夜のひととき
* * * * *
夜中、ふと雨の音でシルヴェストルは目を覚ました。
雨音を聴きながらウトウトとしていると、ふと別の音が交じっていることに気付く。
静かに耳を澄ませてみれば、それは人の声のようで、気になったシルヴェストルはベッドから起き上がるとほんの僅かに窓を開けた。
……ルイ様?
静かな雨音に入り交じってルイ様の声がする。
どうやらそれは歌らしい。聞いたことのない、不思議な響きの歌だ。
女性にしてはやや低い声がゆったりと声を落として歌っている。
窓を閉め、シルヴェストルはベッドから立ち上がり、靴を軽く履いて部屋を出た。
廊下まで声は漏れていないようだが、まだ起きているのは確かだった。
少し考えたものの、シルヴェストルは隣室の扉を叩いた。
ややあって、そっと扉が開かれる。
「おや、まだ起きていたのかい?」
と、肩にストールをかけたルイ様が顔を覗かせた。
メガネは外されていたものの、その口元には煙草が咥えられている。
「ルイ様が起きていらっしゃる気配がしたので。何をしていたのですか?」
「雨音を聴いていただけだよ」
ルイ様が大きく扉を開けて横に移動する。
「立ち話もなんだ、眠れないなら少し話そう」
促され、室内に入る。相変わらずルイ様の部屋は私物が少ない。
時々それが不安になる。
……この方はいつでもここを出られるようにしているのではないか。
婚約を結んでいても、ルイ様の性格を考えれば、本気で嫌になれば婚約など破棄して一人でどこへでも行ってしまうだろう。
煙草の煙のように、掴みどころがなくて、留めておけないような人。
背後で扉が閉められる。室内はランタンの明かりでほのかに照らされていた。
ルイ様は靴を脱いでベッドに上がり、窓辺に座った。
「君もこっちにおいで」
手招きされてベッドに近寄る。
ベッドを叩かれ、一瞬、躊躇った。
……女性のベッドに上がってもよいものか……。
だがルイ様は気にした様子もなく、小首を傾げた。
シルヴェストルも靴を脱ぎ、ベッドに上がり、窓辺に寄った。
開けられた窓の向こうでは雨が降っており、しとしとと静かな雨音が響く。
深夜ということもあって窓の外は暗く、道に人気もない。
ふぅ……と窓の外へルイ様が煙を吐く。
「ルイ様も眠れないのですか?」
問えば、いつもの声で「まぁね」と返事があった。
「まさか、赤城君達の他に同郷者がいると思わなかったからねぇ」
「落ち人はとても珍しいので……」
「まあ、いちいちわたし達に伝えるようなことでもないだろう」
窓の外に視線を向けたまま、ルイ様が窓枠に肘をつき、煙草を吸う。
どこか、心ここに在らずといった雰囲気を感じた。
「あの男のことが気になりますか?」
「……いや、あのお客のことは別に」
「では、何がルイ様のお心を曇らせているのですか?」
ルイ様の視線がこちらに戻ってきて、苦笑された。
「シルヴェストル君は真面目というか、まっすぐというか……度胸があるねぇ」
短くなった煙草をルイ様が小さな灰皿に仕舞う。
パチリと灰皿の蓋を閉め、ルイ様が頬杖をついた。
その視線はまた窓の外に向けられる。
「……あのお客がね、故郷で働いていた職場の上司に雰囲気が似ていたんだ」
それは意外な内容で、シルヴェストルは目を瞬かせた。
「上司?」
「ああ、そうだ。……正直に言えば苦手というか、この世界に来て、もう二度と顔を合わせなくて済むとホッとしたくらいには会いたくない相手さ」
他人に関心がない公言しているルイ様にしては珍しい、と思う。
関心がない、なら分かるが、会いたくないと思うほど苦手な相手がいるとは。
「一体、その方と何があったのですか?」
「くだらない話だけど……聞くかい?」
「はい」
ルイ様が自分について語ることは滅多にないため、興味があった。
吸い終えたばかりなのに、ルイ様がまた煙草を取り出す。
手を伸ばして火をつければ「ありがとう」と微笑み返された。
「わたしが働いていた職場はね、よいところではなかったんだ──……」
* * * * *
わたし、羽柴涙が働いていた会社は、いわゆるブラック企業であった。
始業は朝の八時半だが、実際には誰もがもう七時には出社して、前日にやりきれなかった仕事を黙々とこなし、昼休みでも席を立つ人は少なく、夕方も誰も帰ろうとしない。
毎日、一番最初に帰るのは上司だった。
そもそも上司より早く帰宅することは許されなかったし、仕事が終われば、新たな仕事を任される──という名の押しつけだが──ため、終わりがなかった。
有給はあっても形だけ、残業に休日出勤も当たり前。だが給料は増えない。
そんな会社なので当然、辞めていく人間も多い。
人の移動が多く、入っては辞め、辞めては入っての繰り返しである。
入社三年目のわたしはよく新人教育を任された。
だが、会社に残る人間はほとんどいなかった。
新人の大半が鬱や過労で出勤できなくなり、辞めていき、その度に上司からは「お前の教え方が悪い」「最近の若い者は根性がない」と理不尽に怒鳴られる。
わたしがどれほど怒鳴られていても、誰も助け船を出すことはない。
とにかく自分に火の粉がかからないよう、誰もが息を潜めて仕事をする。
社内の空気はいつも最悪で、人間関係なんてものもなくて、ただお互いに仕事を回すために必要な連携をしていくだけ。たまにある飲み会も上司達の機嫌取りで終わる。
このご時世にまだこんな会社があるのかと、別の意味で感心してしまうほどだ。
そんな会社など辞めればいい、と普通は思うだろう。
わたしもそう思っていた。
しかし、毎日激務で疲れた心身では、新たな職場を探そうという意欲すら湧かず、ただ毎日毎日働き続けて過ごす日々だった。
上司は、一言で言うなら『最低』な人間であった。
気に食わないことがあれば部下に当たり散らし、仕事でミスがあれば部下に押しつけ、そのくせ部下が努力して仕事を成功させても取り上げて自分の功績とした。
更に上の人間からは好かれているようであったが、部下からの信頼は欠片もない。
部下を威圧して、怒鳴りつけ、時には暴力で支配しようとした。
直接部下を殴るようなことはしないが、近くにある物を机に叩きつけたり、破壊したり──……そして、それらを部下のせいにする。
上役達は上司の言葉を信じ、平社員のわたし達を『教育』するよう命じる。
それを受けた上司は我が世の春とばかりに大きな顔で、わたし達に罵声を浴びせた。
上司はいつも、机に座ってふんぞり返っているか、部下の仕事に目を光らせ、成功しそうなものがあると終わった途端に横取りしていくか。
給料もさほど高くはなく、お盆休みや年末年始の休みもない。
唯一安心できるのは上司が休みの日だけ。
その代わり、上司の分も仕事が皆に分配されるので仕事量は増える。
あの日──……召喚された日は、上司の機嫌が悪くて特に酷い一日だった。
朝から大した理由もなく上司の机の前に呼び出され、怒鳴られ、罵倒された。
午前中、ずっと机の前で立ちっぱなしだった。
その後に「お前のせいで仕事の時間がなくなった」と上司の仕事を押し付けられた。
「終わるまで帰るな」と言われ、自分の仕事と合わせて、上司の仕事もすることになり、なんとか終電ギリギリに終えて帰った。
それがわたしにとっては日常で、もはや、つらいとか苦しいとか、そういう次元の話ですらなかった。もう何も感じていなかった。ただ生きているだけ。
元より希望や未来なんてものに興味がなかったのかもしれない。
両親を事故で失い、親戚をたらい回しされた挙句、なんとか高校を出てバイトで金を貯め、短大に入ってあの会社に就職した。
いつだって心は空っぽだった。
煙草を吸っている時だけは微かに満たされた。
「この世界に来て、久しぶりに人間らしい生活ができたんだ」
つまらない話をそんな言葉で締め括れば、シルヴェストル君が押し黙った。
……まあ、そういう反応になるだろうねぇ。
短くなった煙草を携帯灰皿に入れて消す。
本当にくだらないことだと内心で呆れていれば、大きな手がわたしの手に触れた。
「……私は、ルイ様の苦しみを真に理解することはできません」
シルヴェストル君がギュッとわたしの手を握った。
「ただ、ルイ様がこの世界で幸せに生きてくだされば、と願っています」
まっすぐに灰色の瞳が見つめてくる。
冗談でも、慰めでもなく、本気で彼はそう思っているようだ。
……シルヴェストル君は真面目だ。
そっと、その手を握り返す。
「……わたしには勿体ないくらい、君はいい人だねぇ」
だからなのか、シルヴェストル君には素直に甘えることができる。
片手で窓を閉めて、繋がっている手を引っ張り、一緒にベッドへ倒れ込む。
「ルイ様っ?」
少し驚いたような彼の声に小さく笑い、目を閉じる。
「……今だけは、甘えさせてくれ」
目が覚めればきっと、普段通りのわたしに戻れるから。
* * * * *
スゥスゥ……と静かな寝息が横から聞こえてくる。
……こんな状態で眠れるわけがない。
異性のベッドで同衾するという経験自体、シルヴェストルには初めてだった。
甘い煙草の匂いが漂う部屋の中。狭いベッドで二人揃って横になっている。
窓の外ではまだ雨が降っており、静かな室内にはその音とルイ様の微かな寝息が響いていた。起きている時も静かな人だが、寝言やいびきもないらしい。
横を見れば、こちらに向いたルイ様の寝顔が見える。
顔の彫りが浅く、眠っているとシルヴェストルより歳下のように見える。
ルイ様の話では分からない単語も出てきたが、彼女が元の世界で働いていた職場が酷いところで、昼間来た男がその職場の高圧的な上司と雰囲気が似ていたということは理解できた。
恐らく、ルイ様からすれば思い出したくない記憶なのだろう。
語っている間、ルイ様の目はずっと窓の外に向けられていた。
その目はどこか遠くをぼんやりと見ていて、まるでこの世に自分一人しかいないかのような、そんな静けさをまとっていた。そのまま消えてしまうのではと不安になった。
気付けば、ルイ様の手を握っていた。
ルイ様は「甘えさせてくれ」と言った。
それにシルヴェストルは喜びを感じてしまった。
……分かっている。
いくら恋愛経験がないといっても、自分の感情に気付かないほど鈍感ではない。
……私はルイ様に惹かれている。
掴みどころがなくて、静かで、世捨て人のようで、どこか寂しげなこの方のそばにいたいと思う。護衛という職務以上に彼女を知りたい。近づきたい。触れたい。
ルイ様のそばにいることを許されて、頼られたい。守りたい。
婚約の話の時は戸惑いもあったけれど、いざ婚約を結んでみて、分かった。
このたった数ヶ月の間にシルヴェストルは心惹かれた。
この寂しい人を一人にしたくない。
使い方によっては凶悪ともいえる称号を持ちながら、それを全く使わない人。
煙草を売って生きていけるだけ食えればいい、と言う人。
煙草屋が繁盛してからは『生活費』と称して売り上げのいくらかを渡されているが、そもそもルイ様の生活費は国が出しているので、シルヴェストルの負担はない。
受け取ってはいるが、いつかルイ様のために使えるように全て貯めてある。
ルイ様自身も金遣いは荒くないので金が溜まっているらしい。
たまに、昼食時に酒場にいる者達に一杯ずつ酒を奢っている時があった。
周囲からは『気前のよい煙草屋』と思われているが、ルイ様が言うには『お客とよい関係を築くための下準備みたいなもの』だとか。
実際、酒場にいた者達は酒を飲みながら煙草を吸いたがった。
結果として店の売り上げが増えたのでルイ様の気まぐれは正しかったのだろう。
……不思議な方だ。
他人に関心がないと言いながら、誰とでも打ち解けてしまう。
ギルドの荒くれ者達ですら、ルイ様と話す時は比較的、穏やかだ。
シルヴェストルは顔を戻して天井を向く。
ただの同郷者であったなら、ルイ様はここまで動揺しなかったと思う。
元の世界で嫌な思いをさせられてきた相手に雰囲気が似ていて、元の世界でのことを思い出し、気分が塞いでいるのかもしれない。
ふと、手が繋がったままだということに気付く。
馬車の乗り降りの際にも手を貸しているので知っていたが、ルイ様の手は細くて小さい。外見からしても少し痩せ気味とは感じていたが、指も細い。
繋がった手に指輪の感触を見つけ、少し嬉しくなった。
揃いの指輪をルイ様は毎日、欠かさず着けてくれている。
自分で買うつもりだったと知った時は驚いたが、あとになってみればルイ様らしいと思える、ちょっとした笑い話である。
もう一度、ルイ様に顔を向ければ、寝顔がある。
「……何があっても、私がお守りいたします」
だから、ルイ様にはこれからも穏やかに過ごしてほしい。
そうしてそのそばにシルヴェストルの居場所があれば、と願う。
シルヴェストルは顔をまた戻し、目を閉じる。
しとしとと降る雨の音と、ルイ様の小さな寝息の音が心地好い。
……よい夢を。
心の中でそう願い、シルヴェストルも眠りについた。
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