第11話「奴隷」
コーデリアが古参のメイドを喰らった話はとうとう屋敷の者全体に広がった。
その話を聞いて、屋敷に務めて間もない者はほとんどが消え去り、煌びやかで埃1つなかった屋敷も今では陰鬱な気配に塗れている。
だが、何よりも変わったのはコーデリアだった。
未だに地下牢に閉じ込められたままの彼女の身体は更に肥大化し、皮膚の一部が植物の蔦のように伸びて壁面や天井と癒着した。
膨れ上がった顔には水ぶくれが出来て、頻繁に引っ掻いては皮が破れて体液が飛び散る。
醜く膨れ上がった腹部は赤黒く変色し、びくびくと脈打っていた。
そして一番変わったところと言えば、食事を欲しがらなくなったところだ。
前は抑えられぬ食欲に突き動かされて地団太を踏んで暴れていたこともあったが、今では牢の中でじっと座り込んでいるままだ。
だが、そんな彼女の様子が急変する時がある。
使用人たちが近づくと、敏感に反応して彼らに手を伸ばしてくるのだ。
涎を撒き散らしながら、まるで目の前に極上の料理の皿があるかのように手を伸ばしてくる様を見てレイナルドは確信した。
コーデリアは人肉を欲しているのだと。
ある日の晩、レイナルドは食堂の椅子に座っていた。
コーデリアの世話の負担が減ったことにより何とか仕事が出来るようになった使用人たちが、以前までとは行かないまでも食堂を綺麗に整えて豪華な料理を皿の上いっぱいに載せてテーブルへと置いた。
そしてレイナルドの対面に座るのは、まだ年端もいかない少年少女たちだった。
彼らはみな、奴隷商から買い受けたものだった。
そんな人物とのツテなどなかったのだが、パトリックの尽力もあって何とか商談の交渉をすることが出来るようになった。
奴隷商は最初、レイナルドを警戒していた。
それも当然だろう、ブレーゼ伯爵家では今まで奴隷が使われたことなどほとんどない。特にレイナルドが当主になってからは一度たりとてなかったのだから。
それがどんな心境の変化なのか、レイナルドは奴隷が欲しいと言い出したのだ。
しかも多少値段を吹っ掛けて要求してみたところ、レイナルドは嫌な顔1つせずに彼らをまとめて買い上げた。相場の数倍もの価格で。
連れてきた奴隷は誰もが身体や精神に異常を抱えている者たちだった。まともな働き口にもならない彼らはたとえ安価であったとしてもなかなか買い取る者は現れない。
それを破格で引き取るというのだから願ったり叶ったりだ。奴隷商は警戒心も忘れて喜んで奴隷を引き渡して帰っていった。
そして今現在、奴隷の子供たちは今まで生きてきて一度も食べたことのないような食事を前にして恐縮し切っている者もいた。
食べたいのは山々だが、このまま手を出してしまっては叱られる。何度か痛い目を見てきた子供はそれを恐れて手は出さなかったが、まだそういう経験の足りない子供たちは遠慮なくおいしい料理をお腹いっぱい平らげた。
「さあ、君たちも遠慮しないで好きなものを食べてくれたまえ。おかわりが欲しかったら、いくらでも用意してあげるからね」
慎重になっていた子供たちも、レイナルドの優しい笑顔と言葉に安堵してゆっくりとだが口を付け始めた。
「君たちは今日から私の家族同然だ。遠慮なんてしなくていいからね」
やがて晩餐会は終わる。
子供たちはみなお腹いっぱいで満足気だったが、レイナルドは食事に一切手をつけなかった。
そして子供たちはそれぞれが個室を割り当てられた。以前勤めていた使用人たちが使っていた部屋で、多少手狭ではあるがベッドも温かい布団もある。奴隷の彼らにとっては天国に等しいだろう。
子供たちが寝静まったのを確認したパトリックが言った。
「坊ちゃま、準備は整いましてございます」
「すまない。お前には迷惑をかけてばかりだ」
「とんでもございません。それでは、早速『晩餐会』を開かせて頂こうと思います」
古参の老執事は部屋から1人の少女を連れて出てきた。
寝ぼけ眼な少女は目をしばしばとさせながら、パトリックに連れられていく。
あの地下室へと。
彼らの姿が見えなくなるまで見送ってから、しばらく。
地下室の方から凄まじい断末魔の悲鳴が上がった。だが、それでレイナルドの表情が変わることはなかった。
悲鳴もすぐに止み、夜の静寂が辺りを包み込む中、レイナルドは虚空を見上げながら呟いた。
「私は悪魔になった。――神よ、本当にいるのなら今すぐにでもこの身を焼いてしまえ。灰も残らぬほどに」
その言葉に答える者は誰もいない。
「結局、あなたは何もしないのだ。人間が悪魔になり変わろうとも、何も出来はしないのだ。いてもいなくても変わらないただの偶像に過ぎない。ならば、私はもっと酷いことをしてしまうよ」
ブレーゼ伯爵家の当主は冷たい声で続ける。
「悪魔となってしまった今ならわかるよ。かつて公爵が言っていた奴隷の扱い方もね。でも、どうせ生きて苦しむくらいなら一時の幸福の後に命を絶ってしまえばいい。実に合理的なことだ……」
しばらくしてパトリックが地下から出てきた。傍らにいた愛らしい少女の姿はない。
「コーデリアは満足していたかい?」
「ええ。何一つ残さずお召し上がりになりました」
レイナルドは頷いた。
これで当面の食糧の問題は解決した。彼の頭の中にはもはや罪悪感など欠片も残ってはいなかった。
それから半年が過ぎた頃、ブレーゼ伯爵領のとある町の酒場は大いに賑わっていた。
酔客が陽気に歌い出したかと思えば、殴り合い始めたり、以前のような活気が戻ってきたように思われた。
酒場の隅のテーブルを囲っていた2人の男が、注文したワインを持ってきた女将に話しかける。
「よお、最近は景気がいいじゃねえか」
「そうそう。やっとうちみたいな酒場にもまともな食材が入ってくるようになってねえ。一時期は本当に大変だったのよ」
「食糧の買占めがあったんだろ? 特にこの近辺で売りに出してる奴はかなり儲けたって話じゃねえか」
「最初はうちみたいな店とは縁もないような高級食材が買い占められたって噂だったんだけど、その後すぐにとにかく食えりゃ何でもいいって感じで手当たり次第に食材を持って行かれたからねぇ。あの時は廃業で済めばマシ、下手すりゃ餓死だってみんな怯えてたわ」
女将が溜息交じりに語った時、傍のテーブルから注文が入った。
彼女はそれに答えると「まあ、ゆっくりしていきなよ」と言って小走りに駆けていく。
テーブルに座っていた男2人はワインを飲んでから言った。
「……人喰い屋敷、だよなぁ」
「間違いあるまい」
最近になって、とある屋敷から逃げ出してきた元使用人たちは口を揃えてその屋敷には人喰いの化け物がいると言った。
噂話に過ぎなかったそれも、食糧の買い占め騒動を発端に現実味を帯びてきたというわけだ。
「俺もこの商売をやってきて長いが、一ヶ所だけ異常な量の奴隷を買っていく屋敷がある。ちょいと報酬を上乗せしてくれりゃ教えてやっても」
「ブレーゼ伯爵家だろう?」
「……なんでえ。やっぱりお見通しか」
「当然だ。ブレーゼ伯爵領の異常事態は既に王都にも届いている。伯爵家の使用人や料理人が相次いで姿を消したなどという話もな」
薄汚い格好に扮した男の正体は王都からやってきた情報屋だという。
しかしどうにも嘘臭い。おおかた、王家直属の諜報部隊か何かに類する人間なのだろうと奴隷商の男は思った。
彼とはつい今朝方知り合い、ブレーゼ伯爵領で起こっていることを教えてほしいと言われたのだった。
「じゃあ、当然わかってるんだよな。あの屋敷が人を喰うっていう噂はよ」
「ああ。当主のレイナルド・ブレーゼ伯が他の貴族家の催し物などに一切顔を出さなくなったという話もな」
そこで情報屋を名乗る男は初めてワイングラスを手にした。
唇を湿らせてから奴隷商の男を見つめてくる。
「して、話はそれだけか? まだ報酬分の話すら聞いていないと思うのだがな」
「おいおい。勘弁してくれよ、旦那。……まあ、いいかぁ、こりゃちょいと小耳に挟んだ話なんだがね」
奴隷商の男はもったいぶったような口調で言った。
「ブレーゼ伯爵家が裕福なのは知れてるだろ? でも最近、売りに出してるらしいぜ。高価な絵画やら骨董品やらをな。しかもかなりの破格でだ」
「その話は確かか?」
「おうともよ。あの王家よりも財産を持ってると噂されてたほどの伯爵がしこたま金を注ぎ込んで買い込んだもんを売っ払ってる。こいつぁまともじゃねえ」
「……金に困っていると言うのか、あの伯爵家が」
「しかも、かなり深刻なんだろうよ。俺もこの前屋敷に行ってみたんだがね。中は相当汚れが溜まってたぜ。おまけに家具らしい家具もほとんどねえし、使用人の数も両手で数えられるくらいにしか見えなかった」
そこで顎を擦っていた奴隷商の男は思い出したかのように口を開いた。
「後はなぁ。とにかく、くせえんだよ」
「臭い? 何がだ」
「何がって、屋敷そのものがだよ。香料で必死に誤魔化してたけど、ありゃ間違いねえ。何かが腐ったような匂いとクソの塊が合わさったような匂いと――死臭だった」
「そんなものが……」
「ブレーゼ伯爵家と言えば、俺だってずっと昔から名前くらいは知ってた。そんな煌びやかな連中とは一生縁がないもんだとばかり思ってたが、何の因果かねぇ。今では大事な取引先よ」
「では、どうしてその取引先を私に教えた?」
奴隷商はワインを呷り、顔を赤らめながら改めて思った。
目の前にいるこの情報屋を名乗る男は、諜報部隊の者などではないと。
身なりは乞食同然だが、その内からは隠しきれない気品のようなものを感じる。恐らくは貴族の出だ。
とすれば、もしかしたら王都の騎士団と関係があるかもしれない。そんな奴に目をつけられたとあっては、あの誇り高いブレーゼ伯爵家も終わりが近いということだろう。
「潮時かと思ったんだよ。商談にはいつも棺桶に片足突っ込んだような執事の爺だけが来るんだがな。この前、少しだけ奴隷を安くしてくれないかと言ってきた。それまで金に糸目はつけなかった奴が急にだ」
「相当困窮しているのに、なお奴隷を欲すると言うのか」
「いやぁ、驚いたもんだぜ。なんたって、俺が前に売り払った数十人以上の奴隷の1人も見かけやしないんだからな。使用人や庭師の代わりをさせるわけでもねえ。まさしく、誰も見つからなかったのよ」
当時の様子を思い出す。
商談に立ち会った老執事は、明らかに疲弊しきっていた。
呼吸の仕方がおかしかったから恐らくは肺を患ってるんだろう。長くは保たねえだろうなぁ、と思ったものだ。
そんな状況にもかかわらず、他の使用人は一切商談には参加しない。前に売り払った奴隷の姿も見かけない。伯爵家当主の姿もない。もちろん伯爵夫人の姿も見えず、調度品がほとんど消えた屋敷の中に漂う、強い香に混じって仄かに鼻を突くような悪臭。
あの屋敷を見て、名門と謳われたブレーゼ伯爵家だと信じる奴がどれだけいるのやら。
「あいわかった。重要な情報を頂けたことに感謝しよう。謝礼だ」
「おうおう。こいつぁありがてえこってす」
「それでは私はこれにて失礼する」
ワインにろくに口も付けないまま立ち去った男の後ろ姿が見えなくなるまで、奴隷商の男はじっとその姿を見つめていた。




