探偵のオペラ【16】
退屈だと言わんばかりに熊岸警部から離れた砂橋がまた舞台上へと近づく。
「砂橋」
「弾正、この首吊りシステムってどうなってんの?」
それはさすがに俺にも分からない。俺が大学生の頃にやっていた演劇はこのような装置を使う大がかりな劇ではなかったし、首吊りの演出などできなかった。
「それはね、滑車が舞台裏にあって、スイッチを押して作動させてるんだよ」
声に釣られて振り返るとそこにはにこりと優しそうに微笑む猫背の男がいた。裕福そうなジャケットを身に着けた彼は劇中では主人公のエマに心ない言葉を浴びせた幼馴染のクーレル役だった。
劇の最中にひどい言葉をエマに投げかける彼は傲慢、自己中心的な男そのものだったが、今話しかけてきた声にはそんな印象はなかった。むしろ、逆の印象だ。
「じゃあ、上に誰かいてロープを引っ張ってるわけじゃないんだね?」
「ふふ、面白いことを言うね。もしそうだったら、人一人を吊り上げる腕力がないと無理だろうねぇ」
間延びした声で笑う彼は舞台上では裸眼だったはずだが、今は完全な円に近い縁を持つ丸眼鏡をかけている。
「劇とか見に来ることないから全然知らないや。それじゃあ、誰かが劇中に天井に上がってたら怪しいってことだよね?」
砂橋の言葉に彼は首を横に振った。
「そうでもないよ。劇の途中で天井の足場から舞台上に首吊りロープを垂らす役の人間がいるからね」
「ああ、それじゃあ、その人が上に登ってても怪しいとか思わないね。聞き忘れてたけど、お兄さんは?僕は砂橋」
「僕の名前は成田紅葉だよ。もみじって書いてこうようって読むんだ。二人は風斗くんの知り合いだよね?」
「俺は弾正だ。風斗は大学時代の演劇サークルの後輩で、今回呼ばれたんだ」
俺が名乗ると紅葉は「ああ、そうか。君が弾正くんか」と手を打った。
「それなら僕らは同期だね。実は同じ大学に通ってたんだよ」
「え、そうなの?」
それは初耳だ。演劇サークルの関係者であったら俺が忘れているはずがない。
「大学時代はアカペラ部にいたんだ。だから、僕のことを知ってなくてもおかしくないよ。でもアカペラを劇とか他のことに使えないかって考えて動画サイトで色々奮闘してるのを出してたりしてた時にSNSで史也さんに一緒に演劇をやらないかと誘われたんだ」
「へぇ。それはすごいね」
だから僕はみんなほど演技が上手くないんだと少し照れくさそうに頬を人差し指で掻く彼に私は目を丸くした。少なくとも、舞台上で彼を見た時、俺は「この人物は本当に自己中心的でふてぶてしい奴だ」と思ったのだ。実際の彼は柔和で親しみやすい印象だ。
「ふーん。僕には演技とか分からなかったけど、紅葉の演技、全然違和感なかったよ?」
同じ年と知るや否や呼び捨てにし始めた砂橋に顔を歪めることもなく、紅葉は照れくさそうに微笑んだ。舞台上の世界に違和感なく溶け込めているという言葉は誉め言葉になるだろう。俺は大学時代一度も舞台に立つことはなかったが、練習の際、誰かの代役で演技をしたことはある。違和感が少しでもあると劇上の言葉と感情のキャッチボールがちぐはぐになる。あの感じはとてつもなく羞恥心で溢れていた。
「そう言ってもらえてよかったよ。ところで二人はあのロープを気にしてるの?」
「うん。あれって命綱って言ってたよね?」
「ああ、そうだよ。小さい輪っかの方が首吊り用の輪っかで、大きい輪っかの方が腋の下に通して体を支える輪っかなんだ。さっきのことでロープは切られてるけどね……」
大学の同期とこんなところで出会うというささやかな奇跡で忘れていたが、ロープの説明をして先ほどの出来事を思い出したらしい紅葉が思わずロープから視線を外して、たいしてずれてもいない眼鏡の位置を人差し指と中指で元に戻す。
「じゃあ、本当なら腋に通したロープが支えになって首は絞まらないようになってるんだ?」
「そうそう。しかも命綱を付けてるなんてバレないように工夫してるんだ。太いロープが一本だけあると観客に思わせるためにどちらの輪っかのロープも編み込んであるんだ。それを首吊りの輪っかのあるあたりで二本に分けてる」
「ああ、なるほどね」
匠の体がロープに引っ張られて天井にあがっていく前、数秒だけ会場全体が暗闇に包まれた。その際に命綱である大きな輪っかを匠の腋の下に通したのだろう。
「暗闇になった時に匠さんは自分で大きな輪っかに足をいれて、それを腋の下まで持っていく。それが終わると新さんが匠さんの首に首吊り用の輪っかをかける。照明をつけて首吊りシーンへと移る。そういう段取りだったんだ」
紅葉はそこまで言うと一度後ろを振り返って、パイプ椅子に座って俯いたままとなっている新を見た。
「状況的には新さんが一番怪しいんだろうけど、僕は新さんは何もやってないと思うんだ」
「根拠は?」
「根拠はないかな……。ただ、あの人にそんな度胸はないと思うから」
紅葉の言葉に砂橋はきょとんとしてから俺の肩口あたりへと視線を投げかけた。
「それじゃあ、紅葉。熊岸警部も聞きたいみたいだし、劇中でロープを天井の通り道から垂らした人を教えてもらってもいい?」
いつの間にか俺の後ろにいたらしい熊岸警部が予想以上に近くて一瞬心臓が止まるかと思った。この人が悪い人でないことはとっくの昔に分かっていることだが、この圧が強い顔面が近いとやはり心臓が縮んでしまう。




