1-19-4.まだ、平気な顔してられる
人の気配があまりない、事務棟の静かな廊下。じわりじわりと歩を進め、樫の木の扉からはもう結構な距離を置いていたが、それでも中から教頭が様子を見に来るのではないかと心配になるほど、勢いのある主張だった。
「私だって、ティリル先輩の力になりたい! 先輩が困ってるなら、お手伝いしたいんです。そんな風に先輩に辛く当たる人がいるって聞いて、黙って見ているなんてできません!」
「おおー。そっか、そういやあなたはティリルの大ファンですって言って挨拶してきたんだっけ。
じゃあ、今後のことは少しは安心かな。ティリルのこと、よろしくお願いね」
少しだけ驚いて目を丸くしたのち、ミスティは柔らかな笑みを浮かべてリーラにそう言った。
リーラは複雑そうな表情を見せる。恐らく、ティリルが誰憚らず親友と呼ぶミスティに対して、自分こそがと主張する意味合いを含めていたのだろう。張り合おうとしないミスティに、つまらなさを抱いたに違いない。
そして今一人。ミスティの言葉に小さからぬ感情の動きを催された者がいる。
――ティリルのこと、よろしくお願いね。
その言葉が、ミスティの口から聞かされて初めて、実感を伴った。じわりと、目尻の辺りが熱くなる。
ここで気付かせては、いけない。アルセステの策略に、凹んでいる暇はない。
「えへへ、リーラさん、よろしくお願いしますね。私これでぼんやりしてるとこ多いから、いっぱい心配かけちゃうかもしれませんけど」
「そんな! ティリル先輩のどこを取ったらぼんやりしてるなんて言えるんですか! こちらの方が先輩にご迷惑かけないか不安でいっぱいです」
さっき、校庭では、なんだか奇妙な熱視線で自分のことを凝視してきていたリーラの目が、今度はまるで崇拝する歴史上の偉人に出会ったかの如くキラキラと輝いてティリルを見つめている。この娘は本当に、何を考えているのだろう。自分などにそこまでの気持ちを込めるなんて理解ができないし、バドヴィアの名前に夢を抱いているというのならわかるけれど、いい加減ティリルにバドヴィアを想起させるような魔法の力はないことくらいはわかっているだろうに。
変な娘だ、と、彼女を見る表情が和らいでいくのを感じる。
今日からこの娘と一緒に生活するのだ。ミスティと別れるのは片腕を切り取られる程の辛さを感じるが、その穴を、きっとリーラが埋めてくれる。いや、その穴を感じぬように自分からリーラに歩み寄っていかなければ。ぎゅっと顔に力を入れ、目許に絞られた雫の欠片を、人差し指でそっと拭った。
「クリスさんも、私のしがらみに巻き込んでしまって申し訳なかったです。お二人だってせっかく仲良くやってこられたんでしょうに、こんな中途半端な時期に部屋分けになっちゃいまして」
「ああ、うん。まぁ、正直言って、迷惑だなとは思いますよ」
平然と答えてよこすクリス。ミスティがピクリと反応し眉を吊り上げたが、ティリルが笑顔で対応しているのを見て、言いかけた言葉は飲み込んだようだった。
「でも、実際リーラだけじゃなくて私も本科には上がりたいと思ってましたし、優秀な先輩にアドバイスをもらえるのであればそれはそれで望ましい環境です。幸い、ルーティア先輩はゼーランド先輩よりもずっと優秀な方みたいですし」
「あんた……。それ本当に、私にアドバイスをもらおうってつもりで言ってんの?」
今度は飲み込めなかったらしい。じろりと予科生を睨みつけるミスティの目付きは、面倒を見てやろうという上級生のそれではまるでない。
クリスはやはり、自分の失言に気付かない。表情を歪めるミスティに、え、そうですけど、どうしてですか?と心底から他意のない疑問顔。呆れながらもうっすらと口角を上げてしまうティリルに、ミスティもそれ以上は何も言わなかった。
「ティリルが気にしてないなら別にいいけど……。私はそんな生易しくはないからね。同室でそんな腹の立つこと言い出したら、あんたのスープに胡椒の塊ぶち込んでやるから」
「えぇ? 何でですか。私そんな怒らせるようなこと言ってないでしょ?」
腹の底から心外だ、とばかりに頬を膨らませるクリス。ああ、この二人はこの二人で、確かに大変そうだなぁ。自分以上にミスティの方が悪そうだし。相性、とか。
鐘が鳴る。三限目の授業の終わりを告げる鐘。
そろそろ動こうと、ミスティが、止まっていた四人の足を動かした。
事務棟の外へ出、それぞれの部屋へ戻る。今のところまだ、自分たちの部屋である場所へ。寮室移動の期限は週末。次の闇曜日まで。お互いの荷物を交換するのは闇曜の日にしようと相談した。空いている時間を考えてそれが一番都合がよかったからだが、少しでも長く一緒にいたいというティリルの本音が、他の三人に対して隠しきれたとも思えなかった。特にミスティには、隠せたはずがない。
「…………」
その日のうちはまだよかった。今日の昼間の服装について。クリスと出会った経緯。彼女の印象。リーラの暴走。服飾と化粧の文化について。話題はたくさんあった。
次の日も、平静を装っていられた。けれど、少しずつぎこちなくなっていく。日ごと。闇曜日が近付くごと。二人の距離が変わっていく。
そして、地曜日の夜。二人で同室を分け合う最後の夜に、ついに会話がなくなった。
いつもなら。そういつもなら、会話がなくてもおかしなことはない。夕食を食べ終わって、食器の片付けを一段落させて。ティリルがそんなことをしている間に、ミスティは自室に戻っている。机に向かい、自身の研究を進めるべくノートや本を広げていて、ティリルはその背中をちらりと覗き込んで、あとは、のんびり。風呂を焚いて、湯船に浸かって、寝間着に着替えて。読書をしたり、ノートを見返して復習したり、たまには、自分なりに魔法の練習をすることも。
いつもなら、そんな。それぞれだけれど、でも一緒にいる場所。
こんな、いつまでも向き合って机に座って温かいお茶などを一緒に飲んでいるのに、伝えるべき一言目が見つからない。そんなぎこちない空間ではありえないはずだった。
「…………」
沈黙が途切れない。ミスティの心が見えない。
自室に下がらない点は、明らかにいつもと違う挙動。けれど、何か言いたいのかと思っても彼女は口を開けず、目線を合わせようとしてもその目はじっとお茶のカップを見つめるばかり。何を思っているのか、まるで読み取れない。
聞いてみればいい。それだけのことと思われるかもしれない。だが、気心が知れているからこそ聞けないタイミングもある。溜息を飲み込み、ついでにお茶も一口、舌の上に流し入れて飲み込む。そこそこの値段のする美味しいお茶。その味が、今はまるで口の中に届いてこなかった。
「……ねぇ」
カップから熱気が完全に消え去った頃、ついにミスティが口を開いた。
「なに?」
返す相槌、勢い余って、ミスティの発した「ぇ」の余韻を消してしまう。
「淋しいなんて、私絶対言わないからね」
静かに、宣言した。
一瞬だけ、いなくても平気と言われたのかと怖くなった。だがそれも一瞬だけ。すぐに、強がっているだけだと受け止められた。泣くのを我慢しているようなミスティの赤い顔を、初めて見る。うん、私も。小さな声で、喉を震わせながら、答えた。
「学院から追い出されたり、研究棟を燃やされたりしたわけじゃない。ただ別の部屋に移されるだけなんだから。たったそれだけのことで、弱音なんか吐いてやんないわよ」
「うん、大丈夫。私も、まだこれくらいなら、平気な顔してられる」
小さな、しかし力強い口調で、答えた。
やはりミスティは、強い。「この程度で済んだ」と受け止められているのだから。そして、それでいて、「この程度の被害だからって、絶対に許さない」とも。つくづく、彼女の戦意に励まされる。
「私にとってはあなたは、最高のルームメイトだった。
新しい相手と比べるわけじゃなくて、またあなたと一緒に生活したい」
「…………うん。……うんっ!」
「まずは、あの勘違いオジョウサマを学院から追い出すわよ」
「……。…………うん、そうだね。これ以上、嫌な思いをする人が増える前に」
一瞬の躊躇。しかし、その迷いは自分の強い決意でしっかりと打ち消した。
はっきりと、彼女を自分の敵として認めたのは、ラクナグ師に辞令が出てしまった、あの夏の日。しかしその後も、戦う術をなかなか見出せず、なんとなく日を重ねるうちに、更なる悲しみも見過ごしてきてしまった。
いよいよ敵の矛先は、自分と、ミスティとに直接向けられてきている。いい加減、本気で戦わないといけない。
決意を強く、カップのお茶をぐっと呷り、一口に飲み干した。
翌日、ミスティは部屋を去り、代わりに新しいルームメイト、予科七年生のリーラ・レイデンがやってくる。
彼女の友人たちだろう。闇曜にもかかわらず制服をまとい、同じデザインのショートケープで肩を守った男女のグループが、布袋に包まれた大量の荷物を抱え、本科寮の三階に大挙して集まっていた。
リーラはここに来られて嬉しそうだったが、実際彼女にとっては、このたくさんの友達と、すぐに会えなくなる距離に移るような引っ越しでもあったのだ。やはりアルセステや、学院長たちの暴挙を止めなければ。
ティリルの決意は、彼らの姿を見てますます強くなった。




