探偵のオペラ【1】
『今日、夕飯食べにいってもいい?』
電話の向こうで砂橋がそう言うので、俺はそれにため息を返した。ちょうど自宅の書斎から出たところでかかってきた砂橋からの電話の内容は予想した通りだ。
「今日は無理だ」
『なに、彼女でもできたの?君の家に夕飯を食べに行く人間は僕以外にはいないと思うんだけど?』
「外食するという考えはないのか」
確かに俺は滅多に家に人を呼ばない。砂橋は呼んだから来るというわけではなく、呼ばなくても来るという部類だが。
『今日は締め切り前で家にいるはずだから外食はないでしょ?』
俺が砂橋の誘い、というよりも突撃を断ることができないのは、砂橋が俺のスケジュールを把握しているからだろう。
しかし、全てのスケジュールを把握しているわけではないだろう。今日は二日前ほどに連絡をしてきた後輩と会う予定なのだ。夕飯を共にすることはないが、会う時間が午後五時からなので砂橋に夕飯を食わせることはできないだろう。
「外食はないが人と会う予定はある」
『えっ』
「サークルの後輩が今劇団に所属していて、そのリハーサルを見てくれないかと誘われたんだ」
電話の向こうで不服そうな息が漏れるのが分かった。
砂橋とは大学時代から知り合ったが、サークルは別のものに入っていた。そして、砂橋は俺の所属していた演劇サークルをあまりよく思っていない。毛嫌いしていると言ってもいい。
だからこそサークルの後輩からの誘いは砂橋には知らせていなかったのだ。演劇が嫌いというわけではないが、大学時代に起こったごたごたに砂橋を巻き込んでしまってから俺が所属している演劇サークルを嫌ったのだ。あの一件では珍しく俺が砂橋に迷惑をかけてしまった。今でも思い出しては「あの時はすまなかった」と謝って「もういい加減に謝るのやめて」と苦虫を噛み潰したような表情で言われるのだ。
「誘ってきた後輩はあの件のことは知らないはずだ」
『それなら別にいいけど』
「リハーサルの後でいいのなら夕飯を食べに来るか?」
『……行くよ。今日はもうグラタンの気分なんだ』
今晩のメニューはグラタンに決定してしまった。
『ところでそのリハーサルってどこでやるの?』
「下町商店街の隣の通りにある八ツ寺スタジオという小さな場所らしい。オーナーがよく小さな劇団に場所を提供していると聞いたことがある」
砂橋が電話の向こうで「そんなんあったっけぇ」と呟くと同時にタイピング音が聞こえてきた。八ツ寺スタジオの場所を調べているのだろう。
『今さ、仕事終わって外出てるから迎えに来てくれるかなぁって思ってたんだけど』
「どこにいるんだ?」
『下町商店街』
コートを羽織って、通話を切らないまま家から出て鍵をかける。砂橋が俺の目的地にいるのならば、早々に合流してしまえばいいだろう。一人だけ連れがいたとしてとやかく言う後輩でもなかったはずだ。
「なら、商店街で合流しよう」
『リハーサル見るの付き合えってこと~?別にいいけどさぁ……』
「車でずっと待ってるよりはましだと思うが?」
『考えておくよ』
砂橋はそう言うと電話を切ってしまった。
下町商店街のどこで待ち合わせをするかも決めないままだが、砂橋であれば最近できたタピオカティーの出店の前にあるベンチでタピオカを楽しみながら待っていることだろう。
マンションのエレベーターに乗り込み、地下駐車場へと入ると俺はエンジンをかけた。




