第10話「彼女との思い出」
いつもの湖の近くの岩場で2人は寄り添い合っていた。
今日はぽかぽかとしていて、時折吹く風が心地良かった。こうして2人だけで過ごすにはこれ以上ない日だ。
レイナルドはきょろきょろと辺りを見回す。
「あなた? どうしたの?」
「うん……誰もいないね」
「? いないからここに来ているのに、改まってどうしたの?」
「コーデリア。今日の私はブレーゼ伯爵家当主という仮面を放り投げてしまうことにしたよ」
「あなた? ……きゃっ」
レイナルドはその場に横たわって、コーデリアの膝に頭を乗せた。
「今日の私は自由だ。伯爵家当主でもなんでもないただの男だ。よって、こんなことも平気でしてしまうのさ」
「まぁ……。伯爵家当主でもない殿方が、伯爵家夫人の膝の上に身を預けるだなんて。見つかってしまったら重罪ね」
「君のためなら死ねるさ」
「もう。私のためを思うならそんなこと言わないの」
くすくすと笑うコーデリアの顔はとても愛らしい。
穏やかな碧眼を下から見つめていると、彼女もまた見つめ返してきた。
「どうしたの、あなた? 今日は甘えん坊さんな気分なのかしら?」
「ああ。屋敷にいると常に当主として振る舞わねばならないからね。たまには息抜きをしないといけないんだ。もちろん、それは君もだよ? コーデリア」
「私も?」
「君は伯爵家夫人として常に恥ずかしくない佇まいをしている。貴族の淑女としてどこに出しても恥ずかしくないほど立派で美しい。でも、それだけではやはり疲れてしまうだろう?」
「でも、私は……」
遠慮がちに言うコーデリアの頬を撫でる。
「屋敷にいる君はいつも物静かで凛としている。その姿は何よりも美しいが、どこか物悲しいのさ」
「でもそのおかげでみんなが優しくしてくれるわ」
「君の本当の姿を見たなら、きっと魅力的で堪らなくなってしまうだろうね。嗚呼、でもそれは何だか嫌だな。私以外の者が君に横恋慕するようなことになっては大変だ」
「それは大丈夫よ。あなたの貴族のお知り合いの中に私を見初めるような物好きはいないわ」
「……ふぅむ。それはそれで嫌だな。君の本当の魅力に気が付いてもらえないとは」
「もう。一体どっちなの? そうやっていつもいつも調子に乗るんだから」
コーデリアは苦笑を浮かべながら、レイナルドの頬をつんつんとつついてきた。
その感覚が堪らなく愛おしい。
「あなたはいつもそう。私のことを褒めてばっかりだわ。……貴族の方たちの前でも『私の自慢の妻であり最高の女性です!』なんて紹介される度に、顔が燃えてるんじゃないかっていうくらい恥ずかしくなるのに」
「どうして恥ずかしがるんだい? 堂々としていればいいじゃないか。本当のことを言っているまでだよ」
「……ねえ、あなた」
「なんだい?」
「私のこと、愛してる?」
「嗚呼、もうやめてくれコーデリア。私の語彙が不足している余りに、私がどれほど君を愛しているかを喩えるような言葉が出てこない」
細い指先がレイナルドの唇に当てられた。思わず黙り込んでしまう。
「比喩も誇張もいらないわ。本当に思っていることを教えて。あなたの言葉で。あなた自身の感情を」
「……この世の誰よりも君を愛しているよ。コーデリア」
真面目に答えると、コーデリアはどこかほっとした様子を見せてレイナルドの頭を撫でた。
「嬉しい。私は、誰かにそんな風に思われたのはあなたが初めてだから。……だから、何回も同じような言葉を聞きたいの。聞かないと……寂しくて、堪らなくなってしまうの」
「いいんだよ、コーデリア。どんなに相手を想っていても、口にしなければ伝わらないものもある。たった昨日まで愛し合っていた者同士が、ちょっとした口喧嘩で簡単に離れ離れになってしまうことだってある。私はそうならないためにも、最大限の愛情を君に捧げたい」
「ありがとう、あなた」
コーデリアの目尻から涙が零れ落ちた。
悲しさと嬉しさが入り混じったようなそれを、指で優しく拭う。
「私、あなたと幸せになりたい。今でも幸せだけど、もっともっと」
「私もだよ。どうすれば君は満足してくれるかな。何か欲しいものでもあったら遠慮なく教えてくれたまえ」
「……幸せな家庭が欲しい」
「家庭、か。そうだね、コーデリア……君は、やはりそう思ってしまうね」
彼女の気持ちを慮って、今までほとんど話題に出したことはなかったがコーデリアが産まれた時には既に実の父は亡くなっていたという。
彼女の母はその後、色々な男と関係を持った。そして、時にはコーデリアの存在を邪魔に感じて邪険にされてしまうこともあった。
幼少の頃から彼女は孤独だった。口数も少なくて控えめで自己主張も上手くできない彼女には友達らしい友達もほとんどいなかった。
そのまま時は流れ、彼女が14歳になった頃に母も亡くなった。母と関係を持っていた男ともとうに別れていたため、彼女は正真正銘の1人ぼっちになってしまったのだ。
少しだけのお金と小さな家だけでも残ったのは不幸中の幸いとも言えるだろう。
それからコーデリアは生きるために必死になって働いた。
愛想良く笑うことが苦手だった彼女を好む者は少なく、理不尽な理由で仕事をやめさせられてしまうこともあったという。
だが、そんな生活の中でコーデリアは偶然にもレイナルドと出逢った。
その後の経緯は2人の間で何度も話題に上ったが、彼女が幸せな家庭を欲しているという言葉を発したのはこれが初めてだった。
「私とあなたがいて、子供は……たくさん欲しい。賑やかで楽しく暮らしたいなって思うの」
「それは素晴らしいね。でも、そうなってしまったら君は私に構ってくれなくなってしまいそうだ」
「大丈夫よ。子供が出来ても、その中で一番構って欲しくて仕方がないっていう顔をするのはあなたに決まってるもの。ちゃんと可愛がってあげる」
「それなら安心出来るよ。寂しさのあまりおしゃぶりが欲しくなってしまうところだった」
「ふふ、伯爵家当主さまがご乱心だわ。私にとっては、あなたもあなたとの間に出来る子供も宝物よ? あなただけに寂しい思いなんてさせないし……あなたも、私を寂しくさせないでくれるのでしょう?」
「もちろんだとも」
そう答えると、コーデリアはとても上機嫌な様子で頷いた。
自分のお腹を優しく撫でる。
「早く産まれてきてくれないかしら。ねえ、私たちの赤ちゃん?」
母性の溢れる顔でお腹を撫で続けるコーデリアを、レイナルドは優しく見つめていた。




