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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第九節 闇曜日に街へ出て
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1-9-9.母の軌跡







「先生も、ご存知ないのですか」


「ない。言ったように、私とバドヴィアの接点は大してないんだ」


 はっきりと言い切った。目を見開き、ティリルを睨みつけ。まるで、ダインとの会話なのに、ティリルに言い聞かせているかのように。思わず知らず、「そうですか」と答えてしまう。


「だが、確かに彼女は世界最高の魔法使として、史上稀なる実力を誇っていた。もちろん彼女自身の魔法の才が優れていたことは紛れもないことだろうが、魔法の仕組みを誰より理解していたであろうこともまた、想像に難くない。そう信じて、私は未だ魔法学会ではその信憑性が認められていない『バドヴィア論』を専攻してきたのだ。ライスワイク師が残した彼女に関する手記と、バドヴィアの落書き程度の覚書をまとめてな」


「ええ。存じてますよ」


 厳しい顔で宣言するフォルスタに、ダインが笑顔で答えた。


「僕もフォルスタ先生の講義を受けて、バドヴィア論こそが今一番進んでいる魔法研究だと感じたんです。ガーランドやタナヴィに祖を置く精霊学なんかよりもずっと」


 うむ、と深くフォルスタが頷き返した。


 最早フォルスタの話が、バドヴィアの人となりについてを題目とすることはないのかなと少々落胆。しかし、すぐに気を取り直して、興味を別の角度に変える。


「あっ、ということは、先生、お母さんの落書きは持っていらっしゃるんですか?」


 あるのなら、ぜひ見せてほしい。それを見ることで、母の筆跡が、人らしさが、何かがわかるのではないか。そう期待して。


「ん? いや、物自体はとても貴重なものだからな。学院ではなく王城に保管されている。私の手許にあるのは、以前私がそれを、私なりに解釈しながら写したものだけだ」


 言いながら、フォルスタは机の上の書類の中からそれを探し始めた。それならいらない。思ったが、師の前でそう口にすることはできなかった。


 王城に管理されているのか。それでは、なかなか見ることはできないかもしれないなぁ。いや、ネスティロイもアリア王女も、いつでも城に来いと言ってくれている。今度の闇曜にでも見せてもらいに行ってみるのもよいかもしれない。


「うむ、これだ。これでよければいつでも見せてやるぞ」


「あ、……あ、はい。ありがとうございます」


 困りながら、ティリルはフォルスタが渡してくれた紙片を受け取る。たった一枚、折り跡が幾重にも重ねられ、何箇所も破れたところがある、黄ばんだ紙。目を落とすと、確かに見知ったフォルスタの文字で、なにやらいろいろなことが走り書きされていた。


『ガーランドが四大精霊から六大精霊へ。バドヴィアは四大説を基にするも、()()()()論へ展開。光、闇を否定。()()()。空とはなにか。地水火風の既存元素についても独自の見解。地水風に対して火が上位概念。←なぜか?』


 師の研究の跡が、隅々から読み取れた。書いてある内容はほとんど理解できなかったが、師をこれだけ悩ませる要素が、バドヴィアの落書きにはあったらしい。悔しいことに、学術的な興味も持ち始めている自分がいた。


「私がバドヴィアと最後に会ったのは、戦争が終わって彼女が国に帰ってきた、十七、八年ほど昔の話だ。終戦の歓びに浮かれた雰囲気のこの国で、彼女は王城からの武勲の表彰も断って、新しい生活を始めることだけを考えていた。ライスワイク師と過ごしていた城内の研究所を早々に引き払い、必要な、ほんの僅かな荷物だけを持ち、後はすべて捨ててほしいと私に言い残し、去っていった。

 その後すぐに、彼女が戦地でよい男性を見つけ、一も二も捨てて彼と一緒になることを望んでいたことを、知った。彼女の幸せを妨げまいと、疑問に思っていたその落書きの内容に関する質問を当時は棚上げしたのだが……。今となっては後悔ばかりだよ。なぜあのとき聞いておかなかったのだろうか。それ以後私が研究に費やした時間は、バドヴィアがもし今もいれば、一ランスの価値もないものなのに」


 苦蔓草の葉を舌に貼り付けたような顔で、フォルスタは舌打ちした。


 心底悔しいのだろう。ティリルにもつくづく伝わってきた。あのとき聞けばよかった。その機を逸してしまったら、二度と聞けなくなってしまった。幼馴染の顔を思い浮かべながら、自分にもそんな後悔が訪れるのではないかと、怖くなる。


 湯気が消えた香茶に手を伸ばした。いつもダインが入れてくれる、甘くてほんのり渋い、美味しいお茶だ。慣れというのは怖い。せっかく美味しく入れてくれているお茶を、こんなに冷めるまで置いておいてしまうなんて。


「……私、もっと勉強頑張ります」


 不意に、自分の口からそんな言葉が漏れていた。


 フォルスタもダインもきょとんとした顔をしていたが、先にダインが硬直を解いた。俯き加減で判然としなかったが、珍しくうっすらと笑っているようだった。


「だから、先生も、もっといろいろお母さんのこと教えてくださいね」


 自分もフォルスタには初めて見せたかもしれない、満面の笑みで伝えた。再度、初老の師に目を丸くされてしまった。額を赤くした彼は、咳払いを一つ。カップの茶を一口。そして、目を背けながら、


「私の知るバドヴィアの顔などその程度だ。が、まぁ、他にも何か思い出したらな。話してやろう」


 照れ臭そうなフォルスタの表情を、初めて見たのはティリルだけではなかったらしい。思わず振り返ってダインの顔を見ると、彼もまた、羽の生えたウサギでも見たかのような驚嘆の表情でこちらを、正確には師を見ていた。なるほど、付き合いの長そうなダインですら、この顔は初めて見たということか。頬許に生まれてくる含み笑いを、隠すのに随分苦労した。


「えー、んほんっ。まぁとにかくだ。お前の学習意欲が高まったことは大変に喜ばしい。その意気で、では今日はバドヴィア論の根本的な謎についてを考察するところから始めようか」


 真面目な顔で手許の文書の皺を伸ばすフォルスタ。だが、そのわざとらしい咳払いすら砂利道でエメラルドを見つけるが如き珍しさで、ティリルはついつい、「はぁい」と気の抜け切った返事をしてしまった。




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