レベッカ・レベッカは名乗らない 2話
――いつからだろう。僕を取り巻く世界が変わったのは。
※
「……なんですか、それ。『名乗らない』って……。もっと具体的なヒントを――!」
そこまで言って、気付く。電話は既に切れていた。
何度か電話をかけ直してみたものの、返って来るのは機械的なアナウンスだけだった。
ずるずると壁に背中を預け、頭を抱えた。
もしかしたら、全部夢だったんじゃないか。白昼夢だったんじゃないか。
そんな現実逃避を、目の前の光景が否定する。
血だまり。
肉片。
自称後輩だったモノ。
紅に染まった現実が、僕に逃避を許さない。
「これからどうすればいいんだよ……」
目の前で後輩が死に、映姉さんのヒントは意味不明。レベッカ・レベッカを捕まえようにも、その取っ掛かりすら分からない。
脱力し、途方に暮れた――その時だった。
バリンッ!!
突然、目の前のガラスが砕け散った。
一枚、また一枚。
軽快に、次々と、洗面台のガラスが割れていく。
舞い散るガラス片を呆けたように眺めていると、ふと手元に転がってきた鈍色の物体に気付いた。
銃弾、だった。
窓の外から、声がする。
『αよりγへ。クリアランス成功。該当区域に青年1名を確認。これより、リリエット・シークエンスに移行する』
『レベッカ・レベッカによる死者が出た以上、これ以上の被害拡大は危険と判断。よってこれより』
『当該男性一名を、抹殺する』
「……え?」
『射撃開始!』
まさに。
それは、まさに。
炸裂という言葉を、全身に浴びたようだった。
僕を取り囲んでいる空間という空間が、揺れ、震え、鼓膜が破れんばかりの轟音を立てて、三半規管をシェイクした。
僕はただその場にうずくまり、体を縮こまらせることしかできなかった。悲鳴をあげているはずなのに、周りの音がうるさすぎて、自分の声すら聞こえない。
喉の揺れる感触だけが自分の生を証明してくれている気がして、ひたすらに意味のない声を上げ続けた。
ふざけんな! 不条理だ! 理不尽だ!
こんなのおかしいだろ!
せめて誰か説明してくれよ!
僕が死ぬ理由を教えてくれよ!
じゃないと納得できないねぇよ!
いったいなんで――
「なんでこんなことになっちまったんだよ!」
「先輩、こっちです!」
弾かれたように顔を上げた。
聞こえるはずがない声が、聞こえた。
「先輩、早く! 今の銃撃で後ろの壁に穴が空きました! そこから逃げるんです! 今なら間に合いますから!」
僕を先輩と呼ぶのは、この世でただ一人しかいない。
「なにぼーっとしてるんですか! 次に射撃されたら死んじゃいますよ! あいつら、レベッカ・レベッカに関わった人間には容赦ないんですから!」
だけど、あいつは死んだんだ。僕の目の前で、間違いなく。それに何より。
「な、なぁ……どうして」
僕は問う。
自称後輩がスマホにつけていた、クマのストラップに。
「どうしてこんなとこから、お前の声が聞こえるんだよ……」
「説明は後です! 『その弾丸に祈りを込めて』を観たことないんですか!? マイク・フェスが死んだのは、その場にとどまり続けたからなんですよ!」
赤いチェックのフェルトでできた、クマのストラップ。そこから彼女の声がする。
死んだはずのあいつの声が、まるで生きてるみたいに聞こえてくる。
なんだよこれ、意味分かんねぇ。
喜びと戸惑いが混ぜ込ぜになって、乾いた笑いになってまろび出る。
「はは……ははは……」
「ちなみに2015年のカンヌ国際映画祭の受賞作ですからね! ちゃんと覚えておいてください!」
「はは、はははは!」
「ほら、もっと早く走って! 笑ってる場合じゃありませんよ!」
僕は――ついにおかしくなってしまったのだろうか?
現実を受け止めきることができず、幻聴に逃避しているのだろうか?
そんなことを考えているうちに、気付けば僕はクマのストラップに導かれ、映画館の外に逃げ延びていた。
「ふぅ、ここまできたらもう安心ですね」
「お前……死んだんじゃなかったのか?」
「死にましたよ、肉体は。だからあらかじめ依り代にしていた、このストラップに逃げ込んだんです」
「……」
「どうしました? 頭でも打ちました?」
「頼むから、これ以上わけの分からん情報を追加するのはやめてくれ……」
依り代? 逃げ込んだ? なに言ってんだこいつ。
ファンタジーの世界じゃないんだぞ。次から次に、そんな非科学的な現象が起こってたまるかよ。
だけど……
「なぁ……」
「なんですか?」
「生きてるんだな、お前」
「……」
「生きてるん、だよな」
「はい、生きてますよ。往生際の悪さはジョンQのジョン並みなので」
全身から力が抜ける。
良かった……と。心からそう思えた。
この際、ファンタジーだろうが魔法だろうがなんでもいい。まだ彼女が完全にこの世を去っていないのなら……映姉さんの言っていた通り、彼女を生き返らす方法もあるだろうから。
「どうしました、先輩? はっは~ん、さては嬉しさのあまり、感極まっちゃいました?」
「うるさいな、そんなんじゃないよ」
目尻をぬぐい、緩みかけた気を引き締める。
僕にはまだ、知らなくてはならないことが山ほどあるんだ。
「さて先輩。感動に水を差すようで申し訳ないのですが……私が依り代を通して話せる時間は決して長くはありません。これからの話をしましょう」
「あぁ……だけどその前にひとつ、教えてくれ」
「はい、なんでしょう?」
正直、聞きたいことはたくさんあった。
レベッカ・レベッカのこと。
突然銃撃してきた、謎の男たちのこと。
映姉さんの残したヒントのこと。
だけど今は何より……この少女のことが知りたかった。
どうして突然死んだのか。
どうして魔法みたいな力を使えるのか。
どうして僕を頼るのか。
それから――ずっと聞かずにいた、彼女の名前も。
そんな疑問を一緒くたにして、僕は問う。端的に。
「お前はいったい、何者なんだ?」
「へ? あー、そういえばまだ、一度も自己紹介したことがありませんでしたね。これは失礼しました」
そして少女は、答えた。
「私、レベッカです。改めて、これからよろしくお願いしますね。先輩」
「――ッ!?」
息を呑んだ。
「い、今、レベッカって言ったか?」
「……? はい、言いましたけど」
「それは『レベッカ・レベッカ』と何か関係があるのか? もしかしてレベッカ・レベッカはお前の知り合いなのか!?」
「ち、ちょっと先輩、落ち着いてください。いったいなにを言ってるんですか?」
「頼む、教えてくれ! レベッカ・レベッカっていうのは、一体何者なんだ!」
クマのストラップを汗ばむほどに握りしめる。
数拍の間が、途方もなく長く感じた。
「変なことを言いますね。レベッカ・レベッカは――」
パンッ!
手の中に、クラッカーが弾けたみたいな衝撃が走る。クマのストラップの左手がもげていた。
「……お、おい大丈夫か?」
沈黙。
「おい、聞こえてるんだろ! 返事を――!」
「い、たたぁ……。なるほど、そういうことですか」
再びストラップから声がして、僕は胸をなでおろす。
「良かった……無事だったんだな」
「無事とはいいがたいですけどね。一つ、やられちゃいましたし」
「一つ?」
「はい。左腕、なくなっちゃいました」
自称後輩――もとい、レベッカは続ける。
「困りましたね。どうやら、先輩にレベッカ・レベッカのことを伝えることはできないみたいです」
「伝えようとしたら……死ぬ、ってことか」
「察しがいいですね、その通りです。魂までやられちゃうのはマズすぎます」
映姉さんの言葉を思い出す。
『レベッカ・レベッカについて語ることは、誰にも許されない』
あれは、こういうことだったのか……?
「しかし、どうしましょう。ノーヒントじゃ絶――分か――――し――」
突如、レベッカの声に雑音が混じり始めた。
ザザッ……ザザッ……と、トンネルの中で聞くラジオみたいな音声が不安をあおる。
「……なぁ、声がよく聞こえない」
「あ――まずい――す。さっき左腕を失った――響で――揺らい――」
「しっかりしてくれ! お前だけが頼りなんだ! このままじゃ、どうすればいいかも分かんないんだよ!」
「二人だけ――暗号みたいな――あれば――ったんですけど――――――――あ、そうだ!」
「なにか思い付いたのか!」
「えぇ! さっすが私、冴えてます!」
「映画ですよ、先輩! 映画!」
「映画……?」
「そうです! えい――の――――すれば――!」
「も、もう少しだけ教えてくれ! 映画をどうすればいいんだ? 映画とレベッカ・レベッカには、何の関係が――」
そこまで叫んで、悟る。ストラップは既に沈黙していた。
「くそっ、肝心なところで……!」
訳の分からないヒントと共に、僕はまた置き去りにされてしまった。
やりきれなくなって、その場にしゃがみこむ。思い出したかのように、疲れが全身に押し寄せた。
「映画か……」
疲労でぼんやりとした頭をひねってみるものの、ぴんと来るものは何もない。
「もともと映画なんて好きでもなんでもなかったからな……当然か」
思い出す。
もともと僕が映画に興味を持ち始めたのは、あの人に――映姉さんに会うためだった。
映姉さんに会いたくて、話したくて、必死に小金を集めて映画館に通い詰めて……そして映画という映画のネタバレをする性格の悪さにドン引きしたんだっけ。
それから少し経って、僕は後輩を自称する少女と出会った。僕に映画の知識があると知るや否や、あいつはキラキラ輝く目で話しかけてきた。同族だと思われたんだと思う。
「映画のうんちくも、随分聞かされたな」
目をつぶれば、得意げに語る二人の姿が脳裏に浮かぶ。
『青年、君はなーんにも観てないんだね。LAMP OF SEQUENCEは2010年に公開され、興行収入が20億ドルを超えた超名作だよ? よーく覚えておくように。ちなみに最後にヒロインが主人公を殺して死ぬんだけど――』
――知りませんよ、そんな映画。っていうかまたネタバレしましたね、割と重めの。
『はっは~ん。さては先輩、フラクタル・パトスをご覧になったことがありませんね? ライオネットが告白したのは、彼が犬だったからなんですよ。この映画は2004年に公開されてアカデミー賞を受賞した超有名作で――』
――なんだよその映画、どういう状況でライオネットは告白したんだよ。部分的な情報だけ寄こすのはやめてくれ。
「ほんと、映画マニアってのは厄介だよな」
口の端に触れる。少し、上がっていた。
映画マニアに知識を披露される。そんな些細な記憶ですら、僕にとっては楽しかった思い出にカウントされるらしい。
二人の話に付き合うのは、正直うんざりしたけれど……だけど彼女たちに出会ってから、僕を取り巻く世界は確かに色を変えたんだと思う。
例えそれが、性格の悪いネタバレ映画マニアでも。
例えそれが、僕の苦手な名探偵でも。
無色の僕を色付けるには、きっと十分過ぎたのだ。
「にしても、なんであの人たちはいちいち公開された年代まで言うんだろうな。歴史の授業じゃあるまい……し……」
クマのストラップを撫でていた指が、止まる。
「……年代?」
それは、ふとした思い付きだった。
脳内に生じたひらめきは、さざ波を立てながら僕の全身を震わせる。
落ち着け、クールになれ。
焦るな、先走るな、ゆっくりと考えろ。
映姉さんと、自称後輩。二人の言葉を思い返す。
そもそも……そもそもだ。
興行収入が20億ドルを超えた映画。
アカデミー賞を受賞した、超有名作。
そんな映画を――僕は本当に知らないのだろうか?
映姉さんと出会ってから、それなりの数の映画を観たつもりだ。
興行収入が20億ドルを超えた映画なんて『タイタニック』レベルだぞ?
アカデミー賞を受賞した超有名作なんて、『羊たちの沈黙』レベルだぞ?
そんな有名映画タイトルを、1つも聞いたことがないなんておかしくないか?
「落ち着け、落ち着け……!」
震える指で、ポケットに入ったメモ帳を取り出す。
自分の知識と、二人から聞いた話し。二つの記憶の糸を、まさぐっていく。
2015年 その弾丸に祈りを込めて――知らない
2010年 LAMP OF SEQUENCE――知らない
2004年 フラクタル・パトス――知らない
1994年 LEON――知っている
1991年 ターミネーター2――知っている
1984年 ターミネーター1――知っている
「後は……」
書き足して、いく。
2022年 フィエラの花に祝福を――知らない
2015年 その弾丸に祈りを込めて――知らない
2010年 LAMP OF SEQUENCE――知らない
2006年 クリーピング・スカイ――知らない
2004年 フラクタル・パトス――知らない
――――――――――――――――――――――――
2002年 ジョンQ――知っている
1994年 LEON――知っている
1991年 ターミネーター2――知っている
1984年 ターミネーター1――知っている
1980年 シャイニング――知っている
「やっぱりだ……」
2004年と2002年の間に線を引く。
二人との会話に出てきた映画で、僕が知っている作品と知らない作品。
それらが公開された年代には、明らかな境界が存在していた。
「もし、この仮説が正しいとしたら……!」
だけど、これだけではまだピースが足りない。
あと一つ、明確な証拠が必要だった。
探る。
頭の中を、記憶の渦中を。
必死に、必死で、探して、探して――
「……あ」
思い出したのは、つい先日の出来事。
映姉さんと交わした、他愛のない会話。
『それにしても驚いちゃった。まさか君がターミネーターも観たことなかったとは』
『観てますよターミネーターくらい。ちゃんと4まで』
『なに言ってるの』
『ターミネーターは2までしかないでしょ』
あれがもし、映画マニアの過激な意見じゃなかったとしたら?
言葉の綾ではなかったとしたら?
本当に、ターミネーターが2までしか公開されていなかったとしたら?
「ターミネータ3の公開年は……」
震えるペン先で、書き足した。
2022年 フィエラの花に祝福を――知らない
2015年 その弾丸に祈りを込めて――知らない
2010年 LAMP OF SEQUENCE――知らない
2006年 クリーピング・スカイ――知らない
2004年 フラクタル・パトス――知らない
2003年 ターミネーター3――存在しない
2002年 ジョンQ――知っている
1994年 LEON――知っている
1991年 ターミネーター2――知っている
1984年 ターミネーター1――知っている
1980年 シャイニング――知っている
「見つ、けた……?」
あり得ないと思う。
あまりにも突飛すぎる発想だと思う。
理由も理屈も分からない。
だけど二人が僕に残した記憶が、確かに僕に告げている。
興行収入が20億ドルを超えた映画も、アカデミー賞を受賞した超有名作も、僕が知らないのは当然だったのだ。
なぜならここは――
「ここは、僕がいた世界じゃない」
2003年から分岐し、そして――レベッカ・レベッカが存在する、並行世界だ。
※
――なぁ、誰か教えてくれ。いったい、いつからなんだ? 僕を取り巻く世界が変わったのは。




