第13話「最期の刻」
パトリックが喰われてから3日が経った。
レイナルドはその後、一切の食事をしていなかった。空腹感も湧いてこない。
アレから一度もコーデリアの顔を見ていない。ずっと自室に引き篭もってしまっていた。
コーデリアもそろそろお腹を空かせている頃だろう。
早く何か食べさせてあげたいが、もう屋敷には食糧の備蓄がない。
手元にあるのは僅かばかりの金だけだ。レイナルドの食費だけですら10日も保てばいい方だろう。
レイナルドはゆっくりとベッドから起き上がり、身なりを気にせずに屋敷の中を練り歩いた。
かつては数多くの使用人たちが行き来していた廊下も、今では誰もいない。隅には埃が溜まり、天井には蜘蛛の巣が張られている。
そこかしこにあった贅の限りを尽くした絵画や骨董品なども無くなっている。
食堂に入ってみても当然誰もいない。
テーブルや椅子などは既に売り払われており、寒々とした光景が広がっているだけだった。
かつて毎夜の如く、豪華な晩餐をしてきた名残などどこにもなかった。
厨房を通り過ぎ、屋敷の裏口へと回る。
そこには雑草が生い茂っていた。ほんの少し前までは綺麗に手入れされ、多くのウサギが飼われていたのが夢のように感じられた。
思えば、ここで起きた出来事がコーデリアを決定的に変えてしまった原因ではないかという気がした。
しかし何度考えてみても、あの時の彼女に何かしてあげられることがあったようには思えなかった。
時間が巻き戻るような奇跡が起きたとしても、あの時点で既にコーデリアの心はもう取り返しのつかないことになっていたに違いないのだから。
では、もっと前ならどうだろうか? そう、たとえば――コーデリアのお腹にいた子が流れてしまった時。
あの時に何かしてやれただろうか?
いくら考えたところで意味のないことだったが、今のレイナルドには他のことなど考える力がなかった。
無意味な思索を続けた結果、その場に力なく座り込んでしまった。
何も出来やしない。自分には何も。
コーデリアが流産したのは誰のせいでもない。ただ、運がなかっただけなのだ。
この手の話は枚挙に暇がない。自分が知っているだけでも、名のある貴族の夫人が流産したというような話は腐るほどある。
この手の不幸はたまたまやってきて、運の悪かった者がたまたまそれにやられてしまうだけだ。
子供を産めなかったコーデリアを誰も責めたりなどしなかった。もしかしたら使用人の中では陰口を叩いた者もいるかもしれないが、その程度だ。
自分自身も呆然自失となったことは覚えているが立ち直るのにそこまでの時間は要さなかった。
ただ、コーデリアだけはついぞ立ち直ることが出来なかった……のかもしれない。
2人きりの時でさえ、コーデリアは産んであげることが出来なかった子供の話はしなかった。
レイナルドもまたそんな彼女の心情を痛いほどわかっていたので話題にはしなかった。
また妊娠することが出来れば、彼女の傷も癒えてくれるに違いないと信じていた。
だが結果は……。
いや、こんなことを考えている場合ではなかった。
コーデリアの様子を見に行かなければ。
レイナルドは何とか立ち上がり、ふらつくような足取りで地下室へと向かっていった。
地下室のコーデリアはただ何も言わないまま蹲っていた。
腹を空かせたと暴れることもなければ、眠っていびきをかいていることもない。
ただ黙ってレイナルドのことを見つめているのみだった。
「コーデリア。調子はどうだい? やっぱりお腹が空いたよね」
彼女はそれには答えなかった。
そもそも意思の疎通が出来るかどうかさえわからない。
しかし、力なく座り込む彼女の姿はとても小さく見えた。人間として有り得ないほどの巨躯に肥大化してしまった姿だとしても、ふとした拍子に消えてしまうのではないかと思うほど儚く見えた。
「コーデリア。少しだけ待っていてくれるかい? 食事を用意するから……」
何とか彼女の飢えを解消させなければ。
レイナルドは踵を返して、ふらりと街中へと赴いた。
既に時刻は夕暮れ。
ブレーゼ伯爵家は人喰い屋敷だという噂が流れているのは知っていた。
街の人間たちの中には少しでも姿を消した者がいれば、伯爵家の仕業ではないかと疑っているほどだという。
もしも今、街の人間に正体がバレてしまえばその場で袋叩きにされても文句は言えないかもしれない。
以前、大量の食糧を用意しなければならなかった時、街の住民たちにはかなりの負担を強いてしまった。その時には既に恨みの感情を持っていた者がいてもおかしくはない。
レイナルドは外套を羽織って、目立たないようにしながら街中を歩いた。
閑散とした街を出歩いている人間は少ない。
みなが夕食の時間を迎える頃合いだから無理もないだろう。
そんな時、たまたま1人の少女と目が合った。
5、6歳くらいといったところか。
着ている服が少し汚れているから今まで遊んでいたのかもしれない。
「やあ、こんな時間に出歩いてどうしたんだい?」
「? おそとでみんなといっしょにあそんでたの」
「そうかい。でも、もうそろそろ夕食の時間だろう? 帰らなくていいのかな?」
「今日はパパがかえってくるのがおそいから、まだたべちゃダメなんだよ」
「それは気の毒に。……どうだろう、私と一緒に来てくれれば美味しいお菓子をあげるよ」
「おかし? でも、しらない人にはついていっちゃいけないって言われてるよ」
「大丈夫だよ。お菓子を食べて時間を潰したら、君を家まで送り届けてご両親にも挨拶をしよう。彼らは私のことを知っているだろうしね」
「そーなの? う~ん、じゃあ……いいかなぁ」
嘘は言っていなかった。
この無垢な少女は知らないだろうが、両親ともなれば自分の顔や名前くらいはわかるだろう。
だが、今はそんなことはどうでも良かった。どうせ一緒に連れていけば、それで終わりなのだから。
レイナルドは少女の手を取って、屋敷へと向かった。
屋敷に辿り着いて、さっさと地下へと向かおうとしたところで少女が言った。
「なんか、くさい」
自分では全然気が付かなかったが、異臭はもう屋敷の外にまで溢れているのだろう。
少しだけ躊躇する様子を見せる少女の背中を押すような形で屋敷に入らせる。
ここでレイナルドは思い立った。そういえばまだ紅茶の茶葉が残っていたはずだ。せめてそれを飲ませてあげようと。
自室に少女を招いて、レイナルドは紅茶の用意をした。
食堂はもはやもぬけの殻だ。せめて柔らかなベッドがあるところを使わせてあげたかった。
紅茶を持って帰ると、少女は嬉しそうにしながらそれを飲んだ。
「おじちゃんのお屋敷、ひろいね」
「そうだね。広いね……少し寂しいくらいだ」
「ベッドもふかふかしてて気持ちいい。あたしもこんなベッドでねたいな」
少女はどちらかと言えば貧しい家庭に生まれ育ったのかもしれない。
埃臭い部屋の様子にも特に違和感を抱いてはいないようだった。
きょろきょろと部屋を見回しながら紅茶を美味しそうに飲む少女を見て、レイナルドは言った。
「お父さまとお母さまには良くしてもらっているかい?」
「うん! パパはあんまり家にいないけど、たまに帰ってくるとね、ぎゅーってしてくれるの。ママはあたしが寝るまえにはいつも子守唄をうたってくれるんだよ」
「そうか。大事にされているんだね」
ふと、以前コーデリアと交わした会話が蘇ってきた。
『ねえ、あなた。産まれてくる子は男の子がいい? 女の子がいい?』
『私はどちらでも構わないよ。ただ、君に似ていてくれると嬉しいな』
『そう? 私はね、女の子がいいわ。可愛くてふわふわってした女の子。いつも傍にいてあげて、少しも寂しい思いをさせたりしないの。寝る時には毎日子守唄を聴かせてあげるんだから』
『なら、その子が大きくなるまでは3人一緒に寝るしかないね。もしも私が子供の立場だったら、少しでも君が遠くに行ってしまったらすぐに泣いてしまうよ』
『あらあら、それは大人の今でも変わらないんじゃない?』
『はは、バレてしまったかな? 私は構ってもらえないとすぐに泣いて駄々をこねてしまうよ。もしかしたら君を困らせる悪い子になってしまうかもしれない』
『大丈夫よ、あなた。ずっと3人で一緒にいましょう? 子供にもあなたにも寂しい思いなんてさせないから安心してね?』
まだ人生が希望に満ちていた時、そんなやり取りをしたものだ。
「おじちゃんは1人なの?」
「……いや、そんなことはないよ。とても愛しい、世界で一番大事な人と一緒に住んでいるさ」
「どこにいるの?」
「今はちょっと体調を崩していて部屋から出られないんだ。でも、君の元気な姿を見れば少しは回復するかもしれない。良かったら、一緒についてきてくれないかい?」
「うん、わかった!」
レイナルドは少女の手を取って、地下室への道を歩む。
その時、少女が呻いた。
「うぅ……くさいの、ひどくなってきた……」
匂いの原因は地下室なのだから無理もない。
多少強引にでも連れていくしかないだろう。そう思って、少しだけ力を強めて少女の手を引っ張っていった。
「やだ……いきたくない」
「もう少しなんだ。だから、ちょっとだけ我慢してくれないかい?」
「やだ、やだ、きもち……わるいもん……」
「わがままは言わないでくれ。すぐに済ませるからね」
「やだ! やだぁ!」
愚図る少女が泣き始めた。
それに思わず激昂しそうになって、レイナルドは不意にコーデリアが言っていたことを思い出す。
『この子には悲しい思いはさせたくないわ。子供が泣く姿ほど見ていて辛いものはないもの』
『でも、子供というのは泣くのが仕事みたいなものだろう?』
『赤ちゃんの時はそうよ。でも、成長したら絶対に泣くようなところを見たくないの。寂しくて泣かせるなんて論外だし、躾の時にぶったりして泣かせるのもダメ』
『でも、あまり可愛がってばかりいると過保護になってしまうよ? たくさんわがままを言うような子になるかもしれない』
『可愛がるのと甘やかすのは違うわ。いいことをした時はたくさん褒めてあげて、悪いことをした時はちゃんと向き合って優しく諭してあげたい。子供のわがままなんて、全部寂しさの裏返しみたいなものだから絶対にそんな気持ちにさせたりしないの』
『……そうだね。幸せな家庭に涙は似合わない。私も出来る限りのことをしよう』
『ふふ。ありがとう、あなた』
気が付けば、少女はぎゃんぎゃんと泣き喚いていた。
いつの間にか彼女の手を握る力が強くなり過ぎていたらしい。必死になってそれから逃れようとしている。
こんなにも泣いている子供を見たら、コーデリアはどう思うだろうか。
決まっている。どうしてそんなことをするのかとレイナルドに対して怒りを向けてくるに違いない。
自分が今からしようとした行為を思えば、『君のためを思って』などとは口が裂けても言えないじゃないか。
でも、彼女はお腹を空かせている。しかし、こんないたいけな少女を連れていくわけにはいかない。
今までに奴隷の子供たちを何人も犠牲にしたのに、今更何の躊躇があるというのか。
だが、今回は……今回ばかりは、ダメだった。どうしたらいい。どうしたら――。
どれくらい考えていただろうか。
少女が泣き叫ぶのに疲れて弱々しい抵抗を見せるだけになった時、レイナルドは少女の手を離してから屈みこんで彼女に目線を合わせてその両の肩を優しく掴んだ。
「……すまないね。すっかり怯えさせてしまって」
「ひぐっ……ぐすっ……」
「大丈夫だ。何もしないよ。私は君に何もしない。だから、どうかもう泣きやんでほしい。すまなかったね、怖かっただろう」
「ぐずっ……」
少女の小さな身体を抱きしめてその頭を撫でた後、レイナルドは言った。
「いいかい。この屋敷を出たら、すぐに家に帰るんだ。そしてお母さまがいたらお母さまに、もし誰もいなかったら街の中の人間の誰でもいい。とにかく誰かに話しかけてこう言うんだ。『ブレーゼ伯爵に無理やり連れていかれて殺されそうになった』と」
「……」
「少し難しかったかな。とにかく、誰かに何かされたかと聞かれたら私のことをきちんと話すんだ。君をかどわかして生贄に捧げようとした悪魔がこの屋敷にいると……」
「よく、わかんない……」
「もうこんな時間だ。君が帰らないことを心配しているお母さまが、きっと君のことを心配しておられるよ。まずはお母さまを安心させて、その後にこの屋敷のことを話すんだ。いいね?」
少女から身体を離す。
彼女は戸惑った素振りを見せるが、レイナルドが急かすように「早く!」と怒鳴るとびくりと跳ね上がるようにして屋敷から出て行った。
悪臭が立ち込める陰気な地下室を進む。
最奥の牢屋には、汚物が堆積していてハエが飛び交っている。
レイナルドは地下室の扉を開け放って、それらを意に介さず先に進み、最愛の女性の傍に立った。
「やあ、コーデリア……」
ぶくぶくと膨れ上がった顔の肉には水疱が浮かび、黄色い汁がだらだらと垂れている。
口からは涎を垂らしながら、彼女は低い唸り声を上げていた。
もはやかつての面影などない。それでもなお、彼女はコーデリアだった。レイナルドにとって最愛の女性であり、ファム・ファタールとすら呼べる無二の存在。
レイナルドは彼女を見上げながら、面目ないといった面持ちで呟いた。
「すまない。食事を用意することが、できなかったよ……」
コーデリアは答えない。
僅かな唸り声を上げながら、レイナルドを見下ろしているだけだった。
レイナルドは目の前にあるコーデリアの膨れ上がった腹部を優しく擦った。
「君には気苦労をかけたね。すまなかった。ともすれば、私たちは出逢わなければ良かったのかもしれない」
言いながら、レイナルドは涙を流す。
妻の目の前で涙を見せるのはこれが初めてだ。
「私は君と出逢えて幸せだったよ。天国にいるような気分だった。でも、君にとっては……」
以前、コーデリアはレイナルドと結ばれて良かったと笑顔で言ってくれた。
でもそれは本当に彼女の本心から出た言葉だったのだろうか。
今となってはそれもわからない。
「もう、何もわからないんだ。何が発端だったのか、どうしてこうなったのか、どうすればこんな事態を招かずに済んだのか……わからない。私は馬鹿者だ。そもそも、こんな男が伯爵家の当主であっていいはずがなかったのだ。私が当主になったからこそ、ブレーゼ伯爵家は終焉を迎えることとなった。最後の最後まで君を守ってやることが、出来なくなってしまった。本当に、すまない」
まるで懺悔するかのようにレイナルドは言う。
「こんなにも愚かな私を許してくれとは言わない。だからせめて、」
覚悟を決めて、コーデリアの瞳を見つめてはっきりと言った。
「私を食べてくれないか」
かつて伯爵夫人だった者は、そっと手を伸ばしてレイナルドの身体に触れた。
それが何であるのかを確かめるように。分厚い表皮の指先からは考えられないほど、優しい触り方だった。
しかしそれもすぐに乱暴なものへと変わり、レイナルドの左腕をがっしりと掴んだ瞬間、彼の腕が潰れた。
凄まじい激痛が走ったが、唇を噛み締めて悲鳴を上げることだけはしなかった。
「……っ。こ、コーデリア、お腹が空いているだろう。さあ」
コーデリアは握り潰したレイナルドの腕をそのまま持ち上げた。
そして目の前に彼の身体をぶら下げる。
ひくひくと鼻を動かし、口から垂れる涎の量が増えていった。明らかに食欲に支配されているのが目に取れる。
コーデリアはレイナルドの全身を掴んで、見つめ合う距離にまで顔を近付けた。
コーデリアは泣いていた。その青い瞳から涙を流していた。あの蒼穹のように美しい瞳だけは前と変わらぬ輝きを持っているように見えた。
レイナルドはもはやその涙を拭ってあげることさえ出来ない。ただ、じっと彼女の瞳を見つめて呟いた。
「やっぱり君は綺麗なままだよ、私のコーデリア」
ふっと笑って言い終わったと同時に、レイナルドの上半身が噛み砕かれた。
こうして若き伯爵家当主は逝った。
最後の最後に、最愛の女性の美しい煌めきを見つめながら。




