1-10-2.思わぬ客の来訪
混雑のピークが過ぎ、店内に空席ができ始める。最後の客の料理を提供し終え、ようやく親子が一息ついた。洗う皿はまだまだこれから増えるが、急ぐ必要はなくなった。ティリルも、ふわりと笑顔を浮かべる。
「ありがとね。すっごい助かっちゃった。ごめんね、注文してくれたのに食べさせもしないで」
タニアが頭を下げる。いいえ、と笑いながら、ティリルは両手を振った。
「私が言い出したことなので。むしろ貴重な体験をさせて戴いて嬉しいです。お店のお手伝いとかしたことなかったので、私でも役に立てるってわかってホッとしました」
「役に立つどころか! もう大助かりよ。さすがに院の学生さん。すごい魔法使えるのね」
「そんな。私なんか全然で。落ちこぼれもいいとこなんですよ」
ようやく微笑み交じりの会話を交わせた昼下がり。しかし扉は開き、次の客が来る。ああ行かなきゃ、とタニアは飛び跳ね、店の方に出て行った。ティリルも厨房、流しから首だけお店の穂に向けて、「いらっしゃいませ」と声を出す。
客は、アルセステ達だった。
「……えっ」
思わず、驚嘆の音が喉から零れる。
タニアがまず深々と頭を下げ、ついで店主も慌てて厨房から出ていく。まるで王侯貴族を迎えたような歓迎振り。彼らにとってのアルセステの存在は、望むと望まないとに拘らず、こんなに大きなものなのか。盥から意識を外し、ぐるぐると流していた水流からも目を逸らす。水の流れがゆっくりと止まり、中の器がかちゃかちゃと音を立てた。
「あら」
目敏く、アルセステが厨房に目を向ける。
ヴァスケス親子の脇を早足で歩き、一目にこちらへ、ティリルの方へ向かってくる。
「ごきげんよう、ゼーランドさん。今日はこちらでアルバイトなの?」
「あ、はい。えっと、食事に来たんですけど、とても忙しそうだったので、お手伝いをさせて頂いていました」
まぁ、そうなの。業とらしく感嘆するアルセステに、追従するようにルートがくすくすと笑い、アイントが目を細めた。
そのやり取りに割って入るタニア。そうなんです。ちょっと手伝ってもらっちゃってて。手を振りながら、何かを言い訳するように説明する。確かに、彼女の、そしてその父親の態度は、アルセステ達に対して卑屈とも言えるほど腰が低かった。
「ヴァスケスさん、なかなか繁盛なさっていてよいことね。私も、父の会社の上顧客が成功してくれると嬉しいわ」
にこり微笑むアルセステ。疎らに店内に残っていた食事中の客たちが、俄かにざわつき始めた。一人客が多いので声を発する者は少ない。だが、視線が、アルセステ通運の関係者の存在に気付いたことを語っていた。
注目されるのには慣れている、と言った様子で、本人たちはまるでその注視を意に介そうとしない。
「ゼーランドさんもこのお店が気に入ったのね。シェルラと一緒に来たという話は聞いていたけれど、お一人でも来ていたなんて。ここは私のお気に入りでもあるの。嬉しいわ」
「あ、はい。こちら素敵なお店で。アイントさんには紹介して頂いたこと、お礼を言わなきゃと思ってたんです。なかなか補講のときに言う機会がなくて、ごめんなさいアイントさん」
「そんなこと気にしなくていいのに、ゼーランドさんは律義なのね。ねぇ、シェルラ?」
ええ、本当に。アイントが、口許を歪ませながら答えた。
アルセステがいる手前何も言わないが、アイントは先日のやり取りをまだ根に持っているようだった。そのことも謝るべきか一瞬ティリルの頭を過ぎったが、その件については自分は悪くないという自負もあった。
なにより、アイントへ謝辞を送ったはずなのに、アルセステから返事が来た。その辺りがこの三人の関係が歪んでいる証拠なんだなと、そろそろティリルも彼女らのことを冷静に見られるようになってきていた。
「ねえねえ、ゼーランちゃんが下働きしてるなら、私ゼーランちゃんに注文とってもらいたい!」
ふと、ルートが甲高い声を上げた。
ああいや、ティリルさんには食器洗いをお願いしているだけで……、拒もうとする店主の声を遮るはルート。ええー? いいじゃんそれくらい。子供じゃないんだし出来るでしょー? 相変わらず癪に障る挑発を仕掛けてくる。
別に注文取りくらいできるだろう。先程までの混雑時に混乱なく正確に取るのは難しくても、アルセステ達三人分のことだったら自分でもどうにかなる。腹を決め、いいですよと答えかけた瞬間。
「よしなさい、スティラ」制止したのは、アルセステだった。「聞けば、ゼーランドさんも食事に来たって言うじゃない。それが、お店のお手伝いをさせられて、しかも就労ではなく無料奉仕。これ以上働かせるのはかわいそうよ」
ああいや、当然お金は払います! タニアが慌てて訂正し、主人ももちろん、と頷いた。首を振って辞退しようかと思ったティリルだが、タイミングを逸する。アルセステが、そんな彼らの言葉を全く聞いていない風だったからだ。
「ねえ、ゼーランドさん。そしてご主人も。もしよければ、私たちと一緒に遅めの昼食をどうかしら? お店も落ち着いてきた様子ですし、もうお手伝いも必要ないのよね?」
「え、あ、で、でも……」
狼狽えたのはタニアだった。
ティリルに、気を遣ってくれたのだろう。きっと、アルセステ達との食事は心労があるだろうと。
大丈夫。ティリルは心の中で拳を握った。
「私は構いません。お腹も空きましたし、そうさせて頂けるとありがたいです。えっと、タニアさん、お仕事の方はもう大丈夫ですか?」
「あ、や、え、ええ。そっちはもう十分すぎるくらい手伝ってもらっちゃったけど……」
「じゃあ、ぜひ」
にっこり、微笑む。アルセステが、目を細めてよかったわ、と口に浮かべた。




