1-17-6.雨の朝、頭が重く
「ティリル! あんたまたこんなに長いこと外ぶらついて」
部屋に帰るなり、さっそくミスティに叱られた。
ごめんね、と小さく謝る。強い口調で怒鳴ろうと拳を握っていたミスティが、熟れすぎたトマトのようにその勢いを萎ませる。
何かあった?と首を傾げる親友に、これ以上心配させるのも気が引けて、「夜風にあたってたら疲れが出ちゃって、眠気が……」などと言ってごまかした。
ごまかせたかどうかは、鋭いミスティのことではあるが、そうであればごまかしたい自分の気持ちにも気付いてくれるのがミスティだ。
「いっつも甘えちゃうなぁ……。こんな私が、確かに、余計なお世話だったよね」
星明りもカーテンに遮られる真っ暗な部屋の中。ベッドにどすんと倒れこみ、仰向けになって、額に重い右の腕を乗せる。
頭が沈むのは、のぼせたせいなのか自分の発言のせいなのか、言われた言葉の故なのか。
とにかく、今日をもう終わらせよう。ティリルは深く、頭まで布団をかぶって体を丸めた。
そして翌朝。
「うー…………」
雨の音に目を覚まし、上半身を起こそうと力を入れたティリルだったが、それができなかった。体が重い。頭が痛い。まるで経験したことのない体調の悪さに、むしろ戸惑い不安になる気持ちのほうが大きかった。
「……ティリル? まだ寝てるの?」
静かな声で、ミスティが覗きに来てくれた。
普段は多少無理をするティリルだが、このときばかりは素直に親友に甘える。というか、純粋に助けを求めた。
自分の体は一体どうなってしまったのか。どうして腕一本持ち上げるだけの力も入らず、ベッドに横たわったまま身動きできないのか。ベッドの横に立ち、自分の体の様子を、額や胸許に手を伸ばして調べてくれているミスティの顔を、揺れる視界で見つめながら、ティリルは不安をじっと喉の奥に押しこめた。
「風邪ね」
ルーティア医師による診断は、割と素早く下された。
「え、か、風邪……?」
「そ、ただの風邪。ちょっと熱が高いかもしれないけど、寝てれば治るわよ」
ティリルは、もう一度自分の額に手のひらをあてがいながら、笑い飛ばすような口調でそう言ってくれるミスティの顔を、下からそろそろと見上げた。
自分の不安は、まだ拭い去れない。ミスティの笑顔と言葉の軽さが安堵を持ち運んできてくれているのは感じたが、それにしても。
「あ、あの、ミスティ。今更こんなこと聞くのも恥ずかしいんだけど、その……。か、風邪って、どんなものなんだっけ……?」
そして送り出した質問は、親友の黒い眼をいつも以上に丸くさせた。
「ん? 風邪、知らない? わからない? えっと、冗談?」
「いや、知ってはいるんだよ。ただ、私、記憶の限りで風邪って引いたことなくて、その、正直実感が……」
布団で口許を隠しながら正直に答える。
非常識な発言だということくらいは認識している。風邪くらい、小さい子供でも知っている。引いたことがない人間などそうそういないし、自分も、よっぽど幼い頃には風邪を引いて父に看病されたうっすらとした記憶がある。
ただ、近年はまるでない。ここ十年以上なかったはずだ。さらに驚くことに、身近な人たちも、まるで風邪を引いている姿を見たことがなかった。
「すごいわね……。十六年間ほぼ風邪と無縁な生活を送ってきただなんて」
はぁあ、と溜めた息を吐き出したミスティ。何かを諦めたように、ティリルの額から手を放して幼児にものを教えるような気の長い表情を浮かべた。
「風邪を引くと、咳や鼻水が出るわ。喉も腫れて痛くなるし、体中がだるくて重くなる。熱が出れば、寒気もするし、頭痛もするかもしれない。症状を重くすると、熱が高くなって体も震え出して辛くて堪らなくなるわ。まぁ、よっぽど無茶しなきゃそんなにひどくならないと思うけど」
「そう、なんだ。
じゃあ、結構身体的には影響があるんだね」
ぼんやりとした頭でミスティの言葉を理解しようと噛み砕く。そうか、風邪なるものは様々な体調不良を誘発するものか。そして、全体的に悪化させれば症状がひどくなる。うんこれは当たり前のこと。じゃあ、対処するにはひとまず、走らない、飛び跳ねない、静かに歩いて静かに過ごすこと……。




