信長続生記 巻の四 「躍進」 その1
今回より巻の四が始まります。
どこまで2日に1話ペースが保てるか分かりませんが、ストックが無くなるその日まで何とか持ち堪えようと思います。
信長続生記 巻の四 「躍進」 その1
家康の居城・浜松城に、清州城で行われた織田家後継者選定会議、通称「清州会議」の結果報告がもたらされた。
わざわざその報告が徳川家に急使を出して伝えられる、という事は織田家は今後も徳川家との同盟を継続する意思がある、という事が言外に窺えた。
もっとも織田家からしてみれば、ただでさえ信長と信忠の死去により混乱している家中に、徳川家の離反などあっては目も当てられない、という切羽詰まった事情もあった。
家康の嫡男・信康の切腹から三年、信長という存在がいるからこそ家康は大人しく従っていたのだとしたら、この機に一気に敵対勢力へと鞍替えする恐れもある。
今や東海三ヶ国の太守となった徳川家の離反、もしそうなれば織田家とすれば一大事となるだろう。
単純な話として、中国戦線、四国戦線、北陸戦線、関東戦線の他に東海戦線など抱えてしまおうものなら、指揮官の数も足らなければ兵も足らない。
毛利との和睦から同盟へとこぎつけたとして、中国戦線の戦力をそのまま東海戦線に当てれば、という考えもあるかもしれないが、そうした所でそんな単純に戦力の即時移動などは出来ない。
長年の同盟関係により、徳川家は三河の、織田家は尾張の守備兵力は最低限という、お互いの信頼があってこその状態で、前線に兵力の大半を向かわせることが出来た。
それがつい先程和睦したばかりの毛利家を相手に、同じように最低限度の守備兵しか置かない状態で、国境付近を守れるだろうか。
『毛利両川』を要する毛利家に対し、それはあまりにも危険な賭けである。
下手をすれば徳川家の離反、から始まる織田家の崩壊、ともなりかねない。
織田家の対応の速さは当然と言えた。
とは言うものの、実は家康は信長お抱えの『隠れ軍監』たちにより、信長経由で一足早く結果報告を受け取っており、使者の報告はすでに知っている事ばかりであった。
だが家康はその報告を初めて聞いたように振る舞い、「信長公御存命の頃より、この徳川は織田家と一蓮托生を胸に、共に戦い続けており申した、こちらこそ今後もよしなに」と、その使者を手厚く迎えた。
その丁寧な返事と対応に、使者はホッと胸を撫で下ろしながら帰っていった。
一足早かった『隠れ軍監』の報告と、使者が告げていった主な内容は以下の通り。
筆頭宿老であった柴田勝家は、その地位を羽柴秀吉によって奪われ、代わりに信長の妹・お市の方を娶って織田家一門衆という地位を手に入れる事になった。
領国の広さ、上げた武功などにより、名実ともに筆頭宿老になった羽柴秀吉は、他の宿老・丹羽長秀と池田恒興を実質従える形で、会議の主導権を握ったという。
肝心の織田家の後継は信長の嫡孫・三法師が就き、その後見人として信長三男・信孝が就くことで一応の決着を見た。
これによって織田家を取り巻く状況・そして内情が、大きく変わった事は一目瞭然である。
無論秀吉が丹羽長秀と池田恒興を実質従えた、柴田勝家が筆頭宿老の地位を羽柴秀吉に取って代わられた、というのは使者からではなく『隠れ軍監』からの報告である。
信長はこの報告を耳にしてからしばらく一人で何かを考えていたが、おもむろに光秀を連れて奥の部屋へと入っていった。
家康もその報告を聞いて、当面は織田家との同盟を守り続け、織田家の情勢を見定める動きに終始することに決めた。
その一方で徳川家康は、生きていた信長・光秀を匿い、さらに前関白・近衛前久を浜松に逗留させ、家臣とは違う枠組みの新たな首脳陣を形成した。
それを知る者は極力少ない方が良い、という判断の下で今日までは家臣の中でもごく一部にしか知らされていなかったが、それでも知らない者が多すぎて問題が起きても困る。
なので家康は一計を案じ、近々行う甲斐・信濃平定戦の事前演習を兼ねた、大規模な鷹狩りを催した。
鷹狩りは「勢子」と呼ばれる者たちが大きな音を立てて獲物を追い込み、逃げるために飛び立った所を待機させていた鷹に仕留めさせるという、当時の大名たちの間で非常に流行っていた催しであった。
無論ただの遊興ではなく軍事演習としての側面も持っているため、大きな戦の合間やしばらく戦が無い期間に兵たちの勘が鈍らないようにと、進んで催す大名もいた。
当の家康も鷹狩りが趣味だと公言しており、それは江戸に幕府を開いた後、近隣の者たちを動員して十万人規模の鷹狩りを行った事でも証明されている。
武田攻めからすでに四ヶ月が経過し、徳川家はその間に一度も戦を行っていない。
だが近々に、それこそ今月中にも甲斐・信濃を平定するための戦を始める上で、家臣たちにも戦の勘を取り戻させておこうという計らいで、家康は大規模な鷹狩りを催したのだ。
だが家康とて、ただそれだけでそこまで大規模なものにはしない。
元来「質素倹約」「質実剛健」を好む家康が、いくら大好きな鷹狩りとはいえ、これから莫大な戦費がかかる前にあえて金を浪費する、などという真似をするはずがない。
現在の徳川家、浜松城にいる人間で鷹狩りが好きな者、というのは何も家康だけではない。
信長はもちろん、公家である近衛前久も実は鷹狩りが大好きであり、こういう所も公家らしからぬ部分を持つ男であった。
鷹狩りは軍事教練をしつつ、獲った獲物を競い合う競技という側面もあるため、大名たちはわざわざ鷹匠を雇い、鷹を訓練させてそれを贈答の品として送るなど、鷹は当時としては馬に次ぐ「贈られて嬉しい生き物」であったようで、非常に重用された生き物でもある。
現在も神奈川県では「狩場」という地名があり、かつての徳川将軍などが鷹狩り用に使っていた土地であることを示す名称が付けられた地域もある。
現代のスポーツとしての狩猟を楽しむのと同じような扱いで、鷹狩りは当時の大名たちに非常に親しまれたものであった。
そしてその鷹狩りを行う目的は、もちろん軍事演習というものだけではない。
生存が極秘とされているため満足に出歩くことも出来ず、浜松城の奥まった部屋で日々過ごすことに飽きてきた信長を、外に連れ出す意味合いも兼ねていたのである。
自ら望んでいた部分もあるとはいえ、さすがに何日も同じ部屋の中では気乗りもしない上、顔を会わせる者も限られ、気晴らしも満足に出来ない。
光秀も未だ脇腹の傷が痛むため、極力療養に専念している。
前久も折に触れて信長と茶を飲むなど色々やってはいるが、やはり信長とすれば外に出て馬で思う存分駆け回りたい、という気持ちが日々募っていったのである。
そこで家康は茶の席で信長に鷹狩りの予定を伝えると、亭主を務めていた前久も食いつき、二人揃って参加を熱望したのである。
その結果、家康と前久が成果を競う形式の鷹狩りを行う事が決まり、信長は顔を隠す必要もあるため、前久の従者の一人に扮して参加することが決まった。
家康の目論見はものの見事に的中し、信長と前久は顔に満面の笑みを浮かべて、家康お気に入りの狩場へと馬を走らせた。
もっとも、信長は外に出る際に必ず覆面をしてくれという家康の頼みを快く聞き入れたため、目元ぐらいしか見えてはいないのだが、よく見ればその眼は期待に輝いていた。
本能寺の一件より、人目を忍んで行動せざるを得なかった信長にとって、この鷹狩りは本当に良い気晴らしになっていたのである。
普段であれば、家康が行う鷹狩りではそこまで大規模にはしすぎない所だが、今回に限っては表向きには前久をもてなす饗応の一環、という形を取って大規模に行う事にした。
家康方には家康譜代の家臣たち、前久方には覆面をしたままの信長、蘭丸、そしてフクロウなどが入り、鷹も家康が所有する鷹を二羽ほど貸した。
信長の名目上の扱いとしては前久の従者、としてその陰に隠れながらも、興が乗ってからは前久よりも先に馬を走らせるなど、周りの事情を知らない者たちが慌てて止めようとして、前久に「あの者はああいう手合いや、気にせんとって構しまへん」と言って取り成す一幕もあった。
そういった純粋に鷹狩りを楽しんでいる前久方とは対照的に、家康方はある程度の人数は鷹狩りに向かわせたものの、肝心の家康含め、家臣の多くは用意された陣幕の中にいた。
そこに並んだ者たちはいずれも家康にとっての忠臣、心から信ずるに足る三河武士たちであった。
家康が陣幕の一番奥の上座に座り、その両脇にはズラリと並んだ錚々たる顔ぶれがいる。
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政を筆頭に大久保忠世・忠佐の兄弟・本多重次・鳥居元忠・平岩親吉・服部正成(半蔵)・本多正信・渡辺守綱・高力清長など、もしこの陣幕にいる者たちがいなくなれば、徳川は瞬時に壊滅すること必至の人物たちである。
なお、重臣でありながらここに呼ばれていない者は、それぞれが受け持つ城の守護や役職に就いていたため、家康も無理やりな召集はしていない。
それでも呼べる範囲で集めさせ、現在の状況となっている。
陣幕の中にいる全員が所狭しと床几に座り、その空気は異様なものとなっていた。
「先程の話を聞いた上で、お主らをここに集めた理由、分かるな?」
家康の言葉に全員が一斉に頷く。
先程までの間に、家康は信長と光秀が生きていることを目の前の者たちに話し、今この徳川家で匿っていることを包み隠さず明かした。
そしてこの鷹狩りに、前久の従者の一人という扱いで、信長も参加していることを合わせて話した。
それらの話をした後で家康が先程発した言葉を聞き、家臣たちは一斉に頷いたのである。
頷きながら渡辺守綱は、腰の刀をトンットンッと叩きながら口を開く。
「ならば今ここで、信長を討ちまするか?」
「分かっておらぬではないか…そういう考えを起こさぬよう、釘を刺しておく必要もあるから集めたのだぞ」
呆れた顔でそう言い返した家康に、今度は大久保兄弟が口を開く。
「しかし今この時が千載一遇の好機であることも確か。 殿の御気が進まぬならば、拙者の一存という事で斬り捨て、その後の情勢次第で都合が悪くなれば、拙者が責を取って詰め腹を」
「兄上の申す通り! 今こそ信康様のご無念をお晴らし致さん! 兄上は大久保家当主故、詰め腹なら某にお任せあれ!」
忠義は分かるのだが、どうにも血気に逸った者たちまでここに呼んだのは失敗だったか、家康がそう思い始めた頃に本多正信が、意地の悪い笑みを浮かべて口を挟む。
「落ち着いたらどうじゃ、ご三方よ。 何のために殿がわざわざ信長を匿い、その事を我らにお知らせ下されたと思う? 物事の裏まで読んでから発言されぃ」
正信の言葉に大久保忠世と忠佐、それに渡辺守綱やさらには本多忠勝までが、一斉に本多正信に敵意の籠もった視線を向ける。
正信はかつて一向一揆にその身を投じて、家康と敵対する道を選んでそのまま徳川家を出奔したことがあった。
渡辺守綱もかつては一向一揆に参加したが、家康相手に槍を向ける事を躊躇い、「槍の半蔵」と異名を取ったにも拘らず、降伏を願い出たため許され、その後も武功を上げて家康に忠誠心を示した。
しかし正信はそのまま出奔し、徳川に帰参してきたのも比較的最近であるため、家康への忠誠心では誰にも負けない、とそれぞれが思っているこの場において「どうしてお前がここにいる」という意識を向けられているのだ。
だがその正信は何食わぬ顔で床几に座り、そんな敵意を柳のように受け流している。
渡辺守綱からすれば「お前は俺とは違って徳川を出ていった奴だ」と思われている。
大久保忠世としても「帰参を許してもらえたのは、誰が殿に取り成したやったからだと思っている」と言いたげな目で睨んでいる。
本多忠勝に至っては「お前が自分と同じ本多性を名乗るな」と毛嫌いされている節もある。
だが後年、本多正信は謀略において家康の懐刀と称され、いわゆる「狸爺」と言われた家康の行動の指針は、正信の発案だったとする説もある。
だがこの時の徳川家では『武』に重点を置いていたため、戦での活躍が最重要視されていたのである。
そのためか本多正信はこの時点においてまだまだ徳川家臣団の中での序列は低く、頭角を現してきた若手の井伊直政や、家康の代わりに現在鷹狩りを行っている重臣・石川数正に代わって、この場で座っていることに不快感を示す者も少なからずいたのである。
正信の発言によって一気に場の空気が険悪になったため、比較的年長で穏やかな性格をしている高力清長が「まあまあ」と空気を和らげていく。
そして最年長であり、徳川家臣団筆頭の酒井忠次が空気を変えるための咳払いを一つして、場を引き締め直す。
この辺りはさすがに家康の父、広忠の代から仕えている老臣・忠次である。
家康が幼く人質に甘んじていた頃、正式な主が不在の三河衆をまとめ上げ、家康の帰還まで持ち堪えさせた長年の功臣は、誰もが認める徳川家の柱石であった。
「まず、殿は信長…織田様との同盟を継続することを決められた。 その理由は先程お主らも聞いたであろう、南蛮国の脅威に対する国土防衛。 その目的のために織田様の『天下布武』を助け、一刻も早くこの日ノ本を一つにする、その上ですでに入り込んだ宣教師たちには、「日ノ本侮りがたし」と思わせ、出来得るならば攻め込まれる前に攻める気を無くさせる、という事を目標とする」
酒井忠次の説明にそこにいた者たち皆が頷いてはいるが、その顔はその者によってまちまちだった。
本多忠勝・榊原康政はすでに聞き及んでいたため、特に不満げな様子はない。
だが先程聞かされたばかりの他の者たちの中には、難しい顔をして黙り込んでいる者もいる。
「意見があるならば申し出よ、この際だ。 信長殿が聞いている心配が無い今の内に、思う存分己が存念を吐き出すが良い」
家康の言葉に家臣たちの手が一斉に上がる。
その手の本数を見て、家康は「これは長くなりそうだな」と、内心でため息を吐いたのだった。
最初は一話にまとめて書いていたのですが、想像以上に長くなりすぎたため話を分ける事に致しました。
それでも今回の文章量が普段の1話分と大差ない量になりました、陣幕内の人数もある程度絞ったのですが、やはり登場人物が増えると自然と長くなってしまうものですね。
「信長生きている割に、史実と大差がない」と言われてしまいそうですが、この時点での信長と光秀は生きていることを公表していないため、史実とは変え辛い状況にあります。
公表と同時に大きな変転を見せる話にしていきたいとは思いますが、どうかそれまではしばらくお待ち下さいませ。




