1-24-2.蒸気機関車
「先輩、お腹空きません?」
まるでティリルの様子を気にせず、両手の大荷物も苦にせずに、リーラが話題を変えた。
確かに、昼時ではある。食事くらいはどこかでしていくのもよいだろう。
「いいですけど、あんまり高いお店はダメですよ」
「え、でも、私今日使うつもりだったお金がまるまる残っちゃってますし、何ならお昼は私がおごりますよ」
「そういうお金の使い方がいけないって……、はぁ、もういいです。とにかく私は、今日はあまり高級なものじゃなくて大衆的なお店で食べたいです」
「わっかりましたぁ! じゃあ、どこか安っぽいお店を探しましょう!」
そういう言い方もまたどうか、とティリルはこめかみに右手の指を当て顔を顰めた。思わぬ世間知らずぶりだ。ティリルへの好意は息苦しくなるくらいに感じさせてくれる、それはいつも通りのことだとして、お金の使い方やお店の表現の仕方。もう少ししっかりしたイメージを彼女に持っていたティリルは、驚き少し、呆れも少し。ルームメイトの新しい顔を知れたことに喜びも抱きつつ、大きな疲労感とも戦わざるを得なかった。
私だって、別に世間を知っているって胸を張れるわけじゃないのになぁ。リーラさんの方が身の回りのことはできるのに、外のことはまるで知らないような気がする――。一緒にクロスボールを見に行った時には感じなかった、街の中での彼女の幼さに改めて瞠目した。
空に少し、雲がかかってきた。風も強くなってきて、肌寒さを感じる。
東へ延びる大通りを、食堂を求めてさらに先へ進む。西も、南も、都のメインストリートは、中央から離れるごと人込みが緩やかになっていく印象だった。スタディオンのある北の通りはそんな風景を見ていないが、試合のある日は例外だろう。しかし、この東の通りは、進んでも進んでも人の姿が薄れる印象がない。
「すごい人の数ですね。それに、なんだかさっきから変な音が響いてくる」
「汽笛の音じゃないですか? こちらには駅がありますから。特に闇曜日は人の動きが激しいですよ」
「駅?」
こともなげに答えたリーラ。そのセリフの中にあった耳慣れない単語を、ティリルは拾い上げ聞き返した。あ、駅、知りません? リーラが目を丸くして聞き返す。
「いえ、本で読んだことはあるんです。でもごめんなさい、どんなものだか実際には知らなくて」
「そんな、謝ることないじゃないですか! 駅っていうのは蒸気機関車が止まる乗り場です。大きくて広い建物で、何人もの人が出たり入ったりしてますよ」
まぁ私も乗ったことはないので、あんまり偉そうに説明できないんですけどね。濡れた笑いを浮かべながら、リーラは説明した。話を聞いても、駅がどんなところなのか、そもそも蒸気機関車というものについても、具体的な形が想像できない。
ただ、確かに行き交う人々の足並みが、心なしかせかせかしたものになってきているのは感じられる。そんな風に歩いてしまうような、気持ちがそわそわしてしまうような何か、なのだろうか。
「……何なら、見に行きます?」
顔を覗き込むように上目遣いに、ティリルに尋ねてくれるリーラ。
ふつふつと興味が湧いてしまったティリルは、臆面なく答えた。「はい、ぜひ!」
「じゃあ、ちょっとお昼遅れちゃいますけど、駅まで行ってみましょう」
言いながら、リーラも表情を曇らせることはなく、むしろ楽しそうに鼻歌まで歌いだすのだった。
「……何の曲ですか?」聞いてみる。
「あ、えへへ。ごめんなさい、つい鼻歌なんか歌っちゃって」
「いえ、謝ることないんですけど、その――」
「えっと、以前東の国から来たっていう若いシンガーさんが歌っていたんです。ライアさんって言ったかな。各地を回って歌っているっていうお話でした」
そうなんですか、と自分から聞いておいて失礼ながら、返事は少し上の空になってしまった。東の国も、ライアという歌手も、わからない。ただ、そのメロディがとても印象的で、なんとなくいいなと思った。
すみません、やめますね、なんて苦笑しながら断るリーラに、むしろティリルは続きをせがんだ。もう少し聞かせてくださいと、そんな言葉が口から出ていた。
ボオォ、ボオォオ、という地面を揺らすような大きな音が、ひときわ激しく腹に響く。
駅、とやらに着いた。
「ふわぁ、……すごい。これが、駅ですか」
それは、王城や学院を初めて見た時と同種の感動。
眼前に建つのは、木造の大きな柱と屋根。外側はぐるりと、板を横に並べた壁に囲まれているが、唯一正面だけは大きな口を開けて向こう側が見えるようになっている。その入り口にはいくつかの小さな木造の囲い。風呂桶のような形で、中に制服を着た男性が二人、背中合わせに入って立っている。その風呂桶の間を人々が往来し、制服の男性に手許を確認させる。
雑然としながらもたくさんの人の動きが統制された、機能的な、しかしティリルにはその構造の理由が理解できない、不思議な建物だった。
だが、何よりティリルの気を引いたのはそこではなかった。
リーラに向ける言葉も忘れ、思わず駆け寄る。人の波の妨げにならぬよう、風呂桶の並ぶ入り口の脇、腹の高さまでを封じた木の板の仕切りに、飛びつくように駆け寄って、中の様子に目を凝らした。
奥に転がるのは、見慣れない形をした物体だった。数歩先、七、八段程度の上り階段があり、そこから先はティリルの胸の高さくらいの石舞台が、広く横に伸びている。屋根はその辺りで途切れていて、先程まで頭上に見ていた曇り空が、その先僅かに目に届く。
そして石舞台の先に、横に細長い緑色の奇妙なものが一つ、やはり横長の木製の小屋のようなものが五つ……、六つ。並んで置かれていた。
緑の奇妙なものは、本当に奇妙だった。ここからではわかりづらいが、光と影の具合を見ると、どうやら筒状の形らしい。左手の端から半分以上の長さを、横にした円筒形のものが占めている。上には煙突が据えられ、煙をもくもくと上げている。初めは竈でも焚いているのかと思ったが、まるで成木一本燃やしているような圧倒的な煙の量は、生中の竈では見られない。
筒の右側には、小屋のようなものが密着して建てられている。小窓があり、人影が見える。さらにその左側には四角い箱。遠くてよく見えないが、どうやら天辺が大きく開いた、上からものを入れるタイプの武骨な箱のようだった。
ほんの少し隙間を置いて、さらに右に、木の小屋が並ぶ。ここには窓がいくつも据えられていて、中にいくつか人影が見えた。駅の中に犇めく利用客たちは、どうやらこの木の小屋の中に入っているらしい。
「なんなの、あれ……」
思わず知らず、声が漏れた。木製の柵に手をかけ、身を乗り出して見つめる。制服の男の一人が、何かをしでかすのではないか、と不安げにティリルを見張っている。
「あれが、蒸気機関車です。絵とかでも見たことないですか」
背後に立ったリーラが、静かにそう教えてくれた。
あれが……、蒸気機関車……。反復する。そうすることで、目に映るそれを知った気になれるのではないかと期待しながら。
「え、……待ってください。あれが蒸気機関車なんですかっ?」
「はい、そうですよ」
「え、でも機関車って、移動する乗り物なんですよね」
「そうですよ。あ、ほら、そろそろ動き出すみたい」
リーラの目は、広がる風景の何を捉えたのか。言うや、服屋の前でも聞こえていたあの音が、大迫力で響いた。




