1-13-2.借りた本に仕組まれた罠
「実はさ、私、ゼルから話を聞いてたんだよね」
「え? ゼルさんから?」
搔い摘むと、ミスティの話はこうだった。
先週、ティリルが酩酊状態でエレシア堂から帰ってきた翌朝。散歩の途中で出会ったゼルは、ティリルから、何かの薬物の残り香が漂うのを感じ取っていた、という。
「薬物とか何をバカなって思う反面、あの日のティリルの様子がおかしかったのは私も感じてたしさ。だけど、証拠もないのにティリルの友達を疑うってのも嫌な話じゃない。だから先週の朝は、とりあえずティリル一人でその食堂に行くのを邪魔しようっていろいろしてたのよ」
腑に落ちた。休みだっていうのに、ミスティが得意でもない朝食の準備をしてくれていたこと。唐突に服を買いたいと言い出し、それに付き合ってくれと半ば無理矢理に誘ったこと。
「……でも、手遅れだったね。もう少し早く気付いてあげられたら、こんな結末にならなかったのかも」
ほっと、胸を撫で下ろした。謝られた理由が、何だそんなことか、と急速に体の力が抜ける。安心のあまり、思わず腹を抱えて笑みこだれてしまったほどだ。
「な、なによう。なんで笑うのよ」
「あは、あはは……、ごめん、その、ほっとしちゃって……。だって、あんなタイミングで深刻な顔して謝ってくるんだもん。ミスティも私に薬を飲ませたことがあるのかってびっくりしちゃって」
「あ、あるわけないでしょそんなの! 人のことなんだと思ってるの!」
ごめんごめん。笑いながら謝るティリル。頭を下げていたミスティが、一瞬で怒る側に回っている。それが、何だか可笑しくて、その後しばらくティリルは腹を抱えていた。
学院長室でのアルセステ達の話を聞くに、彼女たちがラクナグを追い遣った主な罠は二つ。ティリルの下着と、授業への遅刻だ。
あの日、ティリルとラクナグは、偶然にも揃って遅刻した。偶然のはずがない。アルセステがティリルの着衣を手に入れた途端、そんなに都合の良い偶然が起こってたまるものか。そうでなくても、そう。あの前日は、ティリルに本を貸してくれるような慣れないことをしていたのだから。
「……っ! そうだ、本だっ!」
意を得たとティリルは、次の瞬間には、引き出しにしまってあった借り物の本を手に取った。機会があったら返してしまおう、と思いながらまだ彼女に会うタイミングがなかった、小さな青い表紙の本。
何か仕掛けがあるならば、この本が手許にあるのは僥倖だ。どんな仕組みかはわからないが、何かが仕組まれていることがわかれば、アルセステがティリルを陥れた証拠になる。
そう思い、これもまたゼルに聞いてみる。
ミスティから聞いたのか。その節はごめんな。ゼルの挨拶もそこそこ、その本を見せるや彼は眉を顰め、うわ何だこれ、と絶句した。
「何か、ありますか?」
「何かあるってもんじゃないな。本全体が、薬物の塊だ。何を考えてこんなもの作ったんだって感じだよ」
ぞくりと背筋が寒くなって、ティリルはミスティの顔を見た。恐らく真っ青になっているだろうティリルの表情とは裏腹に、親友は顔を真っ赤にして怒りを抑えている。
「具体的にはどんな風に? それを読むとどうなるわけ?」
そして、声音自体は非常に穏やかな調子で、口を開いた。
「うん、いや、……これだけ手の込んだもの作った割には、そういう意味では効果は薄そうだよ。この本を持ってたり読んだりしたところで、薬物中毒になったりすることはまずないと思う。そうだな、長時間集中して読み込んだとして、軽い高揚感とか浮遊感とかが出てくる感じかな。まぁ個人差あると思うけど、危険な感じでは全然ないと思うぜ」
「そう……。じゃあ、何がどう手が込んでるのよ?」
「うん、多分これは、薬物をインクだかページの紙だかに擦り込んでるみたいだな。
本来この手の薬は、そういう種類の植物の汁を原料にしていて、粉末状にして吸引したり水に溶かして飲んだりするのが普通だ。この本の場合は、その薬を、文字を印刷したインクに混ぜ込んだか、後からページに塗したのかして、読んでいくうちにほんの少しずつ体内に吸収しちゃうように仕掛けてある。そんな感じだよ」
「そんな都合のいい仕掛けができるわけ? インクに塗して粉末をかがせるなんて、どうすりゃできるのよ」
ミスティの目が鋭く吊り上がる。お、俺を睨むなよ。怯むゼル。確かにこの図、ミスティがゼルを恫喝しているようにも見える。
「もちろん、実際にやるには魔法で状態を補う必要があるだろうな。インクに混ぜ込むとするとどんな技術が必要なのか俺にもよくわかんないけど、ページに擦り込むってのは、乱暴に言えばページの上からがばっと大量の粉をかける印象だろうな。その状態でその本を読もうとすると、嫌でも粉を吸っちゃうだろ」
「でも、そんな状態じゃ本自体読めないでしょ」
「だからさ。実際にはこの本は、粉がバレない程度に薄ぅく塗られてる。そして、吸着力を補うために、あるいは本を開いた時には効果がちゃんと飛び散るように、固着の程度を補う魔法がかけられてるんだ。風と地の応用魔法ってとこかな。多分だけど……」
わかったような、よくわからないような、奇妙な話だ。
とりあえずティリルとしては、そんな絶妙な魔法技能と製本技術で、この本が読者を陥れる目的で作られた、とそれだけ解釈した。
「でも変じゃない?」ミスティが腕組みをする。「こんな方法で麻薬を吸引する方法があるなら、もっとそんな話が広まっててもおかしくないと思うんだけど。これが禁止薬物かどうかは知らないけど、禁止薬物だってこの方法でもっと広められるわけでしょ? 大体この本、下手すりゃ麻薬に何の縁もない善良な一般市民を薬物漬けにできちゃうじゃない」
「それが、この本の奇妙なとこでさ」ゼルが右手の指一本を立て、内緒話でもするように、ミスティの目を見つめた。「大仰な技術を使った割に、この本で得られる効果は非常に薄いんだ。麻薬中毒じゃ、こんな本何時間眺めていても満足しないだろうし、薬物に縁のない人たちでもこの本で中毒になることも多分ない。幼児とかだったらわかんないけどね。
だから、この本を薬物使用の目的で活用するのは難しい気がするんだ」
「じゃあ何のためにこんなもの作ったのよ」
「さあ。俺に聞かれてもさ」
真っ当な答えだ。ミスティがどれだけ、怒りに思考を曇らせているかがわかる。
そう、問わずとも、ティリルですらわかるのだ、わざわざ目の前にいるゼルに、無闇な問いかけをする必要はない。
「アルセステさんたちは、この本を使って私を寝坊させ、ラクナグ先生と同じタイミングで授業に遅れさせたんですね」
噛み締めるように呟いた。
今にもゼルの胸座を掴みそうだったミスティが、ふと我に返った顔をした。ぽかんとこちらを見、そっかそうだね、と今気付いたような声を出した。
確認せずとも、そんなことはわかりきっている、驚きなのは、たったそれだけの目的のために、こんな大層なものを用意して、しかもティリルの手許に易々と貸し出した、ということだ。
「てことは、同じ日にラクナグ先生を遅刻させるための仕掛けも、何かあったはずなんだ」
ミスティが付け加える。
そうか、とティリルも得心した。そういえばあの時師は言っていた。『不自然に、外の鐘の音に気付かなかった』と。そこにどんな魔法が、どんな薬物が、あるいはそれ以外の何かが仕組まれていたかわからないけれど、何かはあったはずだ。
彼らの手口が、少しずつ紐解かれてきた。その実感があった。




