第3話「ウサギ」
まだ日も昇り切らない早朝に、メイドのカーラは屋敷の裏庭へと出た。
数年前からブレーゼ家に仕えている彼女は今年で18歳になったばかりだった。
ブレーゼ家の使用人の中では珍しく平民の出である彼女への待遇はお世辞にもいいとは言えないものだった。
しかし、彼女は他の者があまりやりたがらない仕事も率先して引き受けるため、見る目の厳しい使用人仲間たちからの評判もそこそこにはあった。
ネズミなどの害獣や害虫の駆除から、広大な庭の草むしりなどをしている傍らで彼女には密かな楽しみがあった。
それは屋敷の裏庭で飼われているウサギの飼育当番である。
本来は食用として使われるはずだったそのウサギたちを、カーラは複雑な思いを抱きながら育てていた。
大事に育てていても、すぐに食べられてしまう。特にお気に入りだった白いウサギが晩餐として供された時には、悲しみを堪え切れずに涙を流してしまったことがある。
レイナルドたちの食事が終わった後、カーラは塞ぎ込んでいた。名前までつけたお気に入りのウサギが食べられてしまったことが尾を引いて浮かない表情をしていた時、いつもはほとんど会話を交わさないコーデリアがいきなり話しかけてきたのだ――。
「カーラ、どうしたの? 浮かない顔をして」
「ひぁっ!? お、奥さま!? い、いえ……どう、というわけでは」
「いつも明るく笑っているあなたが今日は一段と落ち込んでいるようだから気になっていたの。良かったら、少しお話ししない?」
まさか伯爵夫人にこんな風に声をかけられるとは思わなかった上に、せっかくのお誘いを断るようなことも出来るわけがない。カーラは否応なくコーデリアの誘いに応じた。
当初はこの伯爵夫人に対してあまりいい印象を持ってはいなかった。とても美人なことには違いない。しかし、上には上がいるものだ。あのレイナルド伯爵に相応しい女性はもっと他にいるのではないかとも思っていた。
それに、彼女は口数も少ない。陰気というわけではないが、底抜けに明るいカーラとはどうにも相性が悪いのだ。しかもコーデリアは平民の出である。そんな身分の者がどうして名門とも謳われるブレーゼ伯爵家の人間に娶られることになったのか。
つまるところ、カーラはコーデリアに対して嫉妬の感情を覚えていた。
そんなことは露知らず。コーデリアはわざわざ来賓室にカーラを招いて、高級な紅茶と茶菓子を用意しながら穏やかに問いかけてきた。
可愛がっていたウサギが食べられてしまって悲しい。そんな子供じみたことを言うのは恥ずかしかった。大体、自分だってウサギ肉を何度か口にしたことはある。そんな文句が言えるはずもない。
でも、この時は不思議とそんなことは忘れてしまって自分の思っていたことを馬鹿正直に話してしまった。そして言い終わってから凄まじく恥ずかしくて失礼なことを口にしたのではないかと思い、俯いて黙り込んでしまったのだが。
「……そう。確かに、ウサギは可愛らしいものね。カーラの気持ちもよくわかるわ」
「で、でも、あの、申し訳ございません……あたしみたいな人間がこんなこと言える資格なんてないのに」
「気にしないで。それに身分なんて言ったら、私だって普通なのよ? 本当はこんなお屋敷の旦那さまに娶られるはずもない」
カーラはコーデリアが憂いを帯びた表情をしている原因が何となくわかった。
コーデリアは、きっと自分の生まれと現在の立場のあまりの違いに困惑を抱いているのだろうと。
特に夫のレイナルドは美しいものには目がない。今までに何度も女遊びをしてきたという噂なら聞いたことがある。もっとも、それもコーデリアを娶った頃にはすっかりやめていたようだが。
今はまだいい。でも、夫はいつか自分に飽きてさっさと別の美しい女――しかも上流階級の女性――を娶って、捨てられてしまうのではないか。そんな不安が頭から離れないのだろう。
気が付けば、カーラはコーデリアと積極的に話してしまっていた。
そしてコーデリアの美しさは外見だけには留まらないとも思った。
ただの使用人でしかない者が言う言葉に真摯に耳を傾けて、その青空のように澄んだ碧眼で見つめてきながら優しい言葉をかけてくれる。
他の貴族の家の夫人とは明らかに違う。それは当たり前だ。彼女は平民だったのだから。
でも、ただの平民ともまた違う。彼女の仕草や言動の端々には洗練された気品のようなものが感じられた。
何より、時折浮かべる慎ましやかな笑顔がとても魅力的だった。嗚呼、旦那さまはこれにやられたに違いない。カーラはそう思った。
「ねえ、カーラ。良かったら、ウサギを飼ってみる気はない?」
「え? う、ウサギをですか? どこで……?」
「もちろん、このお屋敷で。今の飼育場所を少し改良して、ちゃんと住みやすい環境にしてあげて飼うのはどう?」
「で、でも、育てた後はやっぱり食べて……」
「それはやめにしましょう。私からもあの人にそう伝えてみるから」
にわかには信じられない話だったが、同時に少しだけ心が躍る気がした。
可愛らしいウサギを食べずに、育てることが出来るなんて。実現したらどれほど素晴らしいだろう。
「私もね、ウサギを食べるのは少しかわいそうだと思っていたのよ。馬車の中で膝に載せて撫でているとね、何だか自分の子供のような気分になってきちゃって」
貴婦人はウサギを愛玩用として可愛がることもある。現にコーデリアは馬車で外出する際などにはウサギを連れていくこともあった。
「あなたの可愛がっていた子を食べてしまったのは、居た堪れないしもうその子は帰ってこないけれど……まだ残っている子たちをお世話してあげるつもりはないかしら?」
「あ、あります! あります!」
「他の使用人のみんなはあんまり興味がないかもしれないから、お世話が大変かもしれないけれど大丈夫?」
「はい! 大変なお仕事なんて慣れっこです! それにふわふわのウサギのお世話を出来るならちっとも大変じゃありませんし!」
カーラがそう言うと、コーデリアはくすくす笑って頷いた。
「それじゃあ、そうしましょう。ちゃんと名前もつけてあげてね? そうしたら私にあなたの可愛いウサギさんを紹介してくれるかしら」
「もちろんです! ありがとうございます、奥さま!」
「ふふ、いいのよ。カーラがまた笑ってくれて嬉しいわ。あなたはやっぱり笑顔でいるのが一番ね」
「え、あー、あはは……」
照れ隠しに笑うと、コーデリアは「良かったら」と付け加えた。
「これからもたまにこうやってお話しをしない? どんなことでもいいからあなたのことを聞かせて?」
「あ、あたしは平民なので奥さまに面白いお話が出来るかは自信がないんですけど……」
「だからこそよ。私も元は平民だもの。お貴族さまの煌びやかなお話なんかより、平民の普通のお話の方が聞いていて親しみも湧いてくるから」
それから、カーラとコーデリアはよく話をするようになった。
とても馬が合い、まるで親友と話をするかのような気さくさで。
たまに声を上げて笑ってしまうコーデリアの姿を見て、カーラもまた大きな声で笑い、それを聞いていた他の使用人たちに咳払いをされてしまうほどだった。
だからこそ、信じられなかった。
裏庭に撒き散らされた夥しい量の鮮血や、臓物の類が。
何羽ものウサギが惨殺されていることが。
そして、その血溜まりの中に座り込んでウサギの腹から腸を引き摺り出して食らっている女性の姿が。
こうして見られていることにも気付かずに、雪のような素肌も白いドレスも血塗れにして無心でウサギを喰らい続けるコーデリアの姿が。
ぐちゃぐちゃと汚らしい音を立ててウサギの臓物を喰い散らかしていたコーデリアがふと動きを止めた。
そしてゆっくりと顔を上げて、自分を見据えてくる。
その青くて美しい眼球が自分を捉えた時、カーラは耳をつんざかんばかりの悲鳴を上げた。
「パトリック。カーラの方は上手くやってくれたかい?」
「はい。数ヶ月分の給金を渡して一時的に暇を与えました。戻ってくるかどうかは判断しかねますが……」
「仕方がないね。カーラはコーデリアのいい話し相手だったから、ショックも大きいだろう」
レイナルドは寝室で眠りに就くコーデリアの穏やかな寝顔を見つめていた。
裏庭で飼われていたウサギたちが死んでいたことは一部の使用人たちにしか知らされていない。
悲鳴に真っ先に気付いたパトリックがすぐに現場へと向かい、状況を理解して他の使用人たちをなるべく遠ざけたからだった。
2階の寝室で眠っていたレイナルドは疲労が溜まっていたせいもあり、悲鳴に気付くことが出来なかった。
そして彼が起きた頃には、血塗れだったというコーデリアの服は着替えさせられていた。
今でも彼女がウサギを喰い殺したということは信じたくなかった。信じられないわけではない。信じたくなかったのだ。
最近の彼女の様子は常軌を逸していた。食事もほとんど肉しか食べず、野菜には口をつけない。前は好きだった果物や茶菓子などにもほとんど興味を示さなかった。
コーデリアがウサギの飼育を提案してきてから2年の月日が経っていた。
様子がおかしくなる前の彼女はお気に入りのウサギを見つけては、外出の際に馬車の中に持ち運んでよく可愛がっていた。少し前までは食用としていたそれを。
だから、いつか彼女が再びウサギの肉に興味を示し始めるのではないかと思っていたが、事態はレイナルドの予想を更に超えていた。
「裏庭の始末の方は?」
「古参の使用人たちと庭師に任せています。若い使用人たちには裏庭に近づかないように、別の仕事を手配しておきました」
「ありがとう。……嗚呼、私がいけないんだ。私が無様に眠りこけていなければ、コーデリアがそんなことをするのを防げていただろうに……!」
「坊ちゃまのせいではございませんよ。どうかご自分を責めたりなさいませぬよう」
レイナルドは顔を苦渋に歪ませ、握り拳を作った。
その姿を見て、最古参の老執事は言った。
「坊ちゃま。奥さまのご様子はやはり尋常ではありません。一度、教会に相談なさるというのはいかがでしょうか」
「医者でも匙を投げたんだぞ。教会の者たちに何が出来ると言うんだい? 今まで多額の寄付金も納めたし、毎夜の神への祈りすら欠かしたことはないのにこのザマだ」
「奥さまは何か悪いモノに憑かれている可能性もございます」
「お前が信心深いのはわかるよ。でも、じゃあどうすればいい。寄付を増やせばいいのか、朝から夜までずっと祈ればいいのか。それとも聖水を一口飲めばあっと言う間にコーデリアはいつもの彼女に戻ってくれるとでも言うつもりかい? 聖水を買うにも金が必要だ。まったく、いくら払えばその神さまとやらは満足してくれるんだい」
レイナルドは教会や神への祈りについては懐疑的だった。
それと言うのも、彼が学生時代の時、教会の神父が街中にやってきては豪遊を繰り返すさまを何度か見かけたことがあったからだ。
神にすべてを捧げているはずの人物が泥酔し、女遊びに耽り、貴族以上に羽振りがいいのを目の当たりにした。
当時、まだ若かったレイナルドもまた女遊びをしていた際に、偶然に酔っ払った神父と出会い話を弾ませたものだがその内容は酷いものだった。
信徒を金の生る木としてしか見ていない。若い信徒の女には手を出し、救いを求める道端の物乞いには唾を吐きかけた。
まるで金だけ持っているゴロツキそのもののようだった。あんな者たちに何が出来る。それがレイナルドの本音だ。
「きっと彼らはコーデリアを見てこう言うさ。『おぉ、何と嘆かわしい。信心が足りなかったに違いありません。神への祈りと教会への寄進が夫人を邪なる者からお救いする唯一の方法となるでしょう』とかそんな感じにね」
「しかし、坊ちゃま。このまま黙って見過ごしていれば、奥さまが一体どうなってしまわれるか」
「……食欲を満たしてあげればいい。そのためにも食材と料理人の確保が必要だね。食糧の取引先をもっと増やさなければ」
「では、そのように手配を致します」
「ああ。私も後で仕事に戻るからそれまで頼むよ」
老執事が部屋を辞した後、レイナルドはコーデリアの寝顔を見つめたまま言った。
「大丈夫だよ、コーデリア。君のことは私が守ってあげるからね」
眠れる妻の頬を撫でようとした時、レイナルドはコーデリアの頬に小さな出来物があることに気が付いた。
出会ってから今日に至るまで、肌荒れ1つなかった彼女にしては珍しい。
だが、これだけ色々あったのだから無理もないだろう。
レイナルドはそのままコーデリアの寝顔を眺め続けた。




