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遙かなるシアラ・バドヴィアの軌跡  作者: 乾 隆文
第一章 第十七節 幼馴染と親友
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1-17-1.ラクナグのいない基礎実習






 夏の暑さも、やや落ち着きかけていた。


 相変わらず、ティリルの周囲は不安定だった。アルセステが直接手を出してくることはほとんどない。だがたまに廊下でされる余裕のある会釈で、彼女がティリルから目を離すことがまだないと、忘れ始めるごと思い出させられた。


 その、ティリルとアルセステとの関係は、周囲にも既に浸透しきっているらしかった。直接ちょっかいを出してくるような者は最早いない。ゼルの言に従えば、周囲の人間はティリルの気丈さにも一目置き始めているらしい。アルセステに目を付けられて早数か月。いまだににこやかに毎日を過ごせているなど、見た目通りの気弱な田舎娘には適わない。バドヴィアの娘という噂が真実かどうかはさておき、どうやらそれに準ずる芯の強さなり後ろ盾なりは確かに持っているらしい。そんな評判が、広まり始めたらしい。


 さりとてティリルに話しかけてくる者の数が増えるわけでもない。大っぴらにティリルと仲良くすれば、ティリルは無事でも自分が目を付けられるかもしれない。そこまでしてティリルと付き合いたい、と思うような人は今のところいない。内心アルセステをよく思わない人間は意外に潜んでいるので、ティリルが表立ってアルセステと対立を始めれば、陰ながら応援しようという者は実はいる。けれど、陰ながらアルセステと対立しているティリルのことを表立って応援するのは、あまりに危険が大きすぎるのだ。


「構いませんよ。私には大切な友達が、もうたくさんいます。そのみんなの他にさらに、無理に友達を増やしたいなんて思っていませんから」


 いつかゼルに答えた。


 本当は少しだけ強がっていた。何とも思われていないなら、いい。下手に「一目置かれている」のに、距離を置かれてしまう。まるでサーカスの見世物にでもなったようで、穏やかな心持を保つのは難しかった。


 かと言って、いっそ表立ったあからさまな悪意が、心地よく感じるはずもない。


 九月も終わりに差し掛かった、とある風曜日のことだった。


 ラクナグ師がいなくなって、もう何度目の実習か。代わりを務めるヤルダ師は、歳の頃は三十前後といった若い女性。細身で、スタイルがよくて、顔も美人の部類に入るだろうに、常に表情が険しく印象の悪い人物だった。


「ゼーランドさん。あなた、どうしてこんな簡単な課題もできないの?」


 指名され、教壇に立たされ、魔法を実演させられた末の、師の罵倒。


「すみません」


 返す声音に気持ちなどこもらない。彼女の怒りが不条理なのも、感情的なのも最早いつものこと。他の受講生でさえ、さすがに彼女の態度を前にしては含み笑いも漏れず、小さな溜息がそこかしこに蔓延するばかりだった。


「すみませんではないわ。今あなたにやらせているのは、その気になれば予科生でもできるような簡単な課題よ? このくらいこなせないで、この学院の本科生を名乗らないでほしいわ」


 教壇に立って視界に入れていると、意外に気が付く。師の話を、辛そうな顔をして聞いている傍聴者が、何人かいることに。


 今の話題は、ヤルダ師がティリルに課した、コップ一杯の水の中にマッチの先程の火を召還するといった、自然界ではほとんど有り得ない状況下の現象召喚魔法だ。予科生でもできるような簡単な魔法、どころではない。余程の才能がなければ苦戦必至の難題だ。クラス全員で挑んだ場合、さてどれだけの瞬間火を灯し続けられるか。三秒保てばトップを狙える。そんなレベルの課題だ。ティリルが試した結果は、コンマ二秒ほどの出火。恐らく欠片も火を灯せないだろう学生もいる中で、胸を張ってよい成果だった。


 ラクナグとフォルスタのおかげ、ティリルも魔法の実力が少しずつはついてきているのだ。ヤルダはそれを認めようとしない。


 深く溜息をつきそうになって、落ち着いて息を飲んだ。ここでそんなことをしたら、更に説教の時間が長くなる。そうすれば残りの学生たちがますます辟易した表情になるに違いない。「さっさと授業進めろよ」と。


「全く。この程度の課題もろくに出来ないなんて、本当に魔法の才がないのね。前任が特別扱いして個別指導をしていたと聞いたので、一応気にしていたんだけれど」


 ぞくり、と首許の産毛が逆立った気がした。


 慌てて首を下げ、表情を隠す。曲がりなりにも授業の担任を、睨みつけないように。


「もし本当にあなたに指導をしていたなら、とんだ時間の無駄だったこと、て思うけど、ああそうか。個別補講と言いながら違うことをしていたんだったわね。それじゃあ、仕方ないわね」


 くすくすと、耳に届く嘲笑。


 こんな露骨な挑発に、応援を飛ばす者などさすがに、他にいない。


 教壇から向ける視線に、強く敵意を乗せる。


「はぁ。もういいわ、あなたがいると本当に授業が進まなくて困る。さっさと座って。後は他の人たちのやるのを見学してなさい」


「……………………はい」


 感情を押し殺した、応答。


 自分はなぜここにいるのだろう、と強く訝る。


 ラクナグ師もいない。


 自分を伸ばそうとしてくれる人間がいない。


 自分の頑張りを受け入れてくれる人がいない。


 何かをしても、否定されるばかり。


 時間の無駄でしかない。


 ぐるぐると、頭の中を黒い気持ちが渦巻く。


 毎週、こうではない。基本的には、自分は無視されていることが多い。ヤルダ師は、何を考えているのかは知らないが、全員に同じ課題を課すことを滅多にしない。特定の課題について、任意の学生を指名し、教壇でやらせてみる。その、出来具合と課題についてを全員の前で説明し、全員に魔法の技術をフィードバックする方法を取っている。


 ティリルが教壇に立たされることは稀だ。そして、今回は二度目であったが、感情的な言葉で罵倒されてばかり。少なくとも、ティリルはそういう印象を受けていた。


 自分の席に戻り、残った時間を、ティリルは中が小物入れになった木彫りの人形のような心持で、他の学生が課題をこなす姿を視界に入れて過ごした。


 感想など抱かない。抱いたら、この気弱な自分ですら何をしてしまうかわからない、だから、心を殺して過ごした。




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