞いたんだい、レイチェル男爵令嬢?」
「ひっ!?」
呼吸が止まる。背筋は凍り、体の震えも止まらない。
正体がバレているだなんて、思いもしなかった。もう逃げられないと、もう全てを諦めた。
(もう無理だわ、バレているんじゃどうしようもないもの。なら、せめて家族にだけはなんとか……!)
顔を上げる。バレているのなら不要と仮面を外し、素顔も晒した。
そして男へと顔を向け、涙ながらに懇願した。
「お願いします!家族にだけは言わないでください!悪いのは全て私なんです!なんでもします、どんな罰も受けます!だから、どうか…どうか家族だけは!」
すると、仮面からのぞく男の口元がにやりと歪んだ。
「そう、何でもするんだね?」
「っ……は、はい」
自分で言い出した事だけど、男から言われると身体に恐怖が走った。
「さて……どうしてもらおうかな?」
そう言って、男は沈黙した。
何もしゃべらず、部屋は静かなはずなのに、自分の鼓動だけがやたらと耳に響く。まるで裁判で判決を言い渡されるのを待つ罪人のようだ。事実罪人であり、目の前の男は裁判官。
早く何か言ってほしい。ただの沈黙が、こんなにも恐ろしいものだなんて、思いもしなかった。
どれほど待っただろうか。
ついに男が口を開いた。
「そうだね、我が家で働いてもらおうか」
「…………ふえっ?」
思いもよらない内容に、間の抜けた声が出てしまった。
(我が家で働く?それって、何をするのかしら?いやそうじゃなくって。私、許された?)
本当に私は許されたんだろうか。家族にバレずに、迷惑をかけないでいられるんだろうか。
それだけが確認したくて、男に尋ねた。
「あ、あの……許して、いただけるんですか?」
「まぁね。君の事情を知らないわけじゃない。いくら犯罪に手を染めたとはいえ、その事情には情状酌量の余地がある。その分、君にはしっかり働いてもらうけど」
(ほ、本当に許してもらえた…!)
身体から一気に力が抜ける。
極限にまで高まった緊張が解放され、こんなにも心が晴れ晴れとしたのはいつ以来だろう。
詐欺を始めようと思った時、いやそれ以前からフィオナの病気が分かってからずっと緊張しっぱなしだった心が、今この一瞬だけでも穏やかさに浸ることができた。
そして、そこで私の意識はぷっつりと途切れた。
「………ん」
ふと、目を覚ました。
「ん~……」
のそりと体を起こし、広がる光景に目を瞬かせた。
「……えっ、どこ?」
寝ていたのは今まで触れた事がないほどに滑らかな質感のシーツに布団。部屋は白を基調とした壁紙が張られ、各所に見るからに高価そうな家具や調度品が置かれている。
部屋自体も、実家のリビングの倍ほどに広かった。
(えっ、えっ、どこなのここ!?なんかすごく豪華そうな部屋なんですけど!?あ、しかもなんか着てるのも知らない服……うわ何この手触り、すごく柔らかいし、すべすべしててずっと触っていられるわ)
いつの間にか着ていた寝間着も、間違いなく高級な代物だ。
自分の身に一体何があったのか。
部屋を見渡していると、ある一点で目が止まる。
「あ…………ああああああ!」
そこにあったのは、仮面舞踏会に行くために着ていたドレス。
それを見て、すべてを思いだした。
(そうだ、昨晩は仮面舞踏会に参加して、そうしたらディベス公爵家の人が現れたんだわ。そうしたら素性も全部バレてて…)
あの後、許された解放感で緊張しっぱなしだった心は、スイッチを切ったように気絶してしまったのだ。
そして今に至る。
しかし、思いだしても、この部屋には見覚えがない。
そこにちょうど、部屋のドアをノックする音が響いた。
「すみません、もうお目覚めでしょうか?」
「は、はい!」
外にいるのは女性みたいだ。
レイチェルの返事を受けて、ドアが開いた。
部屋にお仕着せを着た少し年嵩の女性が入ってくる。
女性はレイチェルを認めると、ゆっくり頭を下げた。
「私、レイチェル様のお世話を任されましたマリーと申します。以後、よろしくお願いいたします」
「は、はい」
レイチェルも怖々としながら頭を下げた。
貧乏男爵家だったので、レイチェルの周りには侍女はおらず、日雇いの女中が1人いるだけだ。その人も、家人よりも屋敷の掃除や管理がメインであり、レイチェルは身の回りのことは自分一人で行っていた。
誰かに世話をされるなど未知の体験であり、どうすればいいのかわからない。
「お立ちになれますか?」
「はい、大丈…夫です」
マリーに言われ、レイチェルはベッドから床に降りた。
上品な黄色のワンピースを着せられ、「これを私が着ていいんですか!?」とマリーに確かめた。
「もちろんでございます。旦那様がご用意された服ですので」
「旦那……様?」
「……しばしおかけくださいませ。今旦那様を呼んでまいります」
そう言ってマリーは出ていった。さらっと淹れたての紅茶を置いて。
温かな湯気が上る紅茶を前に、喉が渇いているのに気付いて早速飲んだ。
芳醇な香りが鼻を抜け、知らず息を吐いく。
起き抜けで右往左往していた気持ちが、やっと落ち着いた気がする。
(結局、ここがどこなのか聞きそびれたわ。それに旦那様って……昨晩のあの男性はどうなったのかしら?いえ、それよりも投資の件も……)
何を考えていいのかすら分からなくなり始めた頃、部屋に男性が訪れた。
さらりと揺れる金髪に、澄み渡った空のような青い瞳。顔立ちは整っており、顔のラインも細くてどこにもゆがみがない。
とんでもない美丈夫の登場に、背筋を正す。
「ようやく起きたようだな」
「はい……えっ?」
その男性の声に聞き覚えがあった。ついまじまじと顔を見つめていたら、彼はおかしくなったのか、噴き出した。
「そうか、仮面を取った顔を見せるのはこれが初めてだったね。どうもレイチェル。昨日あなたに声を掛けた男だよ」
「っ!!」
そう言われ、ようやく合点がいった。
そうだ、確かにあのときの男性と一緒の声をしている。
しかし、その男性がここにいて、しかもさっきは「旦那様」と呼ばれていた。
ディベス公爵家の関係者だろう男性だが、一体この方は何者なのか。
それが分からないのが、不安を掻き立てる。
「さて、どこから話そうかな。……面倒だ。要点だけ話そう」
「お願いします……」
要点にまとめてもらえるのなら、こちらとしてもありがたかった。
「まず、私はディベス公爵家の当主、ブラッドリー・ディベス。今年で26だ」
「えっ」
「君の投資詐欺の件は、ディベス公爵家としてまとめて引き受ける。だまし取った金は全てうちで返すし、投資の件もこちらで終わった事にしておく。君の罪はない」
「は」
「君の妹の病気にかかる薬代も、うちで面倒を見よう」
「ほっ…!」
「ただし、君にそれに掛かる全てを体で払ってもらう」
「なっ……」
あまりに要点だけまとめられすぎだ。
逆に何を言っているのか、さっぱりわからない。
(投資の件は無かった事にしてくれる?それにティアナの薬代も出してくれるって……えっ、そこまでしてもらって私だけでいいの?)
まるで取引が成り立っていないのではと思った。
自分にそんな価値があるとは思えない。
いや、それよりももっと重大な点があった。
「こ、ここ公爵家の当主様ぁ!?」
「うん、そうだよ?」
レイチェルの動きは早い。
すぐさま床に降り、頭を下げた。
もはや土下座は名人芸の域に達している。
「申し訳ございません!その、勝手に名前を使ってしまって…!」
「あはは、君ってほんとに面白いね。土下座はいらないからちゃんと座って?」
「は、はひ……」
そう言われては、床にいるわけにもいかない。
おそるおそるソファーの座り直すも、目の前には天上人たる公爵だ。まともに見れるわけがなかった。
「ふふっ、本当に面白いね。まるで昨晩とは別人のようだ。詐欺にかけようとした男たちの前では、もっと堂々としていたじゃないか」
ニヤニヤとそう言われて、羞恥で顔がすぐに熱くなる。
あれは演技で頑張っていただけで、本当の自分なんかではないのだ。
まるで、余所行きの自分を家族に見られたような、気恥ずかしい気持ちになった。
「それは…!忘れて……ください……」
「まぁそっちはいいとしよう。で、明日からこの屋敷で働いてもらうから」
「あ、明日からですか?」
「何か問題でも?」
「いえ、そう、ではないんです、が……」
本当に自分がここで働いていいんだろうか。しがない男爵家の令嬢ごときの自分が、公爵家で働くなど畏れ多いとしか思えない。
それとも、そんなにも公爵家の使用人は高級取りなのか。だとすれば、返せるとブラッドリーが判断したのかもしれない。
そもそも、私にはそんな技量はないのだ。技量もないのに高給が支払われるわけがない。
そう思うと、やっぱり不安になってきた。
「何か気になるなら言ってごらん?」
「……その、私ごときが働いたところで、公爵様にお返しできるとは思えなくて…」
「つまり、返す気がないって?」
「そ、そうではありません!ただ、公爵様に与えていただいた恩に、私が返しきれるのかと……」
「ああ、もちろん死ぬまでだよ?」
「えっ」
「わが家を騙った罪、投資金の返済、薬代。ちょっとやそこら働いた程度で返せるわけないじゃないか。君は死ぬまで、この屋敷で働くんだ」
ブラッドリーの言葉に、しばし唖然としてしまった。
しかし、その意味をようやく理解したとき、私の顔に浮かんだのは笑みだった。
「死ぬまで働かせてもらえるんですか!?」
「うん、そっち?」
「ぜひとも働かせてください!何でもします!」
「ん?今何でもって言ったね?」
「はい!」
何でもしよう。掃除洗濯炊事買い出し……後は何だろう。庭の整備?
とにかく、フィオナの病気を治すためには何でもすると決めていたのだ。
それが違法なことではなく、合法的な方法になるのなら、これ以上に喜ばしいことはない。
むしろ、そこまでの恩を与えてもらえるのだ、何でもしなくてはむしろこちらの気が済まない。
「何でも、だね?」
「はい!」
重ねて確認してくるブラッドリー。
しかし、女に二言はないとレイチェルは力強く頷いた。
元より、詐欺をしてティアナを救えたとしても、その後は真っ当な人生を送れるとは思っていない。
それに比べれば、なんてまともな人生になるのか。
(もしかしたら、もう二度と家族と会えなくなると思っていたから)
投資の金を持ち逃げすれば、投資した人たちは絶対に自分を探そうとするだろう。
万が一見つかれば家族にも迷惑がかかる。だから、金が溜まったら、家族の前から消えるつもりだった。
そうしなくていい。それだけでも、嬉しくてたまらない。
病気が治れば、かわいいフィオナだ。きっとすぐにでも婚約者ができるだろう。体は弱いけど、なんとかなるはず。
そうなれば、結婚だってする。妹の結婚式に出られるなんて、考えただけで嬉しくてたまらなくなる。
その可能性を、ブラッドリーが作ってくれたのだ。
彼には感謝してもしきれない。
文字通り、何でもしよう。彼のために。
「死ぬまで働かせていただきます!」
「はい、じゃあよろしくね」
レイチェルはブラッドリーと握手を交わした。
彼の、本当の狙いも知らずに―――
***
「うーん、面白い娘だなぁ」
一旦レイチェルを実家の男爵家に帰し、ブラッドリーは執務室で伸びをした。
(あんなところでこんなにも面白い女性と出会えるなんて、ツいてるなぁ)
その女性とはもちろんレイチェルだ。
ブラッドリーは昨晩の出来事を思いだした。
きっかけは部下からの調査報告書だ。
何やら、仮面舞踏会でディベス公爵家お墨付きの投資が盛り上がっているらしい。
当然そんな話に覚えが無く、ブラッドリーは公爵家の名を騙る詐欺だとして早速調査を始めた。
(いくら表に出ないからって、我が家を騙るなんてどんな人物やら)
ディベス公爵家は家の役割の都合上、ほとんど社交界に姿を現さない。
王族以外はほとんど見た事がないと噂が立つほどだ。
それはディベス公爵家は王宮の暗部を担当する、いわが影の存在だからだ。表に立たず、秘密裡に調べ、処理する。それがディベス公爵家の役目。
そんなディベス公爵家の名を騙るとは、喧嘩を売っているにひとしい。
ブラッドリーは嬉々としながら部下に調査させた。
しかし、その調査結果にブラッドリーは肩透かしを喰らう。
「……これで終わり?」
「はい」
信頼している部下の迷いない返事に、ブラッドリーはため息を吐いた。
ディベス公爵家の名を騙っているのは、しがない男爵家の令嬢だった。
さぞ私利私欲に走っているかと思えば、病弱の妹の薬代のためだという。
しかもそれ以外にはほとんど使っておらず、仮面舞踏会に参加するためのドレスを用意する程度だ。
愛する家族のため、犯罪に手を染める麗しき家族愛。
美談だが、どんな悪党かと期待していたブラッドリーにはつまらない結果だ。
とはいえ、やっている事は罪に違いない。
公爵家の名を騙り、貴族の金をだまし取る。
その金額は決して小さくない。今はまだ配当として配っているが、それが止まれば詐欺事件として成立する。
(まぁせっかくだし、ご尊顔を拝んでおこうかな)
そう思い、ブラッドリーは仮面舞踏会に潜り込んだ。
そこで、金持ちに投資の話を持ち掛けるレイチェルの姿を見つけた。
男を誘う、胸を強調したドレス。唇には紅を引き、艶やかな紫の髪も美しい。
(なるほど、大した演技だね)
見た目だけなら、貧乏男爵家の娘とは思えない、自信に満ち溢れた姿だ。
しかし調査から、実家では嘔吐を繰り返すなど精神的には未熟だと結果が出ている。
本来は心優しい少女なのだろう。
しかし、愛する家族のために罪を犯し、それに心も体も苛まれている。
そう思うと途端に興味が湧いてくる。
ブラッドリーは彼女に接触しようと近づく。
それまで男たちに囲まれても堂々としていたレイチェルが、見るからに動揺したのが分かった。
(ぼくを知っている?いや、それはないはずだ)
逃げようとしたのが分かったので、耳元でディベス公爵家の名を出し、腕を捕まえた。
部屋に連れて行くと、彼女は見事なほどに鮮やかな土下座を披露したのだ。
そんなレイチェルを見ていると、ブラッドリーの心に同情心が湧いてくる。
彼女は自分のやっている事の罪の重さは分かっている。それでも、妹のためにと体を張っているのだ。
家族のため、そこまでひたむきになれる人間を、ブラッドリーは知らない。
(ここで終わらせるには惜しいな)
彼女を詐欺として引き渡すのは簡単だ。
しかし、そうするにはあまりにも惜しい人材に思えた。
現時点では、まだ詐欺は成立していない。
レイチェルが金を持ち逃げすれば詐欺となるが、今なら金を全額出資者に返せばなかったことにできる。
ならば、自分がその話を無かったことにし、彼女の身柄は自分が預かる。
(それがいいな。使用人は足りているが、余っているわけでもない。そうすれば、ずっと見ていられ……何を考えているんだ、ぼくは)
何だろう。
レイチェルのことが妙に気になっている。大して美人というわけでもないし、なにかしらの技量が優れているわけでもない。
詐欺の手法は見事だが、それだけだ。
気になる理由は分からないが、ブラッドリーはそれを無視した。
我が家で働いてもらうと言ったら、彼女は気絶してしまった。
気絶するほどイヤなのかと思ったが、直前の反応からして安堵で気絶したんだろう。
まさか安心して気絶した人間など、初めてだ。
気絶したレイチェルを抱えて公爵家の屋敷に帰還。
レイチェルをマリーに任せ、自分は彼女を手のうちに落す作戦を段取りした。
ディベス公爵家の名を騙ったのは水に流し、投資の後始末を全て請け負う。彼女の妹の薬代も肩代わりし、何一つ憂いなくこの屋敷に住まわせる。
ディベス公爵家の資産をもってすれば、この程度造作もない。
そして当人に話をすれば、怯えるどころか前向き…いや、前のめりだ。
全てがうまくいったとほくそ笑み、明日からレイチェルがこの屋敷で働くのを楽しみにしている自分に気付いた。
(やれやれ。ぼくよ、お前は一体彼女に何を期待しているんだ?)
自分の心が分からないまま、それでもブラッドリーは明日を待ち望む心に素直に自分を預けた―――




