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偽り魔女の変身契約婚 ~冷徹公爵に“令嬢のふり”で嫁いだら、溺愛されました~

作者: 村沢黒音

 



 今日――私は『レルナディア』として、公爵家の下に嫁ぎます。




「本当にお美しいです……!」


 侍女たちは目を輝かせて、私を見ている。

 ウェディングドレスを着た私……じゃなく、『レルナディア』のことを。


 私は鏡を見つめる。

 華やかなドレスを身にまとった美少女が映っていた。

 レルナディア様って、どんなドレスを着ても似合うなー。


「こんなにお美しい姿を目にしたら、リディオ様もお嬢様に本気になってしまうかもしれませんね!」


 褒め言葉はおべっかではなく、本心から口にしているのだろう。

 自分に向けられた言葉ではないので、私はそれを冷静に聞き流す。


 そうね。

 可愛いのは、レルナディア様。


「ありがとう」


 私は笑って、侍女たちと向き直った。

 伯爵家の彼女たちとは、今日でお別れ。


「あなたたちには、今まで苦労をかけたわね」


 『本物のレルナディア様』なら、こんなことは言わないだろうけど。

 これで最後だしね。

 少しくらいならいいだろう。


「昔は私も、体調のせいであなたたちにひどいことを言ってしまったりしたけど……でも、こうして今、私がここに立っていられるのは、今まであなたたちが私を支えてきてくれたおかげよ。本当にありがとう。私が公爵家に嫁いだ後も、元気でね」


 侍女たちは目を潤ませた。


「レルナディア様のような素敵な方にお仕えすることができて、光栄です……!」


 そう言ってくれたことは嬉しいけれど。


 ――素直に喜べない自分がいる。


 だって、その言葉も私じゃなくて、レルナディア様に向けられたものなのよね。




 それにしても、私の旦那様となるはずのリディオ様――。


 まさか、結婚式当日まで顔を合わせることがないだなんて、驚きだわ。

 どれほど忙しい方なのかしら?


 噂では、公爵令息でありながら社交界への興味はゼロ。

 日がな一日、剣を振り回していたり、モンスター討伐がご趣味だという、野蛮なお方らしい。


 一説には、トラのような大男だとか。

 お顔が無精髭だらけの、むさ苦しいお方なのだとか。


 控室の扉がノックされたのは、私の準備が終わってからだった。


 そちらに視線を向け、私は息を呑んだ。


 ……どちら様?


 室内に遠慮なく足を踏み入れてきた、美青年。

 社交界でもお目にかかったことがないような、麗しい見姿だ。


 線が細く、繊細なお顔立ち。それにも関わらず、背は高くて体幹がしっかりとしていることがわかる身のこなしをしている。


 武術のことが何にもわからない私でも、一目でわかった。

 この人、かなり強いんだろうなってことが。

 だって、歩き方にまったく隙がない。


 完璧な輪郭、さらりと揺れる綺麗な銀髪。

 そして、何と言っても特徴的なのが、その目だ。

 輝いているのかと思うくらいに、綺麗な碧眼。意志の強そうな真っ直ぐとした目付き。少し鋭い眼光は、威圧感がある。


 彼は私を見つけると、ずかずかと近寄ってきた。


 あれ、この方が着ているのってタキシードでは?

 胸元には白いハンカチーフ。


 って、ことはまさか……!?


「君が、俺の花嫁か?」


 少し不機嫌そうな声で、彼はそう言った。


 嘘……!?


 どこがトラのような大男!?

 剣にしか興味がない、脳筋男なの……!?


 令嬢たちの噂話、当てにならないじゃない!?


「リディオ・レヤードだ。これからよろしく頼む」


 にこりともしない無愛想で、彼は言い放った。

 というか、私の姿を一瞥しただけで、すぐに目を逸らされたし……。


 何か、態度悪くない……?


 私はハッとしてから、丁寧に頭を下げた。


「お初にお目にかかります。伯爵家のレルナディア・ラウェルと申します。どうぞレナと呼んでください」


 “レナ”は私の本名だけど、レルナディア様の愛称としてもおかしくはないので、私はいつもお願いしている。

 その方が咄嗟に呼ばれた時、反応できるしね。


 リディオ様は興味がなさそうに頷くと、すぐに背を向ける。


「では、失礼する」


 愛想のない言葉を残して、さっさと退出してしまった。


 ものすごく不愛想な人だな……?

 というか、私への興味がまったくなさそう。


 この結婚は形だけのものなんだな、と再認識させられた。

 私はすっかり呆れてしまったけれど、侍女たちは大興奮だ。


「い、今のがリディオ様!?」

「素敵すぎる……! よかったですね、レルナディア様!」


 嬉しそうに言ってくるが、何がよかったのか、私にはさっぱりわからなかった。




 公爵家と伯爵家の式ということで、結婚式は盛大に行われた。


 新婦入場の時よりも、新郎入場の方が歓声が大きかった。

 いや、わかるけどね?

 今までむさ苦しい大男だと思われていた公爵令息が、実はこんなに麗しい優男だったなんて、誰も想像しなかっただろうし。


 令嬢の中には、あからさまに悔しそうな顔で、リディオを見つめる人もいたくらいだ。


「汝、リディオ・レヤードは、レルナディア・ラウェルを妻とし、生涯愛することを誓いますか?」


 神父さんの言葉に、リディオは憮然とした様子で答える。


「誓います」


 何だか微妙に、嫌そうな感じがにじむ声だ。


 こんな時くらい、態度をとり繕うってことはできないのかな……?


「汝、レルナディア・ラウェルは、リディオ・レナードを夫とし、生涯愛することを誓いますか?」


 私はにっこりとほほ笑んだ。

 この無愛想魔人のリディオに比べたら、私は愛想笑いがとても得意だ。


「誓います」


 私の笑顔につられたように、神父様は優しくほほ笑んだ。


「では、誓いのキスを」


 え?

 え……?


 今、何て言った、この人……?

 だって、形式上の結婚式じゃなかったの?


 私がびっくりしていると、リディオがこちらを向いた。じっと見つめられて、私はどうしたらいいかわからなくなる。


 彼の手が腰に回る。


 嘘……!?

 本当に、しないよね……!?


 息を呑んだ。眼前には、完璧すぎる美形の顔が。少しずつ近付いてきている……!?


 こ、こんなことになるなんて、聞いてない……!

 私は沸騰しそうなほど顔を赤くして、あたふた。


 ふわ、と体が浮き上がる。

 リディオは私の腰を支えたまま抱き上げて、覆いかぶさってくるような体勢となった。

 星のように輝く綺麗な瞳が近づいてくる。


 ちょ、ほ、本当にするの……!?


 私は思わず、目を閉じる。


 だけど、いつまでたっても接触はしない。

 ぱちぱち……参列者たちが拍手と歓声を送る。


 私は不思議に思いながら、そっと目を見開いた。

 リディオの瞳が眼前にあって、ドキッと胸が跳ねる。


「……フリだけだ。そのままでいろ」


 低い声が間近で響いて、ドキドキが加速する。



 拍手の音が小さくなるまで私は、彼の腕の中で固まっていた。





 そんなこんなで、結婚式は無事に終わった。



 ……うん、バレなかったみたい。



 彼が結婚した相手が……本物の『レルナディア様』じゃなくて。

 魔女の代理人である――私ということが。



 ◇



 私の名前はレナ。

 魔女だ。


 公には、秘密にしているけどね。

 普通の人は、魔法をおとぎ話の中だけのものだと思っている。


 でも、魔女はひっそりと一般社会に溶けこんで、生きてきたのだ。

 そして、私はレルナディア様の生家――ラウェル家に仕えている。私の力を知っているのは当主様と、レルナディア様だけ。


 私はずっと変身魔法を使って、レルナディア様の代理をこなしてきた。レルナディア様は幼い頃は体が弱く、寝込んでしまうことがよくあったのだ。


 初めのうちは、ごくまれにという感じだったのに……だんだんとレルナディア様が味を占めてしまって。

 17歳になる頃には、頻繁にいろんなところに駆り出されていた。レルナディア様が病弱だったのは昔の話で、今はいたって元気そうなのに。


 こういうの、よくないと思うんだけどなあ……。私は本心ではそう思っていたけど、使用人の身分では文句を言えない。


 とはいえ、さすがにさあ……!


『妻代理』まで任されるとは、思ってもいませんでしたよ。


 最近、ラウェル家は経営難に陥っているとのことで、資金繰りに頭を悩ませていた。

 そんな時、公爵家から資金援助の申し出があった。

 その代わり、提示された条件は『レルナディア様が公爵家の嫡男に嫁ぐこと』であった。


 それも、正式な妻としてじゃない。

 公爵家が求めているのは、1年間の契約結婚だ。その間のお飾り妻を、レルナディア様にしてほしいとのことだった。


 公爵家の令息といえば――。


 通称、“氷上の虎”と呼ばれている人だ。

 令嬢たちの噂話で耳にしたことがある。公爵令息にして、現王国騎士団の団長を務めているのだとか。


 剣の腕は一流。ただし、武闘以外に興味を抱かない、変わり者として有名だ。

 レルナディア様の代わりに出席したパーティで、噂を耳にしたことがある。


 曰く、モンスターを素手でも倒せそうな、頭の先からつま先まで筋肉が詰まっているような大男なのだとか。

 曰く、社交の場にいっさい顔を出さないので、気遣いもマナーもなっていない、野性的なお人柄だとか。


 なるほど……。レルナディア様がいかにも嫌がりそうな男性だ。レルナディア様は『線の細い美形男子と結婚したい』と常日頃から言っているしね。

 そんな男のところに嫁ぎたくないだろう。1年間だけの契約結婚とはいえね。


 そして、私に白羽の矢が立ったのだった。




 ◆




 公爵家嫡男――リディオ・レヤードは初めから、この結婚に乗り気ではなかった。



 所帯を持ってほしいというのは、父からの要請だった。

 公爵位をそろそろリディオに叙したいというのだ。

 そのためには、妻が必要となる。


 彼が提示した女性は、伯爵家の長女・レルナディアだった。


 その名を聞いた時、リディオは気乗りしなかった。

 レルナディアと言えば――癇癪持ちの女という噂だ。花瓶を投げ飛ばし、怒鳴り散らし、気に入らない食事は叩き落とすらしい。

 リディオの屋敷には、以前、ラウェル家に仕えていた者がいて、その話を聞いていた。


 そんな女が自分の妻になるなど……。

 内心では嫌だったが、事情が事情だけに仕方ない。


 契約結婚の間は、レルナディアとはなるべく距離をとって、つつがなく過ごそう。

 ――仮面夫婦で結構だ。

 彼はそう思っていた。



 ◆



 私が公爵家に嫁入りして、数日が過ぎた。


 ――暇すぎる!!


 何にもやることがないのだ。

 奥さんという立場が、こんなにも暇なことだったなんて!


「……というか、結婚式の日以来、旦那様とも会ってないし」


 私は自室のソファで、ぐったりと倒れこむ。


 これが本物のレルナディア様だったら、嬉々としてゴロゴロしまくるのだろうけど、私は退屈なことが苦手だ。

 何かしてないと、頭の中が腐っちゃう。


 そうだ、屋敷探検にでも行ってみよう。

 そう思って、鏡に姿を映した。


 本来の私の外見は、地味だ。

 貴族の血が入ってないし、平民なんだから当然だけど。


 ベージュ色の髪は、ゆるく癖がついている。目鼻立ちは素朴で、パッとしない。赤茶色の瞳は良く言えば元気そう、悪く言えば、雑草のような強かさを感じさせる。上背があって、健康そうな体付きだ。

 いかにも、下町の町娘といった見た目だろう。


(可憐なレルナディア様とは、大ちがいね)


 そう思いながら、私は呪文を唱えた。

 変身魔法だ。

 私の体は光に包まれて、変わる。


 細い金髪、色白の肌、可憐な碧眼。

 頼りなげな顔立ち。体付きも小さくて薄っぺらくて、華奢だ。いかにも守ってあげたくなるような美少女。


 うんうん。

 今日もレルナディア様の見た目は可愛い。


 私は満足して、廊下へと出た。

 ちょうどやって来たメイドとすれちがう。


「こんにちは」


 にこりと笑って、挨拶。


 あ、相手の顔、見覚えがある。

 メイドは私の顔を見て、小馬鹿にしたように笑った。


「まあ……奥様」


 黒髪をひっつめにしてまとめている女性だ。歳の頃は40ほど。

 メイド長のダリアだ。

 旦那様は屋敷にいる時に「困ったことがあれば、彼女に相談しろ」と言っていた。


 ダリアは眉をひそめて、あからさまに迷惑そうな顔をした。


「今、屋敷をお掃除中でして。奥様のお召し物を汚すわけにはいきませんので、奥様はお部屋にいらしてください」

「え? えっと……」


 戸惑う私に構わず、ダリアは部屋へと歩き出す。私を中へと押しこむと、


 ばたん!


 遠慮しない早さで扉を閉めた。


 ん? 今のってまさか、体良く追い返された?


 それからも、何度か廊下に出ようと試みた。

 だけど、メイドに見つかるたびに部屋に戻されてしまった。どうやら、他のメイドたちも「私を部屋から出すな」ってダリアに言いつけられているみたい。


 もしかして、これって嫌がらせ……?

 どうして?

 私……まだ何もしてないんだけど……。なぜか、使用人たちからは冷たい目で見られていたし。


 私って……もしかして、歓迎されていないのかな?



 ◇



 レルナディア様の代理で、リディオ様の奥様をするようになってから、数日。

 私はメイドたちに部屋に閉じこめられている。別に監禁されてるってわけでもないけど、外へ出ようとすると、戻されてしまうのだ。


 そこで、何とか外に出ようと考えた作戦が……。


 私は変身魔法を使った。

 鏡を見て、満足する。


 うん、上出来。


 レルナディア様の顔はそのまま、首から下をお仕着せ服に変えていた。金髪の長い髪は三つ編みにして。

 これならぱっと見、ただのメイドに見える。


 レルナディア様以外の顔にすることも考えたけど、知らない人間が屋敷の中をうろついていたら大問題になる。

 もし咎められたら、『自分はレルナディアで、屋敷の中を探検してみたかったのでメイドに変装した』と謝ればいい。


 私は部屋の窓から庭園を見下ろした。


 公爵家のお庭は、とても素敵だった。きっと腕のいい庭師がいるにちがいない。

 お花も、庭木も、とても生き生きとして見える。

 噴水に、立派なガーデンアーチ。


 素敵……! あそこを歩いてみたい。

 庭園を見つめる私の目は、期待でキラキラと輝いていたことだろう。


 今、見える範囲に人影はない。

 だから、やるなら今が絶好のチャンス!


 私は窓枠を踏みしめて、えいや、とジャンプした。


 風の音、久しぶりに味わう外の空気。

 そして、全身を包む浮遊感――。


 私は3階から落ちながら、風魔法の呪文を唱える。


 地面が近づいてくる。

 その瞬間、私の体をふわりと風が包み込んだ。落下は緩やかになって、私は地面に足を下す。


 わあ……久しぶりの地面。

 草の朝露を含んだ爽やかな匂いが、心地いい。


 こうして見渡してみると、本当に立派な庭園。

 伯爵家の庭園もお気に入りだったけど、レルナディア様のお世話で忙しくて、ゆっくりと散歩する暇もなかった。


 伯爵家ではどこにいても、すぐにレルナディア様の声が飛んできた。


『レナ! 助けて!』


 って。

 その心配がなく、こんな風にのんびりとした時間を過ごせるのは、久しぶりのことだった。


 私は綺麗な花壇に見とれながら、小道を歩いていく。

 すると、


「そこで何をしている」


 鋭い声が飛んできた。


 そんな……もう見つかっちゃったのかな?

 もっとゆっくり散策したかったのに。


 がっかりしながら、私は振り返る。


 そこに立っていたのは、男性の庭師だった。

 年の頃は初老といったところか。ロマンスグレーの髪を後ろになでつけている。

 作業着姿で、膝や軍手が土にまみれているけど、あまり不潔な感じはしない。彼の顔立ちが軍人のように険しく、体格もいいからだろう。


「新人メイドか……道にでも迷ったのか」


 彼は眉をひそめて、私の姿を観察する。

 その言葉で、私は口元が緩みそうになった。


 どうやら変身が功を奏して、私の正体が『奥様』ということに気付いていないみたい。


「お前の仕事は?」

「ちょうど、一段落ついたところだったんです」


 ということにしておきましょう。

 嘘は言っていない。

 私の仕事はお飾り妻で、今はやることがないんだもの。


 そこで私は、彼の横に手押し車があることに気付く。積まれているのは、お花の苗だ。


「苗を植えていたんですか? 私もお手伝いしてもいいですか?」


 考えるより先に言葉が飛び出しちゃった。

 だって、久しぶりにやってみたかったから。


 庭師の男は何も答えない。花壇のそばにしゃがみこむと、スコップで土を掘り始めた。その様子を見ていると、顎でくいっと横を示される。そこにはもう1つ、スコップが落ちていた。


 ……手伝ってもいいってこと?


 庭師の人は相変わらず、怖い顔をしている。何も言ってくれないから判断に迷うところだけど……。


 でも、久しぶりの庭仕事! 私は、うずうずとした気持ちを抑えることができなかった。


 しゃがみこむと、土の匂いが鼻先をかすめる。

 私はスコップで土を掘って、苗を植える。1つめを植え終えると、隣から視線を感じた。


「……手慣れているな」

「庭仕事、好きなんです!」

「…………」

「これくらいの間隔でいいですか?」

「…………」


 ざっざっ。

 土を掘る音だけが辺りには響く。


 ずいぶんと無口な人だ。


 私は隣の花壇に目を向けた。そちらは緑一色で埋まっていて、花が1つも生えていない。一見すると地味な光景だけど、草の形に見覚えがある。


「お花だけでなく、薬草も育てているんですね」

「……見ただけでわかるのか」


 そこで庭師は手を止めて、驚いたように私の顔を見た。


「他のメイドたちには、雑草だと誤解された。メイド長に至っては、『そんな不格好な草、すべて撤去しなさい』と……」

「そんな……!? だって、あれって、パルデシアですよね? とても貴重な薬草じゃないですか」


 男は、ふ、と小さく息を漏らした。

 口角が少しだけ上がっていることに、私は気付く。


「リディオ様と、同じことを言う」

「え……?」

「リディオ様も薬草に詳しい。ここで薬草を育てたいと発案してくれたのもリディオ様だ」

「へえ……」


 それなら、私とリディオ様って、もしかしたら話が合うのかも……?

 まあ、結婚式の日以来、リディオ様とは会ってないから、そもそも話す機会がないのだけど……。


 その後、庭師と私は無言で苗を植えた。


 作業が終わると、彼は小さな声で告げる。


「…………ありがとう。おかげで早く片付いた」


 無口だけど、とてもいい人。

 嬉しくなって、私はにっこりと笑う。


「私も楽しかったです。お手伝いできることがあったら、また言ってくださいね!」

「…………」


 彼は何も言わなかったけど、また口の端が上を向いていた。


 ――その時だ。


「あなた……何をしているの?」


 冷ややかな声が後ろから。

 振り返ると、メイド長のダリアが私のことを見ていた。


 ああ……見つかっちゃった。


 こんな格好をしていても、ダリアとは何度か顔を合わせているから、レルナディア様だとすぐにわかるだろう。


 ダリアは私の顔をじろじろと見ると、


「あら? どこかで見かけた顔ね」


 嫌みったらしい声で言った。


 この反応……やっぱり気付いているよね。

 またお部屋に戻されちゃうのかなあ……。


 庭師の人がダリアに尋ねた。


「彼女、新人ですか」

「ええ、そうよ」


 うん……!?

 ためらいなく言い切ったな?


 ダリアは意地の悪そうな顔で、にやにやと笑っている。

 私の腕をとって、歩き出した。


「来なさい。あなたには任せたい仕事があるの」


 見下すような視線を私に送ってくる。

 こんなに至近距離から敵意を向けられたら、私もさすがにわかる。ダリアって、私のことが嫌いなんだなあって……。


 リディオ様はあまり屋敷には帰ってこないし、ここでは彼女のやりたい放題なのかもしれない。


「ああ、そうそう。ブルース。もし彼女が今後、暇そうにしているところを見つけたら、私に言いなさい。彼女にはやってほしい仕事が山ほどあるの」


 私はダリアの言葉を、初めの方しか聞いていなかった。


 ――ブルースさんというのね!


 優しい庭師さんのお名前が知れた!

 嬉しくなって、私は彼に手を振った。


「ブルースさん! お話できて楽しかった。また会いましょう!」


 ブルースさんはきょとんとした様子で目を見開く。

 その直後、ふ、と小さく笑って、私に手を振り返してくれた。


 すると、ダリアは険しい顔で私を睨みつける。今にも舌打ちしそうな雰囲気だ。自分の嫌みが利いていないのが悔しいのだろう。


「……そんなに仕事が欲しいのなら、いいわよ。あなたには、たっぷりとお仕事を与えてあげる」


 ダリアは暗い笑みを浮かべながら、そう言った。



 ◇



 ダリアは私のことを「新人メイド」として、屋敷の皆に紹介した。メイド長の言うことだから、皆も信じてしまったみたいだ。

 それからというもの、毎日のようにダリアに仕事を押し付けられていた。


 本物のレルナディア様なら嫌がっただろうけど……。

 私はその方が退屈せずに済んで、助かっていた。だって、もともと伯爵家では使用人でしたし。


 私はその日も他のメイドさんにまぎれて、洗濯をしていた。


「まあ、レナ。あなたって、本当に手際がいいのね!」

「ありがとうございます。ベティさん」


 メイドの1人、ベティが私の手付きを見て、感心している。

 彼女はこの公爵家に長く勤めているメイドだ。恰幅のある体系にほがらかな笑顔。いつもほわほわとほほ笑んでいて、そばにいると安心する。


 彼女は私のことを何かと気にかけてくれている。やり方が間違っていたら丁寧に教えてくれるし、上手にできたら褒めてくれる。


 ベティは私の向かいにしゃがみこんで、タライの中でシーツをこすっていた。そうしながら私に優しく尋ねる。


「どう? ここでの仕事はもう慣れた?」

「はい。おかげさまで」

「そう」


 ベティはにっこりと笑って頷く。

 その後で、少しだけ声の音量を抑えて、


「あなた、ずいぶんとたくさん仕事を押し付けられてない? もしかして、メイド長に目を付けられるようなこと、何かしちゃったの……?」


 おっと、私がダリアからいびられていること、他のメイドさんたちも気付いているみたいだ。

 私はあいまいに笑って首を傾げた。


「さあ……私には心当たりはないのですが。あ、でも、前の屋敷で働いていた時より、今の方が楽なので、そんなに気にしてないですよ!」


 それは本当の話だ。

 伯爵家では朝から晩まで働きづめ、勉強尽くしだった。何せ、レルナディア様の身の回りのお世話をしながら、彼女の代理業をこなしていたから。暇な時間があっても、すぐレルナディア様に、「レナー! 助けて!」と呼びつけられていたし。


 今はダリアにはこきつかわれているとはいえ、それは昼間だけだ。夜はちゃんとメイド姿から奥様にふさわしい姿に戻っている。

 とはいえ……リディオ様の帰宅時間は毎日バラバラだし、夕飯も別々にとっているから、彼とはまったく顔を合わせてないんだけど。


「そう……あなたも若いのに、大変な目にあっているのね。ここでのことも、わからないことがあったら何でも聞いてね」


 ベティは目を潤ませて、私の顔を眺めた。……すごくつらい境遇だったって勘違いされてる?


「そういえば、あなたはもう、奥様とは顔を合わせた?」


 ぶっ!!!


 ベティの言葉に、危うく崩れ落ちそうになった。


 すみません……私が、その奥様なんです……。

 とは、とても言えない。


「い、いえ……まだです」


 自分とは顔を合わせられないよね……というわけで、嘘は言ってない。


「そう……実は私もまだなのよね。本当は初日にご挨拶をするはずだったんだけど、どうも奥様が気難しい方らしいみたいで。『使用人なんかとは、口も聞きたくない』って」


 ええー……?

 おかしいな……?


 私、そんなこと、言った覚えないけど?


 というか、初日に私がダリアに「屋敷の皆さんを紹介してほしい」とお願いしたら、「皆、忙しいので」と断られたんだけど?


「奥様はここに来て以来、ずっとお部屋にこもられているみたいなの。この家がお気に召さなかったのかしら……」


 いえいえ!

 そんなことないから!

 ダリアに閉じ込められていただけだから!


「メイド長の話では、奥様ってよくない噂があるそうなの……。昔、伯爵家に勤めていたメイドから聞いた話だって。癇癪もちで、すぐ使用人に当たり散らすとか。何事も面倒くさがって、自分がやるべきことを人に押し付けようとするとか。あ、私から聞いたってことは言わないでね」


 えーっと……?

 なるほど……。


 それで、私が姿を見せなくても、誰も不思議に思わないんだね。


 リディオ様も、その話は知っているのかな?

 もしかして、それで避けられてる……?



 ◇



 その話を聞いた翌日。

 いつものように私がメイドに扮して、お仕事をこなそうとしていると……。


「あら……おはよう……レナ……」


 覇気のない声。

 振り返ると、ベティが顔を真っ赤にしていた。モップを支えにして、何とか立っているという状態だ。


「ベティさん!? どうしたんですか、顔が真っ赤です」


 私は彼女の元へと駆け寄った。


 体に触ると、熱い!


 意識が朦朧としているのか、目の焦点も合っていない。私は彼女を支えて、部屋へと連れて行こうとした。


 その直後、


「何をしているの! さぼってないで、仕事をしなさい!」


 きつーい声が飛んでくる。

 メイド長のダリアが目を三角にして、怒鳴りつけてきた。


「ベティさんは熱があるんです。今日は休んでもらいます」


 私が言い返すと、ダリアは鼻の頭にしわを寄せる。


「あーら……なぜ、あなたがそれを決めるの? おかしいわね。この屋敷の責任者も管理者も、メイド長のはずよね。あなた、いつからメイド長になったの?」


 えー……いやいやいや。

 確かにメイド長は、メイドたちの上司にあたるかもしれないけど。


 私はこれでも、奥様……!

 あなたたちよりも立場が上のはずなんだけどなあ……?


 私が面食らっていると、ベティが口を開いた。


「レナ……大丈夫よ。……彼女の言うことには、逆らっちゃダメ……。私なら、大丈夫だから……」

「ベティさん……」


 私は彼女の手をぎゅっと握りしめた。


 こんなに熱くなっている……! 今にも倒れそうなのに、これ以上、無理をさせるわけにはいかない。


 私はダリアの言葉を無視して、ベティを支えながら歩き出した。


「ちょっと……! どこに行くの!? 仕事をしなさい!」


 ダリアが喚き散らしていたけど、そんなのは無視だ。




 ベティを部屋へと運んで、ベッドに寝かせた。


「すぐにお薬を持ってくるから。ダリアが何を言ってきても、無視して寝ているのよ。いい?」


 私は彼女の手を握って、声をかける。返事はなかった。ベティの呼吸は苦しそうで、声を出すのもつらそうだ。


 私はすぐに自室へと向かった。魔法の呪文を唱えて、一瞬で着替えた。


 お仕着せ服から、ドレス姿に。

 三つ編みにしていた髪はほどいて、まとめている暇はないから、今は背中に下ろすだけ。レルナディア様の金髪は細くて、ふんわりとウェーブしていて、これだけでも華やかだ。


 鏡に自分の姿を映して、確認する。


 うん、やっぱりレルナディア様はこういう格好がよく似合う。生粋のお嬢様といった感じだ。


 メイドの格好だと、ダリアに舐められてしまう。

 だからここは、この家の奥様として振舞うところだろう。


 着替えた私が向かったのは、庭師のブルースのところだった。


「ブルース、お願いがあるんだけど」

「はい……え、あっ……奥様……? なぜ私の名を……? …………えっ?」


 ブルースは私にぎょっとしてから、こちらの顔を確認して、更にびっくりしている。私がメイドの格好していた娘であることに気付いたみたいだ。

 事情を説明している暇はないから、私は続けて尋ねた。


「ここに生えている薬草を、いくつかもらっていってもいい?」

「え……はい。…………どうぞ……」

「ありがとう」


 ブルースはぽかーんとした顔のまま固まっていた。


 ごめんね。

 こんな形で私が本当はメイドじゃないってことを、知らせることになっちゃって。




 次に、私はキッチンに向かった。


「奥様!?」

「どうしたんですか?」


 メイドたちが驚いて私を見る。


「キッチンを使いたいの。貸してくれる?」


 そう言い切ると、彼女たちはこくこくと頷いた。

 私は薬草を作業台の上に並べた。


 これでベティのために薬を作る。


 薬作りは、魔女の得意分野。


 まずは薬草を包丁で細かく刻む。

 それを鍋で煮込んでいく。独特の青臭い臭いが、辺りに広がった。

 ぐつぐつと水泡が出てきたところで中身をかき混ぜる。


 ――ベティが早くよくなりますように。

 その願いをこめながら、私は呪文を唱えた。



 ◇



 できた薬をコップに移して、私はローラと共にベティの部屋へと向かう。

 ドアを開ける間際、ヒステリックな声が響いてきた。


「この、怠け者! いいから、早く持ち場に向かいなさい!」


 急いで中へと入る。

 メイド長のダリアが喚き散らしていた。


「仕事を放棄するのなら、今月のお給金はないものと思いなさい!」


 ベティは頭がフラフラとしているのだろう。うわ言のように謝り続けている。でも、体の自由が効かないようで、起き上がることができない。


「ダリア。何をしているの」


 私が冷静に声をかけると、


「あら……奥様」


 ダリアは私の顔を見て、わざとらしく驚いた表情を浮かべた。


「職務怠慢なメイドを叱責していただけですよ」

「ベティは怠け者じゃないわ。そんなに苦しそうにしているのに、見てわからないの? 熱があるのよ」


 彼女の横を通り抜けた。

 ベティの背に手を当て、体を起こす。


「奥様……何をなさるおつもりですか」

「彼女に薬を飲ませるの」

「薬ですって……?」


 ダリアは近寄ってきて、私の手元を見る。そして、嫌そうに眉をひそめた。


「あら、やだ……ひどい臭いね。どこでそんなものを手に入れたんです? 薬師はこの屋敷に常駐していませんよ。そんな得体のしれないものを、彼女に飲ませるわけにはいきません」

「あなたの許可は必要ないわ」

「奥様。メイドたちは私の管理下にあるのですよ。私がダメと言ったら、ダメなのです」

「どうして、それをあなたが決めるの?」

「それはもちろん、この家の管理者は私だからに決まっています」


 ダリアは誇らしそうに胸を張る。

 私は呆気にとられた。


 すると、


「――いつから、そんな決まりができたんだ」


 廊下から声が届く。


 私たちはびっくりしてそちらを向いた。

 そこに佇んでいたのは、


「だ、旦那様……!?」


 ダリアが顔を蒼白にする。


 え、リディオ様……!?

 どうして、ここにいるの?


 不機嫌そうに眉をひそめて、ダリアのことを睨んでいる。彼と目が合うと、ダリアは一瞬で顔色をなくした。


「お帰りになられていたのですか……!?」


 久しぶりにリディオ様の姿を見るけど、やっぱり顔がいい。

 優れているのは見た目だけで、私に契約結婚を持ちかけてきた上、何日も放置してくるような鬼畜男だけど……。


 今だってリディオ様は私に興味がないようで、ダリアにだけ鋭い視線を向けている。


「ダリア、状況を説明しろ」

「は、はい……いえ、その……」


 ダリアは慌てて言った。


「奥様がおかしなものをメイドに飲ませようとするので! 私はそれを止めようとしていただけでございます」

「怪しいもの?」


 リディオ様は怪訝な顔でこちらを見る。

 あ、やっと私と目が合いましたね。とはいえ、彼が興味あるのは、私が手に持っている物の方だけれど。


 リディオ様は足早に歩み寄ってくると、私の手元を覗きこんだ。


 ちょ、近い……!


 いきなり接近されると、心臓がびっくりしちゃうんだけど……。


 戸惑っている私に構わず、コップを奪いとる。


「薬か。どこでこれを手に入れた」

「え? あ、その……」


 私は返答に困って、視線をさまよわせた。

 仕方ない。

 ここは下手な言い訳はなしで!


「……自分で、調合しました」


 リディオ様は目を丸くしている。


「君は、薬の調合ができるのか」


 じっと見つめられて、私は目を逸らす。

 すると、リディオ様は薬のコップを私の手へと戻す。


「彼女に飲ませようとしていたのだろ。飲ませてみろ」

「なっ、旦那様!? よろしいのですか! そんな得体のしれないもの……!」


 ダリアが口を挟むと、リディオ様は冷たい視線で彼女を射貫く。一瞬でダリアを黙らせる、鋭い眼光だった。


「問題ない」

「なっ……え……? あっ……」


 ダリアは口をパクパクとさせて、何も言えなくなってしまった。

 私はベティの背中を支えて起こす。


「さあ。ベティ。もう大丈夫よ。これを飲んで」


 ベティは朦朧とした目で私の顔を見る。


「奥様……?」


 何か言いたそうな顔をしていたが、素直にコップに口をつけた。



 ◇



 その後、ベティの熱はすぐに下がった。顔色も良くなり、今は静かに眠っている。

 私とダリアは、リディオ様の執務室に呼ばれた。


「ダリア。先程のお前の態度は、どういうことだ」


 強く咎める声だ。

 ダリアはいつもの高圧的な態度を消しさり、へりくだるように言った。


「誤解でございます。わたくしは、奥様が妙な物をメイドに飲ませようとしているものと思って……」

「妙なもの?」


 リディオ様は不快そうに目を細める。

 威圧感がすごい……!


 もしかして、「虎」って異名はここから付けられたの? と思うほどの、鋭い眼光だった。睨まれただけで、ダリアは顔面蒼白になって、体を震わせている。


「見分けはつかなくとも、調べればそれが薬だということはわかっただろう。そうしなかったのは、お前が彼女のことを最初から疑い、軽んじていたからだ」

「ち、ちがいます! 誤解でございます!」


 ダリアは必死で訴えるけど、リディオ様には響いてないみたいだ。


「『この家の管理者は私』……お前はさっき、こう言っていた」

「そ、それは……!」

「屋敷のことは、妻に一任しているつもりだ。俺が不在の間、彼女はお前の主人に当たる」


 リディオ様は有無を言わせぬ口調で続けた。


「主人に対して、お前はあのような横暴な口を聞くのか?」

「え、あっ……」


 ダリアはもう声も出ない。

 すると、リディオ様は私の方に顔を向けた。


「俺が不在の間、君の世話はダリアに頼んでいた。だが、この様子では、ダリアは君に何か不躾なことをしていたのではないか?」

「えっーと……」


 うーん、何て言おうかなあ。

 意地悪はされていたけど、そんなに実害はなかったのよね。


 私も、せこせこ動き回っている方が性に合っていたから。

 たまにきついことを言われもしたけど、それは伯爵家にいた頃から経験してたことだったし。


 私は悩んでから、答えた。


「特には。何もありません」

「…………」


 リディオ様は何も言わない。

 一方、ダリアは目を見開いて私を見た。


「……えっ……?」

「私はそう認識してます」


 リディオ様は目をつぶり、静かに言った。


「……そうか」


 何か言いたそうにしていたけど、その言葉を呑みこんだ感じだった。

 リディオ様は冷たい目でダリアを見据え、


「ダリア、退出してくれ。お前の処遇は、追って連絡する」

「その、旦那様……! 誤解なんです! 私は奥様のことを軽んじたつもりは……!」


 ダリアは真っ青な顔ですがろうとするけど、リディオ様は険しい顔をする。


「退出しろと言っている」


 取り付く島もない対応に、ダリアは項垂れた。

 よろよろと部屋を後にする。


 よし、それじゃあ、彼女に続いて……!


「では、私もこれで~……」

「待て」


 そそくさと逃げ出そうとした私に、リディオ様が冷静に声をかけてきた。


「君に、聞きたいことがある」


 ひぃ……!

 な、何でしょうかね……?


 リディオは見透かそうとするかのような、鋭い視線を送ってきている……!


 沈黙を経てから、リディオ様は静かに切り出した。


「君の作った薬は、騎士団で使われているものと同じ匂いがした」


 え、そうなの?


 騎士団でどういうものを使っているのか、私は知らないけど……。


「そうなんですね。……偶然にも」


 偶然、という言葉に力をこめる。

 そこでリディオ様は眉をひそめ、考えこむようにする。


「いや……同じどころか、騎士団の薬よりも濁りが少なく、綺麗な色をしていたな」

「そっ、そうなんですか……」

「…………」

「たまたま調合がうまくいってよかったです……!」


 リディオ様は訝しげに眉をひそめた。


「君はどこで薬の調合を覚えた?」

「えーっと……」


 ここは誤魔化しても仕方ない。私は正直に答えることにした。


「お……」

「……お?」

「…………お母さんに、教わりました」


 魔女の家系なもので。

 沈黙が流れる。

 リディオ様はゆっくりと頷いた。


「…………。そうか」


 一応、納得……してくれたのかな?


 そうだといいな……。

 そんな希望をこめて、彼を見返す。

 すると、リディオ様は丁寧に続けた。


「ベティは長い間、この家で働いてくれている。彼女を救ってくれてありがとう」


 え……?

 私は少しびっくりした。


 この人、メイドの名前と働きぶりを、ちゃんと把握している……?


 伯爵家の旦那様は、メイドの名前どころか顔すら覚えていなかった。それが貴族社会では普通だと思っていたのに。


 リディオ様って……。

 マナーのなってない野蛮男……じゃなかったの?



 ◆



 レルナディアが退出した後――。


 リディオは執務室の椅子に腰かけて、物思いにふけっていた。


(薬の調合を母親に教わった……だと?)


 机の引き出しから、1枚の紙をとり出す。

 それはレルナディアの釣書だった。初めてこの紙に目を通した時、リディオは何の感慨も抱かなかった。


 生まれも育ちも貴族。

 よく言えば、「どこに出しても恥ずかしくない、いい生まれの娘」。

 だからこそ、リディオはまったく興味を惹かれない経歴だった。


(やはりだ……レルナディアの母は、元は伯爵位。れっきとした貴族階級の女だ)


 その母親が、薬の調合についての知識を持っているとは思えないのだが……。


 それからリディオは屋敷の者たちを呼び出して、普段の彼女の様子を聞いた。

 そして、驚愕の事実を知ることになる。


(め……メイドに扮して、働いていただと……!?)


 そんなことをする貴族の娘がいるものか。

 というか、どういうことだ。

 レルナディアは、癇癪もちの怠け者ではなかったのか。聞いていた噂と、まるでちがう。


 なぜか薬の調合ができて。

 なぜかメイドに扮して、朝から晩まで働いていた。


 ……リディオは自分の妻に俄然、興味が湧いてきた。



 ◆



 リディオ様からの追求から何とか逃れて、その日の夕方のこと。

 私の部屋を訪れる人物がいた。


「奥様」


 恭しく言って、頭を下げているのはベティだ。

 彼女の姿を見て、私は驚いた。


「ベティ……!? もう具合は大丈夫なの?」

「ええ。奥様のおかげで、すっかり良くなりました」


 私の顔を見てから、彼女は深く頭を下げる。


「その……まさか奥様だったとは知らず……今までとんだご無礼を」

「いえ、そんな……私の方こそごめんなさい。あなたを騙そうとしたつもりはなかったんだけど……部屋に閉じこもっているばかりじゃ退屈で」


 話している途中で私は気付いた。

 離れたところにたたずむ、もう1人の影。


 庭師のブルーノは私と目が合うと、慌てた様子で頭を下げた。


「ブルーノ……あなたも来ていたのね」

「奥様……。まさか奥様に庭仕事を手伝っていただいていたとは……」

「とても楽しかったわ。私、お掃除もガーデニングも大好きなの。ねえ、これからも、あなたたちの仕事をお手伝いしてもいい?」

「いえ、それは……!」


 私はくすりと笑って、付け加えた。


「旦那様にはバレないように、こっそりとね」


 すると、ベティとブルーノは顔を見合わせる。困ったように吹き出した。


「ええ、それは気を付けないとですね」

「……もちろんです」


 空気が緩んだところで、私は1つ提案する


「それと、お願いがあるんだけど」

「はい」

「私のことは、これからも『レナ』って呼んでくれる?」


 2人は笑顔で頷いた。


「「はい……レナ様」」


 その明るい声に、私も笑顔になった。



 ◇



 それからというもの……。

 様子がおかしいです。

 旦那様が……!


「今日は君と一緒に夕食をとろう」


 今まで私に興味ゼロだったくせに!

 急にそんなことを言い出すものだから。


 私は困った。そして、なぜか私よりも、ベティの方が張り切っていた。


「今日はレナ様の可憐な姿を磨きに磨いて、存分に美しくしてみせますからね!」


 あの日以来、ベティは私にとても親切だ。

 メイド長のダリアは、この屋敷からいなくなっていた。代わりにベティがメイド長に就任した。


 ベティが私にいろいろと尽くして、悪い噂も払拭してくれたから、他のメイドたちの態度も優しくなった。

 庭師のブルースも、私に会う度に声をかけてくれる。今が見頃の花を教えてくれたりとか。庭仕事を手伝おうとしたら、断られたけど……。


 以前のように部屋に閉じこめられることもなくなったから、好きに屋敷内を探索できる。


 ――つまり、ここでの暮らしが一気に快適になったのだ。


 だから、もう私としては十分、満足していたんだけどなあ……。

 なぜ旦那様まで……?


 夕食の誘いを断ることはできずに、私はベティに飾り立てられていた。

 鏡に姿を映して、私も満足。


 金髪はアップにまとめ上げられた。頬には淡い紅が差され、唇は艶のある桃色。

 薄桃色のドレスがふわりと揺れて、まるで春風をまとっているみたい。


 うん、レルナディア様の姿はやっぱり可愛い。元の私の地味姿では、着負けしていただろうけどね。


 食堂に向かうと、すでにリディオ様がいた。


「――レナ」


 こちらを見て、やんわりとほほ笑む。

 その表情にちょっとドキリとした。


 というか、『レルナディア』じゃなくて、『レナ』って呼んでくれるんだ……。結婚式の日に、私からそうお願いしたけどさ……。今まで一度も名前を呼んでくれたことなんてなかったのに。


 まるで、本当の私のことを呼んでくれたみたい。


 リディオ様は私の姿を眺めて、優しい声で言った。


「とても素敵だ。可愛いな」


 ……どうしよう、頬が熱くなってしまう。


 いや、でもちがうよね。リディオ様の目に映っているのは、私じゃなくて、レルナディア様だもん。可愛いのは私じゃなくて、レルナディア様!

 そう自分に言い聞かせた。胸の奥がちくりと痛んだけど……それは気付かないふりをする。


 こんなのはもう、慣れっこだから。

 私は幼い頃から、いつだってレルナディア様の『代わり』だった。

 だから、こうして褒められた時も、つつがなく対応するのだ。


「ありがとうございます」


 愛想笑いで流して、着席。


 そして、初めて旦那様と一緒に夕食をとった。

 リディオ様は、不愛想で気難しい方だと思っていたのに……。意外にも会話が弾んでいた。


「ブルースが君を褒めていた。薬草の植え方について、アドバイスをしたそうだな」

「え……あ、はい。パルデシアは成長後は、日に当たりすぎるとよくないので……日陰に植え直すといいんです」

「よく知っているな」


 リディオ様は感心した様子を見せる。


「メイドたちの顔も、以前より明るくなった」

「……そうでしょうか」

「屋敷の居心地がよくなったんだ。君が来てくれたおかげだ」


 そんな風に、直球で褒められると照れる……!


「いえ、それはメイド長のベティが有能だからです。彼女のおかげですよ」

「そのベティが、君のおかげだと言っている」


 リディオ様はそう言って、私の顔をじっと見つめた。初めて会った時は冷徹で、ほとんど目も合わせてくれなかったのに……。


「君みたいな人が俺の妻になってくれて、よかった。レナ」


 何でそんな甘そうな視線を向けてくるんだろう……。私はすっかり困ってしまって、俯いた。




 それ以来、リディオ様は私と食事をとるようになった。

 夜だけでなく、朝も。



 私が話すのは薬草や花についてとか、屋敷での出来事とかだ。リディオ様はいつも興味深そうに聞いてくれた。

 リディオ様は騎士団の話をしてくれた。昔から貴族社会が窮屈でたまらず、剣を振っている方が性に合ったのだという。社交界にもあまり顔を出していなかったんだって。

 そのせいで、『野蛮な男』という風評が広まってしまったらしい。


「リディオ様、社交の場では“氷上の虎”と呼ばれていますよ。野性的で猛獣のようなお人だと思われてます」


 私がそう言うと、リディオ様は水を吹き出しかけた。


「何だそれは……! 俺は、そんな風に言われているのか」


 私も思わず、ふふっと笑ってしまった。

 自分についての噂話も知らないなんて……本当に、社交界に興味がなかったんだなあ。


 話が弾むし、リディオ様はいろいろと気遣ってくれる。さりげなく椅子を引いてくれたり、食後の茶を注いでくれたり。

 一緒にいるのが、すごく心地いい。


 こんな日がずっと続けばいいのに。私はいつしか、そう思うようになっていた。

 でも、この生活はそのうち終わってしまうのだ。


 私は本物のレルナディア様じゃない。それに、これは契約結婚だ。1年後に私はこの屋敷から追い出される。


 ――それまではせめて、私の正体がこの人にバレないようにしたい。


 私はそう願っていた。



 ◇



 季節はすっかり春めいて、あちこちで夜会が開かれるようになった。

 私たちの元にも招待状が届く。


「出席してみよう」


 リディオ様が言うと、屋敷の者たちは皆、目を剥いた。


「旦那様が……!? いつもあんなに嫌そうにされていたのに!!」


 ベティは俄然として、張り切りだした。私を飾り立てることに燃えていた。

 リディオ様もなぜか、それには乗り気だった。ベティと相談して、どんなドレスにするか、アクセサリーはどうするかを真剣に決めていた。


 そんなこんなで、夜会当日となって……。

 私はリディオ様の腕に手を添え、ぴたりと寄り添っていた。こうしていると、本物の夫婦みたいだ。


 ホールに足を踏み入れた瞬間、ざわめきが起きる。

 リディオ様が珍しく社交の場に姿を現したからだろう。


 ――そして、その隣には私がいたから。


 私たちは人々の視線を受けながら歩いた。


「……皆、驚いていますね」

「こういう場に出たいと思ったのは、初めてだ」


 リディオ様は私の手を握って、真剣な声で言う。


「レナ。君がいてくれるおかげだ」


 私を見つめて、リディオ様は優しくほほ笑んだ。驚きの声が周囲から上がる。


 ――あの“氷上の虎”が、笑った。

 ――というか、リディオ様って、あんなに素敵な人だったの!?


 音楽が始まると、リディオ様の手は私の腰に添えられた。

 ゆるやかな旋律に合わせて踊る。


「お似合いのご夫婦ですわね」


 誰かがそう囁く声が聞こえる。

 リディオ様がふっと笑った。すごく嬉しそうだった。


 私も胸が熱くなる。

 仮初めではなく、本当に“夫婦”だと認めてもらえたようで――。


 けれど私は、胸の内でそっと呟いた。


 ――ちがう。私は本物じゃない。



 ただの“代わり”なのに……どうして、こんなに嬉しいんだろう。



 ◆



 伯爵位ラウェル家の別邸にて――。


 本物のレルナディアは、屋敷にこもりきりとなっていた。

 表向きは公爵家に嫁いだことになっているので、誰にも姿を見られてはいけない。外に出ることは禁じられ、退屈な日々が続いていた。


 常人であれば嫌がるだろうが、レルナディアは今の状況を満喫していた。

 レルナディアは生粋の面倒くさがり屋だ。パーティもお茶会も億劫だった。人の顔は覚えられないし、マナーについてうるさく言われるのも嫌だ。ダンスは上手く踊れないので、やりたくない。


 ――それに比べれば、今の環境がどれほど恵まれていることか!


 一日中、ベッドで過ごすことができるのだ。


 朝から菓子を部屋に持ちこんで、それをかじりながら、彼女は読書をしていた。

 最近のお気に入りは、ロマンティックな恋愛小説だ。

 特に、美貌の男性に見初められて、とろけるほどに愛されるストーリーが好きだ。

 レルナディアは一日中、本の世界に没頭していた。


 ほう……とため息をついて、自分もこんな恋がしてみたいと夢想する。


(やっぱり、結婚するなら線の細い美形がいいわよね。それに比べて、あの公爵令息ときたら……うげぇ)


 自分に持ちこまれた縁談を思い出し、彼女は顔をしかめた。


 あんな野蛮男と結婚するはめにならなくて、よかった。

 “氷上の虎”などという物騒な異名を持つ、筋肉まみれの男。

 そんな人と、仮にも夫婦となるだなんて――想像だけで、ぞっとする!


(結婚をレナに押し付けられて、よかった。それにあいつ、いい加減、うざかったのよね。邪魔な女もいなくなって、野蛮男との結婚も回避できて、一石二鳥だわ)


 魔女のレナは、自分が幼い頃からずっとラウェル家に仕えてくれている。

 しかし、レルナディアは彼女のことが苦手だった。


 レナの賢そうな目付き、てきぱきとした言動、明るい笑顔――そのすべてが、自分の神経を逆なでした。

 彼女と一緒にいると、自分の不出来が際立ってしまうかのようで――。


(ちがうわ。私は悪くない。お父様もそう言っていたもの。ダンスが苦手なのも、マナーに疎いのも、病気のせいなんだから!)


 レルナディアは自分にそう言い聞かせた。

 病弱だったのは10年も前の話で、今はいたって健康なのだが……。そのことからは目を逸らす。


 とにかく、今はこの天国のような環境を存分に満喫しよう。


 レルナディアは、お菓子とお茶が切れてしまったことに気付いた。面倒だが誰かを呼びに行こうと、ベッドから下りる。

 自室を出て、使用人を探していた――その時だった。


「そういえば、あの噂、聞いた?」

「ああ……公爵家のリディオ様でしょう? 最近は、社交の場にも顔を見せるようになったとか」

「すごく素敵な方なんですってね! レルナディア様も残念よね。代理の人に結婚を押し付けたりしなければよかったのに」

「しっ……それは言っちゃだめよ」


 レルナディアは目を見開いて、固まる。

 次の瞬間、彼女たちに勢いよく詰め寄った。


「ねえ、その話ほんと?」

「ひっ……レルナディア様……!」

「詳しく聞かせてくれる?」


 怯えた様子のメイドに、レルナディアはにこやかに問いかけた。



 ◆



 春の陽射しが差しこむ、穏やかな昼下がり。


 私はベティと一緒に中庭を歩いていた。ブルースが新しく植えた花の世話をしている。私も手伝いたかったのに、2人に止められてしまった。

 ……ちょっとくらいなら、いいのにね。

 でも、今の私はお仕着せ服じゃなくて、奥様らしくドレスを身にまとっている。このドレスは、最近、リディオ様が贈ってくれたものだった。


 夜会に出席してからというもの、リディオ様の様子はますますおかしくなった。

 私にいろいろと贈り物をしてくれるようになったのだ。ドレス、アクセサリー、髪飾り……。


 私がそういうものにあまり興味を示さないと知ると、今度はベティやブルースを呼び出して、あれこれ聞き出したみたいだ。

 そして、贈り物は、本とかちょっと珍しいお菓子とか、お茶になった。

 それは素直に嬉しい。もらった日の夜、笑顔でお礼を言ったら、リディオ様はしばらく固まっていた。


 ……意外と、不器用な人。でも、そんなところが素敵だと思う。


 このままずっと、ここにいられたらいいのに。

 ――心から、そう思った。


 その時、玄関の方から、慌ただしい足音と声が聞こえた。


「……どうしたのかな?」

「さあ……何かあったのでしょうか」


 ベティも首を傾げて、そちらを見る。

 メイドの1人が血相を変えて駆けてくる。


「お、奥様っ……! たいへんです! 奥様のご実家が――!」

「実家……?」


 私とベティは急いで、玄関ホールへと向かった。

 そこには、2人の姿があった。その顔を見た瞬間、私は頭が真っ白になる。ベティは「え!?」と息を呑んでいた。


「れ、レナ様が……もう1人……!?」


 金髪を緩く巻き、ふわりとしたドレスをまとった女性、本物のレルナディア様。

 その隣には、厳めしい顔をした伯爵――レルナディア様のお父様だ。


「久しぶりね。レナ」


 レルナディア様が唇の端を吊り上げ、白々しく言った。

 笑顔なのに、瞳は冷たい。


「……れ、レルナディア様……」

「まあ、驚かないで。ちょっと遊びに来ただけよ。――ねえ、お父様?」


 伯爵が一歩前に出る。


「これまでご苦労だったな。だが、初めから(・・・・)話していた通り、お前の代役はあくまで一時的なものだ」


 喉の奥が詰まって、声が出ない。

 レルナディア様がにこやかに続けた。


「ありがとう、助かったわ。……でも、もう結構よ。そろそろ奥様の立場、私に返してもらえる?」


 返す――?


 息が詰まる。

 ここでの暮らし。リディオ様の笑顔。ベティやブルースと過ごした、穏やかな日々。

 それがすべて終わってしまうの……?


 伯爵は冷徹な視線で、私を見据えた。


「さあ、支度をしなさい。馬車を待たせてある。――お前はこのまま伯爵家に戻るんだ」

「戻るって……」


 レルナディア様は、勝ち誇ったような顔をした。


「やだ、だってあなたは私の偽物なのよ? 偽物がずっとここにいるなんておかしいじゃない。大丈夫よ、これからは私が奥様として、ここで暮らしてあげるから」

「でも……私……」

「おしゃべりは無用だ、早くしろ」


 伯爵はぴしゃりと告げ、私の腕をつかむ。


「さあ、行くぞ」

「わ……私は……」


 嫌だ。

 連れて行かれたくない。

 ずっとここにいたい。


 でも、彼らに反論する術を、私は持たなかった。


 ――だって、本当は自分でもわかっていたから。


 私は本物のレルナディア様じゃない。彼女の代理だった。

 リディオ様が結婚したのは、伯爵令嬢のレルナディア様だ。平民で、ただの使用人で、怪しげな術を使う魔女の――私じゃない。


 ここに私の居場所は、どこにもなかった。


 ベティが震える声で「レナ様……!」と叫ぶ。すかさず、伯爵の家令たちが彼女を押しとどめた。


「お父様、早く! 誰かに見られる前に」


 レルナディア様が急かすと、伯爵は頷いた。

 私を引きずって、外へと出ようとする。


 その時。


「……誰かに見られる前に、とはどういう意味だ?」


 静かな声。

 伯爵がぎくりと肩を震わせる。

 ゆっくりと顔を上げる。陽光の中に立っていたのは――リディオ様だった。


「リディオ様……」


 思わず名前を呼んでしまった。

 リディオ様はまっすぐこちらに歩み寄ってくる。

 彼は伯爵の手を不快そうに振り払う。そして、私の肩を優しく抱いた。


「レナに……俺の妻に何をしている?」


 伯爵は一瞬たじろいだが、すぐに取り繕う。


「これは――誤解なのです、リディオ様! 彼女にはこれまで、娘の代理役を努めてもらっておりました」

「代理だと……?」


 リディオ様の声が一段と低くなる。


「騙そうというつもりは、これっぽっちもございません! これには、致し方ない事情があったのです。娘は幼い頃より病弱でして……結婚式当日も、ベッドから起き上がることが困難な有様で……。せめて、式の間だけでも一時的に従者を代理にと判断したのです。しかし、それ以降も、娘はなかなか体調が戻らず、この日まで代理を立て続けることとなってしまいました」


 リディオ様は何も言わない。

 黙って、伯爵の言い分を聞いていた。


「ご説明が遅れてしまったこと、お詫び申し上げます。しかし、娘は今ではこの通り、回復いたしました」


 伯爵の言葉に、レルナディア様は得意げに胸を張る。


「ええ、そうです。もう十分、元気になりましたので。これ以降は、本物の私――レルナディアが、リディオ様の妻として、ここで過ごさせていただきます」


 リディオ様は静かにレルナディア様の顔を見る。すると、レルナディア様はうっとりとした様子で彼を見つめた。


「同じ顔をしているな。元より、この2人は似ているのか?」

「いいえ、リディオ様。その者――レナは実は魔女でして」

「魔女……!?」

「レナ、いつまで娘のつもりでいるつもりだ。いい加減、その不気味な変装は解きなさい」


 伯爵が冷たい声で言う。

 私は肩を震わせて……リディオ様から目を逸らした。


 本当の姿を、この人に見られたくない……。レルナディア様みたいに可愛くないから、きっと幻滅されちゃう。


 でも、伯爵の命令には従うしかなかった。

 小さな声で呪文を唱える。


 すると、綺麗な金髪は暗いベージュ色に変わった。顔立ちはパッとしない、地味な女。それが本当の私。

 身に着けていたドレスはそのままだから……せっかくリディオ様が贈ってくれた素敵なドレスだったのに。私の元の姿だと、着負けしちゃうね……。


 レルナディア様が私を見て、勝ち誇ったようににんまりとした。

 伯爵もこびへつらうような笑顔で、リディオ様に語りかける。


「この通り、魔法で娘の姿に変身させていたのです。これで、おわかりいただけたでしょう? その女は偽物。こちらにいるのが本物のレルナディアです」


 沈黙が落ちた。

 リディオ様の視線が私に突き刺さる。

 怖くて、顔を上げられなかった。


 ――レルナディア様と私を見比べたら、誰だって彼女の方が美しいと言うだろう。


 リディオ様も……妻にするなら、美しい女性の方がいいに決まっている。

 私なんて……選ばれるわけがない。


 心臓がずきずきと痛んだ。


 すると、リディオ様は静かに言った。


「……そうか。つまり、お前たちは――」


 底冷えするほどの声だった。伯爵がびくりと身を固くする。


「式の日に娘が体調を崩し、従者を“代わり”に立たせた。そして、そのまま何日も放置し、説明の義務も放棄し――俺が不在の間に、従者と本物をこっそりと入れ替えようとした。そういうことだな?」

「いえ、その、決して悪意があったわけでは……っ!」

「悪意があったかどうかは、この際、どうでもいい」


 リディオ様の声が低く落ち、空気が凍りついた。


「俺がこれまで一緒に暮らし、夜会に出席したのは彼女だ。そこにいる、話をしたこともない女ではない。レナが俺にとっての本物の“妻”だ」


 リディオ様は私の肩をぐっと抱き寄せた。

 その掌の温かさに、胸が苦しくなった。


 嘘……。私は信じられない思いで、顔を上げる。

 一方、レルナディア様は愕然としていた。


「な、何言ってるの!? リディオ様、あなたが結婚したのはこの私よ!!」

「だが、式の当日にも、この屋敷にも、君は一度も姿を現さなかった。俺の隣にずっといたのは彼女だ」


 伯爵がさっと顔色を青くする。


「しかし、その女は単なる使用人……! それも不気味な術を使う、魔女なのですよ!?」

「使用人だろうが、魔女だろうが、関係ない。彼女が俺の妻だ。彼女以外、俺は考えられない」

「で、ですが、正式な婚姻書には……!」

「ああ、そうだな。婚姻書には、伯爵家並び、伯爵令嬢である君の名が記されている。だが、それには契約不履行があった。こちらに無断で、別人を身代わりに立てるなど……。この婚姻は無効なものであったとして、後日、正式な異議を申し立てる」


 リディオ様はそう言い切って、私を抱き寄せる。


「俺は彼女と結婚する」


 伯爵は顔面蒼白になった。

 その横でレルナディア様が「どうして!? 何で何で何で!!!!」と癇癪を起こしていた。リディオ様もベティも彼女を見て、冷ややかな眼差しとなる。


 ベティが納得したようにため息を吐いた。


「……旦那様。『本物のレルナディア様』の悪い噂は、すべて本当のことだったようですね」

「そのようだな。おい、その者たちを屋敷から追い出せ」


 使用人たちが駆け寄ってきて、2人を拘束する。外につまみだされている間も、レルナディア様はずっと喚き散らしていた。



 ◇



 ――それから、数カ月後。


 リディオ様と私は、正式に夫婦となった。

 私の身分は平民なのに……。リディオ様がいろいろと動いてくれたおかげで、公爵家の承認も王家の認可も下りた。


 結婚式は静かに、けれど屋敷の皆に祝福されて、温かな雰囲気で行われた。


 一方、レルナディア様と伯爵家は、すっかり噂の的になっている。婚姻詐称と契約違反の罪に問われ、降爵処分を受けた。公爵家から多額の慰謝料も要求されて、大変なことになっているみたいだ。


 今も私は、公爵家の屋敷で穏やかに暮らしている。

 朝はベティが淹れてくれるお茶を飲み、リディオ様と一緒に庭を歩く。ブルースが私のためにと、新しく花壇も作ってくれた。


「レナ」


 振り向くと、リディオ様が立っていた。

 彼が私を呼ぶ声は、いつでも優しいから……少しくすぐったい。


「そろそろ昼食にしようか。ベティが今日は君の好物をそろえるのだと、張り切っていたぞ」

「はい」


 彼が差し出した手を、私はおずおずと握った。

 爽やかな風が中庭を通り過ぎる。


 私たちは並んで歩く。


 ずっと、聞けなかった言葉が喉に引っかかっていた。

 けれど今なら――勇気を出せる気がした。


「……リディオ様」

「うん?」

「本当に……私で、よかったんですか?」


 彼は少しだけ目を瞬いた。


「どうしてそんなことを聞くんだ」

「だって……私、令嬢でもなければ、魔女だし……レルナディア様みたいに可愛くもない。あなたの隣に立つのが、いまだに少し怖いんです」


 言葉にしてしまうと、胸が痛くなった。

 リディオ様は静かに私の頬に手を伸ばした。


「レナ」


 名前を呼ぶ声が、優しく響く。

 そのまま、彼の指が私の頬を撫でた。

 温かくて、心が震える。


「俺は、君だからよかったんだ。それに『可愛くない』なんて、そんな風に思いこむのはやめてほしい。君の笑顔は明るくて、可愛い。ずっと見ていたいと思った。あの日、本物のレルナディアと君が並んだ時も、すぐに見分けがついた。レルナディアの姿だから可愛いと思ったんじゃない。君の心が素直に表れた笑顔……それに俺は惹かれたんだ」


 胸がいっぱいになって、言葉が出ない。

 私は泣きそうになりながら笑った。


「リディオ様の隣にいられて、私……幸せです……っ」

「俺もだ」


 そう言って、彼は私を抱き寄せた。

 顔が近付いて、私は目をつぶる。

 唇が触れた。


 優しくて、温かい。

 長い間、『私なんて……』と思っていた暗い心がほどけていく。

 

「……リディオ様。大好きです」

「俺も君のことが好きだ」


 彼がほほ笑んで、もう一度、キスをした。

 その温もりに私は胸を震わせていた。


 ああ、やっと――この世界に、私の居場所ができたんだ。


 これからは、誰かの代わりじゃなくて、『レナ』として生きていくことができる。本当の私のことを見てくれる人たちがいる。


 それが何よりも幸せだった。




 終わり


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― 新着の感想 ―
魔女ちゃん、何か誓約があってあんな酷い人達に悪感情を持つことなく易々諾々と従っていたのでしょうねえ。 ホンモノのお嬢様が自身を振り返る事が出来るといいですけど難しいかしらね。 とりあえず魔女ちゃんが最…
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