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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第九節 闇曜日に街へ出て
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1-9-5.またしてもルースに助けられ







「全く関係なくはないよね。さっきから君はティリルちゃんに、『周囲の方々は皆、あなたのことを嘘吐きだと思っている』って言っていたじゃんさ。それを言うなら、その議論には『周囲の方々』の意見が懸案材料として必要だろ。まあちなみに、俺はティリルちゃんが嘘吐きだなんてこれっぽっちも思ってないわけだけど」


「ゼーランドさんの御友人の意見が有用なわけないでしょう?」


「だったら君の意見も有用じゃない。有用な第三者を連れてこない限り、君がふっかけてるのはただの水掛け論じゃないか」


 にやにやと口許に笑みを浮かべ、ルースはアイントの苦々しげな口許をじっとりと見据える。


「水掛け論じゃないってんなら、まず君は、第三者の俺に、ティリルちゃんがどんな嘘を吐いたっていうのかを言ってみるべきだと思うけどね」


 頬許の嫌らしい微笑みを絶やすことのないルースに、アイントはいよいよ表情を歪め。


「ゼーランドさんは、御自身をバドヴィアの娘だと名乗り、学院中を混乱させたんです。彼女の魔法行使の実力をご覧なさい。バドヴィアの魔力など、欠片も受け継いでいないのがわかりますから」


 びくりと、ティリルは体を震わせた。


 そういえば、ルースとはその噂の話をしなかったのではなかったか。もし彼がその話を初耳として聞いていたら。成程、そんな大嘘を吐いていたのかと意見を翻したら。二人に挟まれるように小さく座りながら、ティリルは恐々ルースの顔を見つめた。


 その表情は変わらない。にたにたと甘ったるいキャラメルソースのようなべとついた笑顔が、張り付いて固まったように、変わらない。


「いや、まぁ知ってるよ。知り合いの女の子たちがみんなそんな話してたしねぇ。さすがに、あのシアラ・バドヴィアの娘らしき人物が編入してきたって言えば学院の教授連だってざわつくしねえ」


「え、……ルースさん、知って……」


 静かに、声を挟む。彼がもし初耳ならと不安を募らせたが、知っていたら知っていたで別の恐怖が頭を擡げる。


 震えた声に反応し、ルースがようやくティリルを見た。にやり口の端を上げ、小さくウインク一つ。正直その仕草はどうだろうと眉を顰めたが、おかげで少し落ち着けた。


「もちろん。だってバドヴィアの『娘』だよ。息子じゃないんだよ。そりゃ当然、男として狙いに行くよね。お友達になれたらラッキーってなもんで。でも、いろいろ調べてくうちに、噂の標的はどうやらティリルちゃんだってわかってね。なんだわざわざお近付きになる必要なかったわって」


「は、はぁ」


 ティリルが、苦笑いで返した。いかにもルースらしいエピソードで、ついつい緊張感が緩んでしまう。いや、あるいはルースの狙いなのか。慣れない口論に身体をガチガチに硬くしているティリルのことを、解してやろうという彼なりの気遣いなのだろうか。


「まとりあえずさ。バドヴィアの娘なら魔法が得意じゃないといけないっていうあんたの理屈もかなり強引な気はするんだけど――。

 でもそれより何より俺が言いたいのはさ。確かにみんな、バドヴィアの娘が編入してきたって噂には盛り上がってたけど、実際にそれを確かめにいった奴ってほとんどいないんじゃないの?って話。ねえ、ティリルちゃんどう?」


「え、あ、はい、そうですね。実際に聞くことを目的にして来てくれたのは、予科生の一人だけでした」


「ね? 結局みんな、ティリルちゃんがバドヴィアの娘であろうがなかろうが、そんなに興味はないんだよ。『すごい奴がいるらしいよ』『へえ、どんな奴だろ』、『ガセネタだったっぽいよ』『なんだつまんねぇ』、その程度でしょ」


 窓ガラスを走る雨粒のように、淀みなく言葉を連ねるルース。突然現れた『部外者』に、一転アイントは口を噤んで久しい。そんなはずはない。自分の周りの人間は、皆ゼーランドさんの流言に当惑し、非常に迷惑していた。やっと開いた口で、繰り返し同じことを言ってくるが、ルースにも、もちろんティリルにも響くところはなく、アイント自身さえ自分の言葉の虚しさを一生懸命ごまかそうとしているかのようにぶんぶんと首を振った。


「まぁ、君もわかってるんでしょ。根っからティリルちゃんをいじめようとしてるわけではなさそうだし、そろそろ、君の論理がおかしいんじゃないかなってことは」


「そんなわけっ! ラヴェンナさんが間違ってるなんて、そんなわけないでしょう!」


「おおっと、そのラヴェンナちゃんの言葉だったのか。君、友達選んだほうがいいよ」


「な……っ、し、失礼な! 今の発言は絶対に許せません!」


 ばん、と机を叩いて立ち上がるアイント。その形相は風雷手繰り操る鬼神のよう。誰にも触れられたくない、触れてはいけない聖域に、へらへらと笑いながら足を踏み入れたルースを最早容認する余地など欠片もないといった体。愈々、真っ当な議論などこれ以上難しそうだった。


「あなたみたいな無礼なサルが常識も弁えず喚くから、ゼーランドさんへのお話が途中になってしまいました。ゼーランドさん、お釣りは結構ですので。私はこれで帰らせて頂きます。本当に酷い。こんな話し合いなど、今まで一度も経験したことがないですよ」


 そう吐き捨てて、踵を返すアイント。彼女の離れた机の上には、ただ乱暴に置き去られた五百ランス紙幣が一枚。あとは、騒々しかった店内の静けさと、集められた人々の視線がまだ僅かばかり残っていた。


 穏やかそうな人だと思ったが、あれ程理不尽に激昂するとは。いやはややはりアルセステ一味は曲者揃いだ。深々と溜息をつきながら、ようやく解放された安堵にこの店で初めて肩の力を抜いた。


「ははぁ、すごい迫力だね。口開かなきゃ、それなりに美人だったのに」


 ティリルの椅子の背凭れに腕を乗せ、右の手で頬杖をつきながら、少々呆気に取られた様子でルースが呟いた。


 こうしてルースに助けられたのは二度目だ。ティリルは思う。いや、ガルラードの屋台で気を利かせてくれたのも含めたら三度目か。


「あの、ありがとうございました」


「ん? あいやいや。勝手に口出しちゃって悪かったね。俺は別に何か言うつもりはなかったんだけど、あいつがさ」


 礼を言うと、手をぶんぶんと振って否定するルースが、奥にいた女性を一人指差した。


 店のウエイトレスだろう。フリルのついたエプロンを着た、背の低い綺麗な女性だった。




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