1-2-1.大学院への編入手続
メイド嬢に見送られ、城を出る。
大学院までの案内役、として城門のところでティリルを待っていたのは、このサリアまでの旅路を共にした、先程別れたばかりの使者、セオド。服装を旅装から衛兵の鎧に替え、ティリルを応接室に置き去ったことなどまるで忘れたかのようににこやかにティリルを迎えてくれた。少しだけティリルは安心し、同時に少しだけムッとした。
セオドの用意してくれていた、サリアまで乗ってきたものとはまた違う、より小型の一頭立て馬車に乗って大学院へ向かう。ほんの五分で学院の門の前に着く。目測で、その距離はほんの五百メトリ。今度こそ、なぜいちいち馬車を出すのかとティリルは疑問に思ったが、すぐにそんな思いは胸の裡から消え去った。セオドに手を預けて馬車から大地に足を下ろしたティリルは、その門を前にして胸の中が一杯になってしまった。
黒い鉄門は閉ざされていた。華美で荘厳な門構えを見せていた王城とは対照的に、学園の入り口は粗雑にして峻厳。長く高く領地を覆う石壁も、門の足元に申し訳程度に生えている雑草さえも厳格なまなざしでティリルを迎え入れているようで、ティリルは一瞬背筋に寒気が走るのを感じた。
さぁ、と言ってセオドが鉄門に手をかける。門は、すぐに開いた。
一歩、足を踏み入れて、空気の違いを感じ取る。
王城の敷地も決して外と同じようではなかった。だが大学院の空気は、より一層の長い歴史を立ち入る者に背負わせる。長い間ここで学問や研究を行ってきた先人たちの熱意を感じさせる。それがよほどの重圧だった。
門をくぐってすぐには、小さな広場があった。無花果の木が立ち、周りに小さなベンチがいくつか並べられている。右手には古めかしい小さな建物が建ち、大きな窓が門のほうに向けて作られている。
奥にはより大きな建物が、背を向けて建っている。見上げてみる。窓の数からして五階建て。恐らくはその建物が早速、一つ目の校舎になっているのだろう。眺めて見える窓には、ちらほらと学生の姿が浮かび上がっては消える。ティリルがそう見ているだけだろうか。誰しもが学業に忙しそうに、そしてとても楽しく充実しているように見えた。
「右手側の小さな建物が、守衛館を兼ねた大学院の受付になっています。手続きはあちらの方で致します」
その場の空気に飲み込まれている自分を自覚し、どうにかこうにかそれと正面から向かい合おうと自身を奮い立たせて。ティリルはセオドの言葉に、重くなった首をきしきしと頷かせた。
実際に建物に入ってからのことは、ろくに覚えていない。結局学院の空気に気圧されて、一歩軋む床を踏み締めた途端に頭の中が真っ白になってしまっていたらしい。受付の対応をしてくれた眼鏡の女性が、何かを説明しながら、学院の制服やら校章やら小冊子やらの入った布袋を渡してくれたことだけはどうにか頭に留めることができたが、実際にどんな話をしてもらったのかはろくに思い出せず。手続きに必要な話もみなセオドが代わりにまとめてくれたので、ティリルの頭には何も残らなかった。
ようやく再び無花果の木の下に落ち着くことが出来たとき、改めてティリルはセオドに心から感謝し、先程内心で恨み言を呟いたことをまた心中で詫びた。
しかし、彼が自分の面倒を見てくれるのもここまで。ここからは自分の学院での生活が始まり、そこから先は彼であれ、誰であれ自分の面倒を見てくれる人はいない。それくらいの常識は、生まれて初めて都に来たティリルも備えていた。
「学院生は、院生寮にて生活することになります。生活に必要な最低限のものは、各部屋に備えられているはずですので、本日のところはそのまま部屋に向かってください。明日までに、生活費や、当面必要になるであろう教材等を送らせて頂きます。不便や問題がありましたら、王宮の方まで書簡にてご連絡ください。
――何かわからないことは、ありますか?」
ティリルの緊張に、もうすっかり気付いてしまっているのだろう。一緒に過ごしたこの三日間の中で一番と呼べるくらいの、優しい笑顔で彼は尋ねてきた。
いいえ、大丈夫です。そう答えることはできなかった。それでも、何がわからないことなのかを整理できるほど落ち着いているわけでもなくて、結局のところあーだのうーだのと言葉を探し迷って、ティリルは何も答えることができずに俯いてしまった。
「大丈夫ですよ。新しい環境に不安になるのはわかりますが、怖がることは何もありませんから。では、何かあったらまたそのときにご連絡ください。ちょっとしたことでも遠慮なさらずにご連絡くださるようにと、そうお伝えするように国王陛下からも仰せつかってますから」
ティリルの肩を抱き、もう一度、彼は微笑んだ。
それだけのことで落ち着かせることが出来た心の中など、困惑と緊張の渦巻く内心のうちの、ほんの僅かでしかなかった。しかしそのほんの僅かの落ち着きで、ティリルは一つだけ、しっかりと思うことが出来たことがあった。
これ以上、彼に迷惑をかけることは出来ない。
彼は、王命を帯びてはるばるユリまで自分のことを迎えに来てくれた王宮仕えの衛兵だけれども、その役目はもうほんの数分後には終わるのだ。これ以上、自分の当惑を言い訳に彼に甘えることは許されない。自分はこれからこの学院で、一人で何もかもをこなしていかなければならないのだ。
「……え、えっと、わかりました。それじゃあ、何かあったらお城にご相談のお手紙を出せばいいんですね」
努めて気丈に、笑って答えた。
「はい、そうしてください。
休日には外出許可も出るはずですから、もし書面で間に合わないことがあれば王城に直接いらしてくださって構いません。後ほど、入城許可証も一緒に送らせて頂きますね」
両手を胸の前で合わせ、力強くこくりと頷く。セオドの優しい笑顔はまだどこかティリルのことを案じてくれている様子だったが、彼もまた、この上ティリルの傍にいることに何の意味もないことを、よく理解していたのだろう。あまりと言えばあまりの淡白さで、たった一言「それでは」と。右手を軽く振って、さっさと背を向け行ってしまった。
残されたティリルは、まずはほんのりとした笑顔を口許に残す努力から始める。三日間世話になったセオドの、背中が見えなくなるまで。
踵を返し、一転口を真一文字に。
遂にティリルは、大学院の敷地の奥へと足を踏み入れる覚悟を決めた。




