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ブレーゼ伯爵家の悲劇  作者: 両道 渡


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第12話「別れ」

 静かな屋敷の中に老執事の咳の音が響き渡る。


「パトリック。大丈夫かい?」

「……ええ。ご心配なさらず。少し喉の調子が悪いだけでございますよ」


 嘘だった。

 自身の身体の不調はだいぶ前から感じていたが、最近は症状の悪化が目立つ。

 咳に震え、視界の揺らぐような感触と全身を軋ませるような軽い痛み……頑強さが取り柄だった若い頃の自分とは明らかにかけ離れてしまっている。


 ちらと若き伯爵家当主の顔を覗き見る。

 無表情に見えるが、青褪めていて頬がこけている。目元には隈が色濃く浮かんでいた。女性のように美しい金髪も枝毛が目立ち、肌荒れもあった。

 出来た子だった。パトリックは疲労を滲ませるレイナルドを見ながらそう思った。


 幼い頃は多少やんちゃなところがあったし、十分に育ってからは女遊びもしていた。

 だが彼は根が真摯であり努力家だった。

 学業の成績も極めて素晴らしく、学園を首席で卒業したことは今でも自分のことのように嬉しく思っている。


 そう、パトリックはレイナルドがこの世に生を受けてから今現在に至るまで、常に彼の傍にあった。

 順風満帆な人生だったとは言え、悩み事がまったくない者などいない。

 レイナルドが多少精神的に辛い目に遭った時は常に付き従い、優しく声をかけた。些細な愚痴や文句などにも嫌な顔1つせず付き合った。

 自分の家庭を持たないパトリックにとって、レイナルドはまるで自分の子供のようなものだった。


 そして彼は見目麗しく、賢く、強く育ってくれた。

 本当に幼い頃を除けば、彼が泣いたところを見るのは両親との死別の時だけだった。その時でさえ、みなの前では気丈に振る舞い、やっと忙しさから解放されたところで1人で静かに泣いていた。

 決して他の者に泣いている姿を見られようとしないと心掛けている。本当に彼は強い子だった。


 そんなレイナルドが涙を流した。

 偶然から出逢った最愛の女性を娶り、幸せの絶頂であらねばならない時に彼は悲しみに暮れて泣いた。

 かつて最愛の女性と夜空を眺めたバルコニーで、レイナルドは心の底から嘆いていた。

 室外に響いてくるその悲しい声を聞き、パトリックは何としてでもレイナルドを守り抜かねばならないと思った。幼い頃に「爺や、爺や」と呼んで慕ってきてくれた純粋な子のためにも。


 だが、限界は間近だった。

 既にブレーゼ伯爵家の悪名は伯爵領全体に広がっている。

 近づく人間を跡形もなく喰らってしまう不気味な屋敷。


 最近までずっと続けていた食糧の買い占めや、奴隷を買った情報などが流れてしまっているに違いない。

 もはや自分では対処することも出来ない。それどころか、今でははっきりと自覚していた。パトリックは額から滲む脂汗を拭いながら思う。

 この身体はもう今日明日にでも潰えてしまうだろう。確信めいたそれは虫の知らせとでも言うべきものだった。

 もう残された時間はない。

 コーデリアが収容されている牢屋の近くまで来た時、レイナルドが訊ねてきた。


「パトリック。次の奴隷たちは」

「……坊ちゃま。もう、彼らは1人も残っておりません」

「そう、なのか? そう、か……気が付いていなかった。すまない」


 最近の憔悴したレイナルドを見るに見かねていたパトリックはこれまで口に出来なかったことをすべて語ることにした。


「そして、ブレーゼ伯爵家の財はもうほとんど残されてはおりません」

「お前が絵画や骨董品を売りに出したのは知っていたが、そこまで追い詰められていたんだね」

「申し訳ございません、坊ちゃま。もう屋敷には奴隷1人を買うほどの余裕もないのです。このままでは早晩、何もかも失ってしまいます」

「そうか……苦労をかけたね」


 レイナルドの手がパトリックの小さな背中を撫でた。

 その感触が、老執事の目尻から一筋の涙を流させた。


「他の使用人も既に暇を出しました。この屋敷に残っているのはもはや坊ちゃまと奥さま、それに私めだけにございます」

「……わかった」


 それが何を意味しているのか、レイナルドも気付いたらしい。

 だが、彼は驚いた様子もなく淡々と事実を受け止めていた。


「坊ちゃま。最後の確認をさせてください。坊ちゃまおひとりだけでも、どこか遠くの地へ向かわれてはいかがでございましょう。最低限の金銭だけなら手元にも残っております」

「言っただろう、パトリック。私はコーデリアの傍にい続けるよ。たとえ、この身に何があろうとも」

「……左様で。左様で、ございますか……ほっほ、坊ちゃまは……強情な方ですなぁ」

「そういう性質なんだ。すまないね」


 その時、牢屋の奥から床や壁を叩く音が響いてきた。

 そろそろ彼女の食欲も限界を迎えつつあるようだった。


「私めはもう長くありません。これまでブレーゼ伯爵家でお勤めさせて頂けることが出来たのが私めの人生で唯一の自慢でございます」

「パトリック……」


 パトリックはレイナルドから離れて、地下牢の鍵を取り出した。


「坊ちゃまのお父さまからもお爺さまからも多大なるご厚意を賜ることが出来ました。もちろん、坊ちゃまからもとても良くして頂けたことを誇りに思っております」


 静かに地下牢の鍵を開けるパトリックを見て、どこか茫洋としていたレイナルドがはっとした顔をした。


「パトリック、まさかお前は……!」

「こんな老いぼれが美味しく食されるかどうかはわかりませんが、これで良いのです」

「駄目だ、パトリック! お前は、お前だけは……!!」


 その時、地下牢の扉が強引に開け放たれ、パトリックの身体が鷲掴みにされる。


「コーデリア!? 待て、待つんだ!!」

「よ、良いのです、坊ちゃま……」


 身体中の骨が軋む音を立てながら、老執事は最期の言葉を投げかけた。


「坊ちゃ、ま。今まで、大変お世話に、なり……ました」

「パトリック!!」


 老執事の小さな身体をコーデリアが丸呑みにした。

 肉を咀嚼する音と、骨が砕かれる音が混じり、それはいつまでも室内に響き渡り続けた。

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