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02 再会

 まるで漂っていた気泡がぱちんと弾けるように、唐突に彼女の時は動き出した。


 ―――はて、ここは何処じゃ…?


 気が付けば、全く見覚えのない風景の中にいた。


 最初に目に飛び込んできたのは、人の手で造られたであろう一本の砂利道だった。

 森の木々を掻き分けるかのように伸びたその道は下り坂となって、曲がりくねった先は森の中にもぐっている。

 その左右に陣取る黒みを帯びた森も何処のものとも予想がつかない。


 ついで、後ろを振り返れば、こちらも意外や意外、続きの森ではなく、長い石段が天へ届けとばかりにそびえていた。

 少なくとも尋常の地ではあるまいと感じる。閑散とした、まるで生き物が住んでいないような清らな静けさに満ちた場所だった。

 いずれの世に属する相手かわからないが、おそらくは高名な高貴なる御方がおはす御山ではないだろうか。


 さて、自分はどうしてここにいるのだったか。


 そういえば、もう死んだのではなかったか?


 生前の名は、美津と言った。

 萩のミツと言えば、それなりに巷で名の知れた退治屋だった。


 何の退治屋かというと、化生の類であるアヤカシの、だ。


 初めてアヤカシを退治たのはものの道理もわからぬ幼子であった五歳の時。

 それから、魔の変革と呼ばれるアヤカシ動乱期が始まり、ミツは退治屋としてアヤカシたちと激戦を繰り広げた。


 ミツが居を構える萩の都を含め、かろうじて陸が繋がった三つの島で構成される東国は、七つの都から成り立っている。

 中央の一番大きな島には萩を含めた五つの都が、他の二つの島は同じくらいの面積を持ち、それぞれ一つずつ都が置かれている。それが東国だ。


 その七つの都を取りまとめる天子が次代へと代替わりを終えたすぐ後だった。

 急激にアヤカシが増殖し、人々を襲うようになったのは。


 古来よりアヤカシはこの東国の島に存在している。ミツが生まれる以前よりずっと昔からだ。

 アヤカシと何時から呼ばれるようになったのか。そして、何処から生まれ出でるのか未だに誰も知る者はいない。

 ある者は土から生まれるのだと言い、ある者は風から生まれるのだと主張したが、誰もその真偽を見定めたものはいなかった。


 アヤカシは人とは異なる摂理に生きる種の総称だ。

 人と関わる事を好まず、アヤカシは自らの持つ不可思議な能力を活かして、人里離れた高所や水中、地中深くの洞穴などに住まうものが大半だった。

 中には気まぐれに人里に姿を現わすものもいたが、総じて穏やかな、ただそこにいるだけのものの筈だった。


 その常識は覆される。

 凶暴ではなかった、筈だった。

 アヤカシは突然、人を食らうようになり、人にとっての天敵にその立ち位置を変じた。


 その原因も未だに解明されていないが、人は否が応でもアヤカシと対峙する事となり、自らの身を護るが為に戦わざるを得なかった。


 中には怪異を引き起こす知能に長けたアヤカシもいて、一晩のうちに集落が全滅する事もあった。


 不可思議のアヤカシには通常の刀や武器はあまり役に立たず、人の身に宿る霊力を秘めた呪が一番効果的だ。

 そして、アヤカシは退治してもまた何処からか生まれてくるのだ。

 生まれつき、ずば抜けて霊力の高かったミツは期待をかけられ、退治屋として何時終わるとも知れぬ熾烈な戦いに身を投じる事になった。


 それから一心不乱に戦い続けて、およそ四十年―――。


 ようやく数年前からアヤカシの姿が減り始め、徐々に荒んでいた世が持ち直そうとしていた頃。

 ミツに一つの出会いがあった。


 生涯の相手も子供も持たず、ただ、血にまみれて生きてきたミツにとって、その出会いは運命の契機とでも言うべき大きなもので。

 そして―――。

 恐ろしく強大な呪に立ち向かう為に残る霊力全てを投じてもまだ足りず、神々に購って何とか事を成し、そのまま寿命が尽きて息絶えた。

 これがミツの退治屋としての人生の終焉だった。







 さてさて。

 これから黄泉路を出て、その先に待つ三途の川を渡り、人生の総決算とでも言うべき閻魔大王が裁判に臨むのだと勝手に見当をつけていたのだが。

 どうやらいささか勝手が違う。死後の世界というのは、意外にも鄙めいて緑豊かな風土であったらしい。


 と、辺りを見回して感心していると、三途の川への案内役だろうか、目の前の砂利道を登ってくる人影がある。

 こんな場所に現れるのだ。尋常の存在ではあるまい。

 好奇心を刺激されてわくわくと待ち受けていたが、程なく正体がわかり、驚きで思考が真っ白に吹っ飛んだ。


風見かざみ!?」


 見間違うわけがない。

 本性を隠した人界用の端麗な青年姿であったが、数十年に渡り、連れ添ってきた相棒が何故、こんな所に。


「ミツ様!」

「へっ?」


 逃げる暇も無い、突然、両腕を広げて抱き込まれ、背丈の違いで腹の辺りに顔をうずめる事になったミツは鼻を潰され、強制的に口を噤まされる。


「もう二度と会えぬと思っておりました―――」


 思いのほか情熱的に抱き締められ、何が何だかわからない。


「か、風見! ちょ、ちょっと放せ! 息がしにくうてかなわんじゃろが!」


 じたばたともがくと風見は腕を緩めてくれたが完全に放す事はせず、何故か、ミツは腕の中に囲い込まれたまま話を続ける事になった。


「これはまた可愛らしくなられて」


 にっこりと微笑む風見は、二十歳半ばにみえる若い男のなりをしているが、その正体は人ではない。天狗だ。


 天狗は人と異なる時を生き、異なる理を持つアヤカシの一種だ。

 自在に出し入れできる大きな羽根を背に負っているのが特徴で、その性情は、静謐を好んで人の手の入らぬ場所で静かに暮らすものと、人を化かして愉しむ狐狸と変わらぬ輩とに二分される。

 無論、魔の変革が起きた後、その性を変じたものもいるが、総じて山の長と呼ばれるほど知に優れたアヤカシだ。


 この人の青年に身をやつした風見は変わり者の天狗とでも言えばよいのだろうか。

 ミツと出会う前は、性悪天狗の一派として、男に化けては女を騙し、女に化けては男を騙し、他人の悲喜こもごもをいたずらに煽って手を叩いていた。

 が、退治屋のミツに文字通り叩きのめされた後、何を思ってか、ミツの後を付いて回るようになり、ついには仕事の相棒とまでなった。


 小柄なミツがいつも見上げなければならなかったその顔は、彼が一番よく使っていた身軽な若武者のものだ。

 腰に太刀こそ佩いていないものの、整った精悍な顔立ちと浅黒い肌は女泣かせの色男と言っても良い見目で、一つに縛られた長い黒髪が艶やかだ。

 相変わらず無駄に女以上の色気がある。

 身に付けた服の色目こそ地味な濃灰色の袴に紺の上衣でかためているが、都に出れば妙齢の女性が放っておくまい。


「どうしました?」


 滅多に見せぬ皮肉の無い笑みで見下ろされ、ミツは苦笑と共に首を振った。

 疑いようがない。これは自分のよく知る風見だ。


「まさか、こんな所でそなたに会えるとは思わなんだ。風見も息災なようで何よりじゃ。

 ところで、ここは何処か知って―――ってそういえば、わしはもう常世の住人になった筈なんだが―――まさか、風見、お前も死んでしまったんじゃなかろうな!?」


 じわじわと思い出してきた前後の状況から、風見がここにいる事の意味を推測し、蒼褪める。

 ついさっき臨終の最期を迎え、これからどうなるか知らないが、三途の川に始まる死出の旅路に足を踏み入れた事は確かなのだ。

 まさか、風見までもと最悪な想像を巡らせたが、それはあっさりと否定された。


「へぇ、すっかり記憶は飛んでしまっているようですねぇ。とにかく話は道すがらいたしましょう。あまりここに長居するのも居心地がよろしくないですし」


 風見の提案に首を傾げる事になったものの、異論は無く、二人は砂利道の方へ、森を下っていく事にしたのだった。











「―――というわけなんです」


 一通りの話を聞いたミツはしばらく言葉が出なかった。


 これでも半世紀近く生きてきて、その身に宿った霊力の凄まじさから様々な怪異にも巻き込まれ、大抵の事には動じぬ胆力を持っているつもりだったが。

 それでも絶句すべき事態だった。


 風見がわかりやすく説明してくれた内容はこうだ。


 ミツが五十年に満たぬ生涯を終えた後、なんと、即刻、彼女は転生を果たしたのだという。

 ミツの魂を宿した女児が誕生の産声を上げたのが死後一年後、だが、生前に神力を借り受けた代償として、その赤子は常磐の山神の祖となる三貴神の内の一人、月之神にお仕えする事が定められていた。

 赤子の身で勤めが果たせたかどうか疑問だがそれはさておき、それから十五年間、ミツは月之神に使役され続け、そして、ようやく役目を終えた。


 さきほどの石段の先は月之神の御所であり、そして、ミツの手の中に転生後の人生が戻ってきた瞬間でもあった。


 常磐の山神を通じて、風見はミツの転生を知り、ついで神の御所まで迎えに来る事を許された。


 風見はミツは自由になったのだと言った。

 これから神界から下りて、人の世で生きてもよいのだと。


「…さすがのわしもすぐには信じがたい現実じゃが、まぁ、神の采配じゃ。そういったものなんじゃろう」


 無理やり自分を納得させるが、なんだか遠い目になる。

 つい今しがた終えた人生の記憶も薄れぬ内に来世と呼ぶべき新たな生が始まったのだからそれも無理も無い。


「しかし、どうして前世の記憶が残ったままなんじゃ? 幾ら魂魄は使い回すとしても、普通は忘れてしまうものじゃろう?」

「使役された十五年間の記憶は取り上げられてしまうからでしょうねぇ。それも代償の一つでしょうか。

 今後に差し障りがあると判断され、月之神が配慮されたのでしょう」


 何故か、目を逸らしたまま風見が答える。

 どうやらあまり知りたくない裏の事情がありそうだが、神世の規則だと言われればそういうものかと納得するしかない。


 まだ先の見えてこない道を二人、ゆるりと歩きながら、ミツは自分の小さな両手を見やる。

 白くてまだ皺もない、まるで昔に戻ったかのような手だ。

 それもその筈、ミツの今の身体の年齢は、十五なのだという。

 風見が、出会った頃のミツ様よりも幼い感じですねぇ、と、嬉しそうに頭を撫で回すのを容赦なくはたき落とした。


 足には草鞋に白い足袋、上の衣は相変わらずの白の合わせだが、使い古したものと違って目に痛いほど白い。

 歩く度に緋袴の裾が揺れる。自分の服を選べるようになった若い頃から、目立つのを嫌がって赤を避けていたミツとしては、かなり違和感のある色目だ。

 通説では、緋色は魔を祓う色として尊ばれ、神に仕える巫女姿としては常道と言えるのだが、短い溜息が洩れる。

 髪もどうやら生前と同じく長いままだ。黒髪に霊力が宿るとされるのも有名な話なので、伸ばされたのだろう。

 自分の身から出た錆とはいえ、相手が神様とはいえ、自分の身を他者に好き勝手されていた事については、精神衛生上、深く考えるのをやめておいた。


 あれから十五年、経っているのだという。

 短くは無い時間が過ぎている。


 そして、これがミツの第二の人生の始まりなのだ。


「うーむ、不思議なものじゃ」

「そうですねぇ、でも、私はもう一度ミツ様にお会いできてとても嬉しいですよ。

 言いたい事もたくさんありましたし」


 ちらりと寄越した双黒の眼差しには明らかな非難が宿っている。


「あんな大事な事を私には一言も無く、勝手に決めて、勝手に動いてしまわれるのですから。私に気付かせないよう巧妙に術の気配まで隠して。

 そして、止める暇も無く、たった一人で逝ってしまわれた。―――私がどれほどあなたを恨んだか」


 驚いて見上げた横顔は、恨み言を述べているのだとは思えぬ静かなものだった。

 それでもその内側に流れる真摯な思いを感じ取って、そんな風に恨まれているとは思っていなかったミツは、ばつの悪い顔をするしかない。


「それは…すまなかった。決してお前を軽んじたわけではないのじゃが、その、刻限も迫っておったし、あの方法しか思いつかなんだでの」

「あなたが私を軽んじたと思っているわけではありません。あなたのその鈍感な所を愛らしいと思う時もありますが、やはり」


 憎らしい事ですねぇ、と、半分口の中でぼやく風見は形の良い眉を思い切りひそめて、渋い顔だ。


「だいたい、あなたの寿命が尽きたのだって、生前、霊力を酷使したのが祟ったのですよ。

 自分の器以上の霊力を引き出して、若い身空でアヤカシ退治にのめり込んで。

 あなたがあれほど早くに老いたのだってそうです。類稀な美貌をお持ちだったのに、三十路を過ぎた頃にはもう五十過ぎの老婆と変わらぬ有様だったではないですか!

 まったく、ミツ様は無茶をしすぎなんです!」


 恨み言の次は小言の嵐に突入してしまった。

 出会った当初は、あまり他人に頓着するような性格にみえなかったのに。

 長年の付き合いがそうさせたのか、この天狗はまるで乳母やのように甲斐甲斐しく、薄手の服で身体を冷やすな、精のつくものを食べろ、など口を出すようになった。

 そんなに世話をやかれるほど、自己管理能力が杜撰だという意識はミツにはない。


「とにかくこうやって再び生まれ戻る事ができたんです。ミツ様は人界にて何をしたいですか?」 


 その問いにミツは目を瞬く。


 これから何をするか。

 その問いに向かい合ってみれば、すとんと簡単に答えが出た。

 だが、今、それを口にすれば、この相棒の機嫌がみるみる内に急降下する事は確実だ。


「そうじゃなぁ、なぁ、風見。久しぶりに何か、旨いものでも食べに行くか」


 仕事の合間によく口にしていたように、笑顔で誘いかければ、風見も仕方が無い人だと言うように、表情をほころばせた。


 やがて森の終わりも見えてきた。

 不安よりも今ここにある奇跡に感謝する事にして、ミツは相棒と肩を並べ、かつての現世に舞い戻ったのだった。


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