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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第二十三節 拝啓、ローザ・オレンジ様
173/220

1-23-3.新しい美術室







 さて。


 楽しい話もしようと思います。ヴァニラさんが、もう一度絵を描き直しているんです。


 あの火事のときから、しばらく授業もお休みしていて、何か月かお会いすることもできなかったんですけど、先日久しぶりに授業に出られて、私にも挨拶をしてくれたんです。それどころか、ようやく焼けてしまった美術室の代わりになる教室も見つかって、彼女の先生や、仲間たちと一緒に、活動を再開できたそうです。


 私も早くご挨拶に行きたいって思ってたんですけど、忙しくてなかなか時間が作れなくて。昨日ようやく、新しい仮美術室に行くことができて、ヴァニラさんの新しい絵を見ることができました。その時のことを、少しお話したいと思います。



          ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「わぁ、以前とまるで変わりませんね!」


 案内された部屋を見回し、ティリルは感嘆の声を上げた。いくつかの画架。かけられたキャンバス。描きかけの絵が所狭しと並べられ、油彩絵の具があちこちの机に出し放されていて、皆の作業が慌ただしくも中途で留められている様子が伝わってくる。


 以前の美術室に比べると、少し、狭い。けれどそれ以外、雰囲気や匂いは全くもって以前と同じ。ヴァニラの描いているらしい絵が、彼女の座る丸椅子と並んで部屋の奥の方に置かれているところまで、まるきり一緒だった。


「フェルマール先生と、美学履修の先輩たちの頑張りで、どうにかここまで、ね。私なんか何の役にも立ってないのに、環境だけ整えてもらっちゃって」


 室内を眺めながら、苦い表情を見せるヴァニラ。それでもその目許には、長い放浪を経てやっと自分の部屋に戻ってきた旅人のような、小さくない安らぎが映えていた。


「そんなことないと思いますよ。ここしばらくヴァニラさん、授業にも出ないでいろいろ頑張ってらしたんじゃないですか。何にもしてなかったわけじゃないんでしょう?」


 微笑みかけると、ヴァニラの目は一瞬、こちらに向けられていたらしい。そりゃまぁ、ちょっとくらいは……。ごにょごにょ、と恥ずかしそうに何かを言い渋る。どうやら照れているらしい。


「ふふ。それに、もしそのフェルマール先生や先輩方が、ヴァニラさんの分までたくさん準備や後片付けをしてくださったんだとしたら、それは皆さんがヴァニラさんに期待をかけているってことじゃないですか」


「え……。……。いやっ、いやいやいや! 何言ってんのティリル! そんなのないって! 役に立たないのわかってるから最初から仕事振らないだけだよ。せめてって思いながら焼け跡とかこの部屋の掃除とかしたけど、それでもドジって怪我とかしちゃうし」


「えぇ? 大丈夫ですか?」


「あ、うん。そんな心配してもらうような怪我じゃないんだけどね。その、そんなことですら役に立てないのかなって落ち込んだりとか……」


 えへへー、なんてはにかみながら、小さく舌を出すヴァニラ。


 なんだからしくない。ミスティほどではないにせよ、ヴァニラもいつも自信に満ちた様子で、ティリルの話を絵筆の合間のつまみに笑っていた印象が強いのに。


 作品が燃えてしまったこと。その上であったいろいろな人間関係。それが、まだまだヴァニラを縮こまらせてしまっているのかもしれない。ティリルは話題を変えた。


「ところで、ヴァニラさん! 絵の方も大分描き直せてるって話でしたよね! 見てもいいですか?」


 向き直り、笑みかける。


 当てはついている。先程も目を向けた。仮美術室の奥の方、いくつか並ぶ画架の中でも、とりわけ奥に鎮座する一脚の画架。キャンバスは背中を向けていてぼんやりとした色合いさえ見えないが、位置で分かった。部屋の奥の方、ヴァニラが一番集中できるのであろう、入り口から遠く窓からも離れた壁の際。


「え、うん、いいけど……」


 答えるヴァニラの歯切れは悪い。体は自分の作業スペースに向かい、そのキャンバスの前に立ってくれる。だが、どうしたのだろう。見せたくない理由が、あるのだろうか。


「以前と比べると、やっぱりどうかなっていうのが、ね。先生はよくなってるって言ってくださるんだけど、先輩たちの評価はまちまちだし。ティリルは以前の絵もよく知ってるから、どう思うか率直に教えてほしいんだけど」


「え……、あ、はい。それはもちろん」


 創作家の悩みか。


 想像の及ばぬところだと、ティリルはごくり喉を鳴らしながら、ゆっくりとヴァニラの後を追った。


 なるべく、正面に立つまで絵を視界に入れないようにした。その分、いざ眼前にした時の感動は物凄かった。


「ふわぁ……」


 端的に言ってしまえば、絵の印象は変わらない。以前の絵があったことを忘れて、これを、ただこの絵一枚だけのものだと受け止めたら、以前の絵を見た時と感想は大きく変わらないだろう。幻想的で、神秘的で、そのくせ中央の少女がやけに現実的。宗教画だという割に、説教めいた雰囲気は欠片も感じられず、むしろ不思議の森に迷い込んだ少女の困惑と高揚ばかリが強調されている。


「……ど、どうかな?」


 以前と比べてみれば――と言っても実はティリルは、以前の絵の終盤、仕上げに近付いた頃合いにはほとんど絵を見ていなかったのだが――、確かに細かいところは変わっているように思う。漠然としたイメージでしかないが、町でハース様の言葉を受け、その夜に「魔法の森」に迷い込んで魔法の力を得た、というヴァニラの解釈。以前は周りを舞う精霊が、まるで森の装飾のように、ただ在るだけのものとして描かれていたけれど、この絵ではそのうちのいくつかが少女を導いているように見える。森が少女を受け入れて、少女もそこに自らの意志で、恐怖を抑え込みながら足を踏み入れているように映し出されている。




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