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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第十節 ある日のエレシア満腹堂
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1-10-6.初めてされたセクハラ






「……ど、どうかしましたか?」


「…………いや」


 ゼルは説明をしない。顎を右の親指と人差し指で撫でている。そしてベンチの隣から、眉間に皺を寄せながら、ティリルのことをじっと見つめているのだ。


 なんだろう。何か、自分の頭にキノコでも生えているのだろうか。益体のない不安に駆られ始めたタイミング。目許を歪めて自分を見ていたゼルが、ようやく一言。


「……今日はずいぶん、開放的な格好をしているんだね。ついつい興奮しちゃうよ」


 赤面した。


 いつの間にか、ゼルの視線が少し下、自分の胸元辺りに移動していた。


 反射的に、両腕で胸を隠す。そうだ今日は、いつもワイシャツの下に着ているような薄手のシャツを一枚着ている限りだった。窮屈だったので、胸当て下着も着けていない。


 ティリルの胸の高さまで下りてきたゼルの顔が、上目遣いにこちらを見て、にんまりと笑った。


「ちょっ、……ゼ、ゼルさんっ! ど、どうしてそんなこと言うんですかっ?」


「え。いやだって、本当のことだしさ」


 熱くなった顔を扇ぐ余裕もない。両の腕は、自分の薄っぺらい胸の上から外せない。


 物語に読む、若い男女のやり取りなどは文章では知っている。だが、自分のことを女として見てくる異性がいるという状況は、実感を持って想像したことがない。唯一身近にいたウェルには、色気がないと馬鹿にされるばかりで、それはその通りだと自分でも思っていた。


 ルースのように見境なく遊びの誘いをかけるでもない、ティリルに対してセクシャルな発言をする男性は、ゼルが初めてだ。そのことに何より、困惑した。


「真面目な話だよ。そんな格好で無闇に男性陣を刺激しない方がいいと思うな」


「あ……。あ、ええ。あ、そ、そうです、ね……」


 困惑していたティリルを、ゼルは極めて真っ当な助言で冷静に引き戻した。確かに、どうせ誰にも見られないだろうと高を括ってこの格好をしてきたのは自分だ。そして、実際誰かに見られてしまった。弁解の余地はない。


「そうですね。ちょっと油断してました。誰にも会うことはないだろうと思ってましたし、会っちゃったのもゼルさんだから、心配ないかなって」


「む。その言い方は失礼だな。俺だからってのはどういう意味だ?」


「え、だって。ゼルさんなら信頼が置けますし、何かあっても女性に手を出したり、ましてや私なんかに手を出したりしないでしょう」


「そんなのわからない。俺も男だからね。魅力的な女性が煽情的な格好をしていれば、理性くらい簡単に吹っ飛んじゃうかもしれない」


 むしろ、魅力的な女性の前で万事理性的にこなせちゃう男の方が、ある意味失礼だと思うけどね。悪びれずゼルが言葉を重ねた。


 そんな理屈は知らない。ティリルは眉を顰めた。青年は苦笑して、冗談が過ぎたかな、と舌を出して見せる。その仕草一つで、ティリルはずいぶんと安心したものだ。


「まあ、でも、ティリルちゃんも僕のことを信頼してる、なんて言いながら、その手は体を隠したままだからね。お互い、理性と感情とには差があるってことだよ」


 言われて気が付く。自分の両手はまだ、自分の貧弱な体を守るようにしていた。あっと驚きを口にし、慌てて両手を膝の上に揃える。そんな動作を見守ったゼルは、声を上げて笑いながら徐に立ち上がった。


 彼の影が、長く、しかしはっきりと地面に伸びていた。日が昇って少し経つ。


「せっかく会ったから、たまにはゆっくりと話でも、と思ってたんだけど、あんまり引き留めない方がいいね」


「あ、はい、その、すみません……」


 私、本当にゼルさんのこと信用してるんですよ? 小さく付け足しながら、いろいろな意味で蛇足だと自覚していたので、返事が来なくても復唱したりはしなかった。


 ティリルも立ち上がる。丈の短いスカートの、尻の部分を両手でパタパタとはたき。


 ……腰を曲げたことで、また胸が晒されてしまっていたらしい。今度はゼルは、ティリルに背を向け目を逸らしていた。気付いて、最初はあっと声を上げて姿勢を正し、胸許を押さえた。だが次の瞬間には逆に笑みがこぼれてきて、「やっぱり紳士なんですね」と話しかけていた。


「本当は見たくて仕方がないところだけど、信用されてるんじゃしょうがない。応えないわけにはいかないよ」


「ふふ……」


 ゼルの軽口に、微笑んで返した。


 では、と言って別れる。次はちゃんと、中に水着でも着て、話ができる格好にしてきます、と軽口を返して。苦笑するゼルは、最後にと人差し指を立て、一つ質問をしてきた。


「ところで、昨日、どこかに行った?」


「え? ええ。街の、南街道にあるお友達の食堂へ。それが、どうかしました?」


「ん、いや……」


 少し、言葉を濁す。言いにくいことを、何か言い方を考えながら言おうとしているのだろうと思ったが。


「そっか。わかった、じゃあね」


 続きもなく、あっさりとゼルは踵を返した。


 今の質問に、何の意味があったのだろうか。ティリルは首を傾げたが、ゼルの背はそれ以上何かを教えてくれそうにはなかった。


 そういえば、エレシア満腹堂に最初に行った日。アイントと出会い、二人で食事に入ったあの日。確か道端で、ゼルらしき姿を見かけた記憶があった。


 あの時ゼルも、こちらの存在に気付いていたのだろうか。何か、確認したいことがあったのだろうか。推察するも、確証はなし。刻々と昇りゆく太陽に焦りつつ、そこから先は部屋でゆっくり考えようと、ひとまずティリルも寮へ戻る足を早めた。





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