第2話「飢え」
数日後。
コーデリアの食欲は更に増していた。
食べる量が尋常ではない。屋敷に仕える料理人は6人いたが、とても彼らだけでは賄え切れなくなってしまった。
黙々と食事を続けるコーデリアを見つめていたレイナルドに、そっと声がかけられた。
「坊ちゃま。少々お話が」
「後に出来ないか」
「申し訳ございませんが急を要することですので」
そう言ってきたのはブレーゼ家に仕える老執事だった。
レイナルドの父がまだ子供だった頃から仕えていて、ある意味でこの屋敷のことにもっとも精通している人物でもある。
彼――パトリックの言うことは無下には出来ない。
「コーデリア。すまない、少しだけ席を外すよ。すぐに戻ってくるからね」
「……ええ、わかったわ」
コーデリアはどこか茫洋とした様子で答えた。
「坊ちゃま。奥さまのご様子は流石に常軌を逸しております」
「……いくら私でもそんなことはわかっているさ。しかし、この前医者に見せた時には何の異常も見られなかっただろう? 何かあるとすれば、精神的なものですぐに落ち着くだろうと」
異常な食欲のコーデリアを診察した医者は、結局どこにも悪いところなどないと言った後に精神的なことが影響しているのかもしれないとだけ付け加えた。
実際に大量の食事を摂るコーデリアの様子を見せた時には驚愕の表情をしていたが、何もわかりはしなかったのだ。
「奥さまがどのようなことが原因で異常をきたしているのかは存じ上げません。ですが、まずはあの食欲を支えるために料理人を用意しなければなりません。今の人数ではとても……」
「わかった。至急、募集の手配を頼む。出来るだけ腕のいい者を」
「坊ちゃま。短時間で条件の良い人手が集まるとは思えません」
「ならば、コーデリアに豚の餌でも食わせろとでも言うつもりか!?」
思わず声を荒らげてしまったレイナルドは、はっとした顔をしてからバツが悪そうに頭を掻いた。
「すまない。お前に怒鳴ってもどうなるものでもないと言うのに」
「お気になさらず。坊ちゃまもだいぶお疲れのご様子。奥さまのことを気にしておいでなのは存じておりますが、少しは身体を休めませんと。手配は私めの方で進めておきますので」
「ああ、そうだな……だが、私は心配なのだ。最近のコーデリアは前のように笑ってはくれなくなったし、ひどく物憂げな顔をしている。せめて私が傍にいてやらねば、どうにかなってしまうのではないかと」
「今日のところはもうお休みください。寝室も分けた方がいいでしょう」
レイナルドは悩む素振りを見せるものの、深い溜息を吐いてから頷いた。
食堂に戻った時、レイナルドは信じられない光景を見た。
「なっ、こ、これは一体!? コーデリア、どうした、コーデリア!?」
コーデリアはローストされたチキンにかぶりついていた。
食器類は床に散らばり、素手で肉を鷲掴みにして顎が外れそうなほどに大口を開けて肉汁を飛び散らせながら肉を貪っている。その姿はまるで飢えた野生の獣そのもののようだった。
レイナルドの問いかけに答えることもなく、コーデリアは次々と肉を食いちぎっていく。
その姿には元は平民でありながらも立派な淑女として過ごしてきた彼女の面影はなかった。
「だ、旦那さま。奥さまが先程から急にフォークとナイフを投げ捨ててしまってこのようなことに!」
「誰か、コーデリアにおかしなことを言ったりしなかったか!?」
「誰も何も申し上げてはおりません! 本当に急なことで私たちにも何がなんだか……」
見れば、10人以上いる使用人たちがみな戦慄した様子でコーデリアの姿を見つめていた。
コーデリアは平民の出だ。レイナルドが認めて娶った手前、彼の前では誰もが彼女のことを称えた。
しかし裏では平民だったコーデリアのことを妬んだり、蔑む者がいたのも事実である。
彼らは時折、わざとコーデリアに聞こえるような声で悪し様に罵ったこともある。それが度を越してしまい、一度だけコーデリアが自分の前で泣き崩れた時があった。
陰口を叩いていた者はわかる範囲で解雇した。だが、今残っている連中とて裏では何を思っているかわかったものではない。だからこそ、レイナルドはコーデリアを1人にしておくことに躊躇いを覚えてしまうのだ。
だが、今回ばかりは使用人たちが何か言ったわけではないのだろうと悟った。誰も嘘を吐いているようには見えない。
「コーデリア。大丈夫かい、コーデリア」
コーデリアは何も答えない。ただ肉を食らい続けるのみだった。
骨に付いた肉をこそげ落として食うと、今度はいつまでも骨をしゃぶり続ける。
どこを見ているか判然としない無表情で、ひたすらに骨に齧りつき、遂には噛み砕いた。ばきっばきっと骨が砕ける音がする。
「コーデリア、そんなものを食べてはいけない。歯と顎を痛めてしまうよ。少し落ち着くんだ」
「……あなた」
「嗚呼、コーデリア。なんだい? 何でも言ってごらん」
「お腹が、空いたわ」
口の周りはおろか顔中を肉の脂と汁に塗れさせながら、コーデリアはそう呟いてまたも骨を齧り始める。
「わかった。すぐに用意させるからね。だから、もうそんなことはやめなさい」
コーデリアが手にしていた骨のかけらを奪うと、彼女はぎょろりとレイナルドのことを睨みつけてきた。
焦点の合わない瞳で彼を見つめ、すぐに手を伸ばしてくる。
「かえして、お腹がすいたの。かえして」
「コーデリア……! 落ち着くんだ、落ち着きなさい……!」
コーデリアの力は思いのほか強く、レイナルドは彼女に押し倒されるようにして尻餅をついた。
周りで固まっていた使用人たちが我に返ると、一斉にコーデリアを抑えつける。
「やめるんだ! コーデリアに乱暴をしないでくれ!」
料理人たちが慌てて次の皿を運んでくるまでの間、コーデリアは床に抑えつけられながらもずっともがき続けていた。
「ひっ……! ひくっ……ぐすっ……!!」
「大丈夫。大丈夫だよ、コーデリア」
コーデリアの食事が終わったのは深夜になった頃だった。
満腹になったコーデリアは我に返ったのか、自分がした行為のおぞましさに嘆き悲しんだ。
「私……私、何で、こんな……! ひぐっ……うぅぅっ!」
「コーデリア。君は少し疲れているんだ。少しだけ精神的に参ってしまったのさ。だってそうだろう? お医者さまは君の身体には何の異常もないと言ったじゃないか」
震えるコーデリアの姿があまりにも痛ましくて、レイナルドは何とかそう言ってやるのが精いっぱいだった。
アレだけの食事をしてどうして少しも太らないのか。何故人が変わったかのように食欲に憑かれたかのように食べ続けるのか。
医者でさえ匙を投げてしまった以上、レイナルドに原因がわかるはずもない。
精神的な疲労だけでは到底説明がつかないことに目を瞑り、ひたすらそう言って慰めてやるしかなかった。
「ごめんなさい、あなた。私、私……!」
「いいんだよ、私は何も気にしていないさ」
「あんなに下品な食べ方をしてしまって……! 気が付いたら、ああしてしまっていたの。嘘じゃないの。本当なの」
「ああ、わかっているとも。少しお腹が空き過ぎてしまって我慢出来なくなったに違いないさ。もうあんなことになったりはしない。そうだろう?」
「わからない……私、わからない……!」
レイナルドはコーデリアの異常な行動よりも、こうして彼女が泣いていることが一番の苦痛だった。
彼女はあまり感情を表に出す女性ではない。だが、時折浮かべる笑顔や、レイナルドの求愛に困惑して少しだけ困ったようにはにかむところがたまらなく愛おしかった。
いつか、どうにかして彼女を笑わせたい。心の底から笑わせてみたい。そう思っていた。彼女の涙を見るのは、笑い過ぎから生じる嬉し涙だけがいいとそう願ってやまなかった。
そんな想いとは裏腹に、悲しみに暮れるコーデリアの姿を見ていると胸を締め付けられるような気持ちに襲われる。
「そんなに嘆かないでおくれ、コーデリア。大丈夫だから」
「あなたにも、酷い恥をかかせてしまって……ごめんなさい。本当にごめんなさい!」
「そんなこと気にするもんか。もしもこれからどうしても空腹に堪え切れなくなった時は、作法なんて気にしないで好きなように食べなさい。いいね?」
「ひくっ……くすん……あなた……あなた」
「コーデリア。いい子だ。コーデリア」
彼女の身体を抱きしめると、コーデリアは咽びながら言う。
「私、あなたには……あなたにだけは、嫌われたくない……」
「何を言っているんだい。私が君を嫌いになることなんてないさ。私は君に一途だよ。こうして結ばれた今だって、なお私は君に恋心を抱き続けているんだ。むしろ、私の方が心配なくらいさ。君が私を嫌いになったりしないかと考えてしまうだけで、夜も眠れなくなってしまいそうになる」
「私が愛しているのはあなただけ、だから……」
「そうかい? 私も同じ気持ちだよ。私が愛しているのもまた、君だけだ」
コーデリアの長い金髪を撫で、背中を優しく擦りながらそう囁いた。
少しは落ち着いたのだろうか。コーデリアはすんすんと鼻を鳴らした後、レイナルドを見上げた。
「あ、あの、ごめんなさい……」
「どうしたんだい?」
「あなたの服、涙と鼻水で……その」
「そんなことを気にしていたのかい? 本当に君は可愛い女性だ。記念にこの服は洗わないで取っておこうか」
「も、もう、あなたってば」
2人は見つめ合った後、ゆっくりと口付けをした。
「コーデリア。今日は眠れそうかい?」
「……ええ」
「そうかい。じゃあ、一緒に寝よう。君が寝るまで、一緒に昔の話でもしようか」
レイナルドはそう言って、コーデリアをゆっくりとベッドに寝かしつけた。
そして、彼女が眠りに就くまでの間、子供にお伽噺を聞かせるような口調で彼女に語り続けた。




