信長続生記 巻の一 「本能寺の乱」 その7
信長続生記 巻の一 「本能寺の乱」 その7
明智光秀による二条御所襲撃、それによって抗し切れぬと悟った信忠は自刃し、その首は床下へと隠しながら収められ、二条御所陥落後も明智軍には見つからずに済んだという。
史実では当時戦国の最大勢力であった織田家の総帥・信長と、その嫡男にして家督を継いでいた信忠の親子がたった一日でこの世を去る、という事実が日本中を駆け巡り、人々は栄枯盛衰を悟った。
信長が好んだという「敦盛」の歌の一節「人生五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、一度この世に生を受け、滅せぬもののあるべきか」を、まさに体現するかのような人生であった。
余談ではあるが、その「敦盛」の題材となった平敦盛という武将は、わずか17歳で源平合戦の内の一つ、一の谷の戦で戦死したという。
信長の死後、織田家は豊臣家・徳川家の下で臣従し、何とか生き残りを図っていく事になるが、信長の掲げた『天下布武』は、二度と織田家から聞かれることは無くなった。
時は少し遡り、二条御所に攻め入るその前に、明智光秀は本能寺から逃げ延びたという女たちの検分に入った。
もし、信長が女に変装してこの場から逃げ去ろうとするならば、その中にいるはずだ。
信長という人間の合理的な思考からすれば、女の格好をして命からがら逃げたなどの恥辱を受けようとも、最終的に生き残り、そして勝った者が正義となる。
一般的な武士の感覚からすれば「そのような恥辱を受けるなら、腹を切る」と言い出しかねないようなことも、あの信長なら耐える可能性がある。
自分は信長という男をこの世で一番理解出来ている、だからその可能性は高い、と光秀は踏んでいた。
自らの掲げる最終目標のためなら、自らの醜態など屁とも思わない。
これが常人であれば情けや誇り、見栄や金銭、色々なものによって妥協もしてしまう。
だが信長は迷わない。
あくまで目的のために邁進し、そこに至るまでの経緯など些末なことだ。
だからこそこの世で最も迷わない、それがこの世で最も恐ろしい信長という男なのだ。
次々と部下によって連れてこられる女たちは、皆一様に怯えを含んでいた。
ある者は涙ながらに命乞いを始め、ある者は震えながらも気丈に振る舞おうとし、ある者はガタガタと怯えておりロクに話せもしない。
なにせあの信長を討った、と思っている明智光秀の眼の前なのだ、怯えもするだろう。
陣幕の中で床几に腰掛け、泰然と佇む光秀の前にまた別の女が引き出されてくる。
その女は顔を俯かせながら、兵士二人に両脇を抱えられて光秀の前に座らされた。
「危害を加えようというものではない、まずは名を聞かせよ」
最初にこう言っておかないと、まともに話も出来ない。
これまでの間に連れて来られてきた女たちの反応から、最初に怖がらせないようにする方が却って話が早いと学んだ上での言葉だ。
その女は少し大柄で、俯いた顔を上げもせず少しだけ低い声で答えた。
「帰蝶様が侍女、鶴にございます」
「そうか、ではお鶴よ…いくつか質問するが、正直に答えてくれれば危害は加えず、親元に帰すなり金子を与えるなりの便宜を図ると、この光秀の名において誓おう…良いな?」
「はい。 過分なるお計らい、感謝にたえませぬ」
その侍女は俯いていた顔を、さらに下げて地面に額を当てた。
光秀を中心に陣幕内の両側に立ち並ぶ諸将も、その様子に「よほど恐れているのだな」と思った。
光秀はその侍女の頭が上がるのを待ち、ゆっくりと問いかけた。
「あの本能寺から脱出する際、そなたは上様の姿を見たか?」
「はい、帰蝶様はじめ皆々の前で明智様を迎え撃つ、と」
「ふむ、皆と同じことを言うておる、やはりその様になさったのだなあの方は…」
一人光秀が頷き、さらに質問を重ねる。
鶴、と名乗った侍女は地面から頭は離したものの、未だ俯いたままだ。
「では次に本能寺の本堂、その奥の間にて炎に包まれて倒れていた男がいたとのこと、それが上様であったと思うか?」
「それは……分かりませぬ。 私たちにはただ逃げ延びよ、とだけ」
言葉を詰まらせ、ただ自分に分かることだけを話している、という風情だ。
光秀の表情も変わらない。
居並ぶ諸将も「この女からも、信長の生死に関わる手掛かりになりそうな事は、何も聞けそうにないな」と内心で思い始めた時、光秀がもう一つ尋ねた。
「では、これを最後の問いとしよう……そなた、先程から一向に顔を上げぬが、何故か?」
その言葉に、ピクリと侍女の肩が動く。
諸将もそれまでの弛緩し始めた空気を張り詰めさせ、鋭い目付きとなってその侍女を見た。
「それは……私ごときが畏れ多くも新たな天下人様となられた、明智様のご尊顔を拝するに値するような者ではないが故にございます。 ご無礼が御座いましたら、平にご容赦を…」
言って、その侍女は先程と同じように深々と頭を下げて額を地面につける。
しかし先程と違い、諸将の侍女を見る目は疑いと警戒に染まっていた。
光秀はその侍女に重ねて言う。
「構わぬ、面を上げよ。 そなたの言う天下人とやらの顔、とくと見るがよい」
光秀の言葉に、ゆっくりとその侍女は顔を上げ、同時に飛び出すように跳ねた。
それは、居並ぶ諸将が警戒し、疑惑の眼差しを向け、人によっては腰の刀に手をやっていたにも拘らず、瞬時に光秀との距離を詰めるだけの勢いを持っていた。
その勢いの良さに一瞬対応が遅れる諸将。
光秀は床几に腰掛けたまま、身じろぎ一つしない。
諸将の誰かが「殿!」と、叫ぶのがやっとの中。
「やはり紛れていたか」
光秀の後ろ、陣幕の向こうから同じく飛び出してきた明智左馬助秀満によって、その侍女の手に握られていた短刀は光秀の直前で止められた。
明智光秀という武将の性格上、逃げようとする女に兵士が狼藉を働くのを許すはずがない。
ならばそれを利用し、内太腿の気持ち後ろ側に短刀を結わえ付けて、頭を下げた体勢から顔を上げるまでの動作の中で、瞬時に抜き放って飛び掛かる。
その短刀が握られた右手の手首を、狙い違わず秀満の手が押さえ付け、さらに腹に膝蹴りを見舞う。
「ぐぅッ!」
その蹴りの威力に侍女の身体が跳ね、足先が地面から浮き上がる。
さらに手首を折るような勢いで握り締め、その握力にたまらず短刀が零れ落ちる。
右手首を握りしめたまま、脱力して崩れ落ちる侍女の足元に落ちた短刀を、油断無く足先で遠くへと蹴飛ばし、秀満が光秀を庇う位置に立つ。
「いい踏み込みでしたが、やはり距離がありましたな。 観念なされよ」
言いながら、右手を侍女と名乗る者の頭に手をやり、髪の毛を掴んで引っ張る。
するとあっさりと髪の毛は外れ、美しいとはいえ男の容貌が明らかになる。
光秀はその顔に見覚えがある、信長の寵愛を受ける小姓、森蘭丸によく似ていた。
「奥の間で炎に呑まれた体は二つ……上様と蘭丸殿、であればそなたはその弟のどちらかか?」
「光秀ぇッ!!」
蘭丸似の男が大きく叫ぶ。
すると陣幕の外からも声が聞こえた。
どうやら陣幕のすぐ外にいる兵士たちの声のようだが、諸将が一瞬そちらの方に気を取られ、秀満の注意もそちらに向いて視線を移してしまう。
そして陣幕の向こうから褌一つの格好のまま、身軽に陣幕を破ってきたもう一人の蘭丸似の男が、鞘に収められたままの刀を手に、猛然と乱入してきた。
「なぁぁッ!?」
「も、もう一人!?」
諸将が慌てながらその乱入者に向けて刀を構えるが、乱入者は諸将には目もくれず、その向こうにいる光秀に向かって突進をかける。
一歩目で刀を両手で持ち、二歩目で抜き放ち、三歩目で構え、そして四歩目。
諸将の刃が乱入者の身体に届き、所々を浅く傷つけるが、勢いを殺すまでには至らない。
光秀の前に立つ秀満が、左手で未だ目の前の男の右手首を掴んだまま、右手一本で腰の刀を抜こうとするが、それを侍女と名乗った男の左手に制される。
「くッ!」
「殺れッ!」
秀満はとっさに、目の前の男を蹴り飛ばして両腕を交差させて頭上に掲げる。
裸同然の乱入者が、その身軽さを活かして飛び上がり、大上段から一気に刀を振り下ろす。
それを秀満は自ら踏み込んで、刀の根元の部分を両腕で受け止め、その両腕に浅い切り傷を付けさせただけでその刀を受け止めた。
一見柳生新陰流の奥義として伝わる「無刀取り」に近い体勢ではあるが、そちらの剣術を体得していたわけでもない秀満には、確実に浅い傷で刀を止める方法しか取れなかった。
刀はその性質上、先端に近ければ近いほど切れ味が増すように出来ているため、柄に近い部分で受け止められると、勢いがあっても簡単に切り裂くという訳にはいかない。
そして勢いが止まった乱入者に向かって、追いついた諸将が一斉にその刀を閃かせる。
唐竹割りに、横薙ぎに、袈裟掛けに。
背中から血飛沫を上げながら、乱入者は前のめりに倒れ込む。
しかしそれだけで終わりではない、先程秀満が蹴り飛ばした男は、その前に秀満が蹴っておいた短刀を素早く拾い、再び光秀に襲いかかろうとしていた。
秀満は両腕から流れ出す血も構わずに、短刀を持つ手をその拳で打ち据え、呻いて短刀を取り落とした男の膝の内側の、斜め上側から蹴りを落とし膝を砕いた。
「ぐぁぁッ!」
たまらず声を上げながら、その男は倒れ込む。
しかし、倒れ込みながらも取り落とした短刀を三度掴もうとしたのを見て、秀満が今度こそ刀を抜き放って、その男の胸を大きく切り裂いた。
声も無く、斬られて今度こそ完全に背中から倒れる男。
胸から大量に出血し、今度こそ致命傷と一目で分かる有様だった。
「上……さま…もう、しわ……け…」
最後まで、信長に忠義を貫きながら逝ったその男に、秀満は刀を片手に黙祷を捧げる。
黙祷を捧げた後に、刀の血糊を拭きながら「そういえば名を聞きそびれたな」と、もう一度命を賭して向かってきた二人の若者に目をやる。
どちらも完全に絶命しており、今更名を聞くことは出来そうにないと悟ると、侍の一人としてせめて墓でも作ってやりたかった、という感慨を持った。
先程の光秀の発言を聞く限り、この二人はおそらく森蘭丸の二人の弟たちなのだろう。
秀満は知らないが、力丸と坊丸の二人は女に扮装し、出来れば光秀を殺し、それが出来なくとも自分の仇討のために命を賭けて向かってきたという体を装え、という信長の命を忠実に守った。
無論明智軍の誰も、というよりこの信長の非情な命令を知っているのは信長と森家の三兄弟のみである。
この命令に従うという事は、それは光秀暗殺に成功しようとしまいと、命を捨てるという覚悟が必要であったのだ。
だが蘭丸も、そして命じられた力丸と坊丸の二人も、この命令に一切の不服は無かった。
信長に「わしのために死ね」と言われて、むしろ嬉しかったほどだ。
光秀暗殺に失敗しても、信長が生きていることを悟らせないような言葉を言い残せ、という命令にも最後まで忠実に従った二人は、そういう意味では満足して逝った。
だがその満足を死ぬその時まで全く表に出さず、あくまで無念極まりない最期であったという有様で逝った二人の演技に、この場にいる誰も気付くことが出来なかった。
勿論それは、鬼気迫る勢いで向かってきた二人を食い止めた功労者であった秀満が、誰より一番騙されていたという事でもあった。
光秀は床几に座ったまま立ち上がらずに、遺体となって運ばれていく力丸と坊丸の姿を見ていた。
その二人の顔を見て、一つの結論に達した。
(やはり、本能寺にて上様は)
涙は出ない。
ただとてつもない喪失感があるだけだ。
どうしようもないほど、後戻りのできない時がやって来たのだと、光秀は思った。
日ノ本を覆う潜在的な恐怖は、何も払拭されないままただ信長という存在だけを喪った。
信長の目指した日ノ本という国の統一防衛構想、その全てを、おそらくは唯一理解出来たであろう自分がこれから受け継いでいかねばならないのだ。
だがやるしかない。
この構想を受け継ぎ、その目的に邁進し、信長に代わって自らの全身全霊を込めて、この目標を実現しなくてはならない。
それが、信長という存在を「歴史」へと変えてしまった自分に出来る、唯一の贖罪だ。
この一分一秒が常に「歴史」として流れていき、時は決して巻き戻ることは無い。
ならば自分は迷わない、決して躊躇ってはならない。
迷いや躊躇いは冒涜だ。
安寧や休息は怠惰だ。
温情や友愛などは無用だ。
ただひたすらに、信長が成しえなかった事を代わって成し遂げるために、自分は生きていこう。
そのために、ありとあらゆる手段を取ってやる。
「申し上げます。 殿、織田信忠がいた妙覚寺へ向かった所、信忠はすでに妙覚寺を出て二条御所へと入ったとの由、如何いたしましょうや?」
本能寺を囲んでいた本隊とは別に、別働隊を率いさせていた斉藤利三が戻ってきた。
斉藤利三には妙覚寺の信忠を討つ、あるいは捕縛せよと命じていたが、どうやら信忠は妙覚寺を一足早く逃れていたらしい。
だがその足でそのまま京を出るのではなく、防衛設備が整っている二条御所へと入った所を見ると、どうやら信長の弔い合戦を行う決意をしているようだ。
若い、と言わざるを得ない。
数の上でも装備の上でも遥か上を行き、指揮官の能力においても数段上の存在を相手に、たかだか少し防衛設備が整っているだけの城、とも呼べない場所に籠るとは。
「わが決意の第一歩目は、よりにもよって信忠殿、か」
本来であれば織田家の家督と共に、信長の全てを受け継ぐべき存在であったはずの男。
もはや揺るがぬ決意を胸に秘めた光秀の最初の相手が、心から敬愛し討ち果たした英雄の嫡男なのだ。
これが人の世の因果、というものかと、光秀は自嘲する。
これは信長の血と、構想のどちらを受け継ぐ者が、真に信長の後継者に相応しいかを確かめる戦。
光秀は本能寺の見張りと捜索に最小限の兵を残し、残る全軍に二条御所へ向かうよう命じた。
光秀の眼には、未だかつてない強く悲しい光が宿っていた。
森蘭丸の弟、力丸と坊丸は残念ながらここで退場となりました。
補足説明をさせて頂きますと、後から褌一つで刀を持って乱入してきたのは、来ていた着物を自分の周りにいた侍に投げつけ、その隙に刀を奪って乱入したから、ということでした。
本文中ではそのあたりの説明は、かえってスピード感を削ぐ恐れがあると思い割愛いたしましたので、ここに改めて付け加えさせて頂きます。




