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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第三節 偏屈な専任教員
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1-3-2.乱雑な研究室






挿絵(By みてみん)


 朝一つ目の鐘は、八時に鳴る。これはそろそろ一日を始める準備をしなさい、という合図の鐘。二つ目の鐘が鳴るのは九時。これが実際の始業の合図。一つ目の鐘で部屋を出るのは実際には早すぎるタイミングだけれども、ティリルは今日はそれくらい早く出たほうがいいでしょう、というのがミスティの言だった。


 学生寮から五分ほど歩いたところに、第二研究棟が建つ。フォルスタ師の研究室は、この建物の二階だという。


「私は、第三研究棟に行かなきゃいけないから、ここでお別れね。帰りは多分私の方が先に帰れると思うから、作って……、はムリだな。何か買っておくよ」


 ミスティはそう言って、軽く手を振った。ここまで案内してもらったこと、いろいろ教えてもらったことを改めて、ティリルは礼を言う。「ルームメイトは家族も同然よ。そんなこといちいちお礼なんて言わないの」そんなティリルに冗談半分睨みつけ、もう一度、にぎにぎと右手の五指を動かして、ミスティは踵を返した。お礼を言われること自体がミスティは嬉しくなかったんだろうけれど、やはりティリルは感謝の意を表したくてどうしようもなかった。


 階段を上がり、二階の廊下を進む。


 古めかしい木造の建物。埃の匂いとカビの匂いが、うっすらと鼻をつく。決して不快なわけではないが、居心地の悪さは否めない。


 廊下に沿って並ぶ木製の扉には、それぞれに名前が書かれた表札が掲げられている。ただ扉が立っているだけの部屋もあれば、その脇に机やら棚やらが並べられ、貴重そうな書物やら汚れた食器やカップやらが乱雑に置かれている部屋もある。目当ての名前は、なかなか見つからない。


 とうとう廊下の突き当たりまできたところで、ようやくミスティに教わった名前を見つけられた。その扉の脇には小さな本棚が一つ。棚板が撓むほどに無理矢理、大量の本が積み上げられている。そっと、背表紙を覗いてみる。『新編魔法学大全』『精霊存在についての諸考察』『ハース教から精霊信仰への変遷』などと、小難しい文字が乱雑に並んでいる。


 その本の持ち主は、いったいどのような人なのだろう。鼓動を高ぶらせながら、ドアの前に立ち尽くすことしばし。胸の前で握り締めていた右の拳を、そうっと持ち上げ、ついに二回、小さくドアを叩いた。


 返事が届くまでに、五秒以上がかかった。しゃがれた、まったりとした静かな声。どうぞと言われ、ゆっくりと慎重に、ドアノブに手をかけた。


 開いて、驚いた。床一面に広がる、本。一冊一冊が到底安価とは思えない、しっかりとした作りの貴重な書物が、所狭しと乱雑に散らばっている。そしてその奥に机が一つ。剃髪の、面長の老人が、複数冊の書物を広げて書き物をしている。


 こちらに向けた一瞥があったかどうか。少なくとも、顔は一度もこちらに上げられず、ティリルはそのおもてをはっきりと見届けられていない。


「用件は?」短く、老人はティリルに質問した。


「あ、あの、私……」


 両の拳を胸許に揃え、ぐっと気道を抑え込んで声が震えないようにする。怖くない、と言えば嘘になる。そんなティリルを威嚇するように、老人はさらに口を開き、


「私も暇ではない。用件は手短に願いたい」と、紡いだ。


「そ、その……、私、自分の専属教員になってくださる方を探しておりまして、で、その、ルームメイトから、フォルスタ先生に師事するのがよいのではないかと教わりまして、それで、ここに参った次第でございます。えっと、フォルスタ先生ご本人、……様でよろしかったでしょうか」


 緊張のあまり、自分でも言葉遣いが怪しくなってしまった、と反省。対する老人は、初めて顔を上げ、ぎょろりとした眼でこちらを睨み。


「確かに私はフォルスタだが。自らの名乗りも上げずに人の名を聞くのは礼に反するな」


「あ、ごめんなさい。私、ティリルと申します。ティリル・ゼーランドです」


 フォルスタはすぐにその目を手元に戻し、「それに専属教員の選択、登録は、とっくに締め切られているはずだが。君は今まで何をしていたのかね?」


 溜息をこぼしながら、フォルスタはまるで独り言のようにティリルに言葉を放りつけた。まるでティリルのことなど歯牙にもかけず、今している作業の妨げと呼ぶにもつまらない存在だと言わんばかりの辛辣さ。よほど、やる気のない学生だと思われているのだろうか。


 あまりの冷たい対応に、ティリルが冬の夜の土砂降りのような息苦しさを味わっていたところ。


「あまりいじめないであげてくださいよ、先生」ふと、別の者の声がした。


 あまりに冷たいフォルスタの言い様に、思わず目元が熱くなり始めていた。せめてもの意地と、目元を拭うのをぐっと我慢し、滲みかけた視界で、フォルスタの背後に続く奥の部屋を見た。


 青年が一人、立っていた。枯れ草色の短髪に、黒縁の小さい眼鏡。身長はティリルより少し高いくらい。そして年齢は恐らく、ミスティと同じくらいには大人びて見えた。手に携えているのはティーカップ。作業しているフォルスタの、脇に積み上がっている本の山の頂上に、見事に置いた。


「あなたも飲みます? カモマイルティー、美味しいですよ?」


 机の向こう側から聞いてくれる青年に、ティリルは短く「いえ」と遠慮した。頂きますと言えるほどの肝が座っていないのは確かだが、それ以前に机も椅子も、座る場所もない。本の上にカップを置いてもらうのは、強か気が引けた。


「ああ、僕はただの助手です。お茶を入れに来ただけで、話の邪魔をするつもりはありません。どうぞ、気になさらず続けてください」


 にこやかに、青年は会釈をくれた。さりとて奥の部屋の戻るわけでもないらしく、そのままフォルスタの脇からティリルの顔を見守り、穏やかに微笑んでいる。気にするなと言った割には、脇でしっかりと話を聞いていくつもりではあるようだ。


 そして相変わらず、フォルスタはティリルに一瞥もよこさず、せいぜい横のティーカップに手を伸ばすために目線を手元の紙から外す程度。それでも先ほどまでの、ともすれば泣き出してしまいそうなプレッシャーはなくなっていた。ほのかに漂ってくる、カモマイルの香りのおかげだろうか。


 意を決し、口を開いた。


「あ、あのっ!」


 フォルスタの反応はない。脇の青年がうっすらと微笑むのに、少し勇気づけられる。





いこ様から、キャラクターイラストを頂きました。

主人公の方が登場が後という。いこ様、ありがとうございました!

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