姫を守れと言われた日、僕は“許されない恋”を知った
◇15歳の夏
湖から吹く風が、薄いカーテンを揺らした。
僕はバルコニーの手すりに手を置き、遠くの水面を眺めていた。
あの日の記憶は、いつもこういう穏やかな昼下がりに戻ってくる。
――11年前。
シン様が姿を消した朝のこと。
「シュリ? こんなところにいたのね」
振り返ると、陽を受けて輝く金の髪と、まっすぐな青い瞳があった。
ユウ様だ。
十五歳になった今では、幼い頃よりぐっと大人びた。
それでも僕を呼ぶ声だけは、昔のまま温かい。
「また考え事をしてたでしょう?」
ユウ様は小さく微笑んだ。
その笑みを見るたび、胸の奥が痛くなる。
「・・・シン様のことを思い出していました」
まつ毛がかすかに震える。
「・・・私も、忘れてないわ。あの日のこと」
風がふわりと二人の間を抜けた。
触れようと思えば触れられる距離。
でも――触れてしまえば、もう戻れないことをお互い知っている。
「ユウ様。少し・・・昔話をしてもよろしいですか?」
「ええ。聞かせて」
僕は静かに息を吸い込んだ。
11年前、ユウ様が初めて泣いた、あの朝のことを語るために。
◇ 11年前の朝
冷たい風の吹く、いつもより静かな朝だった。
「シンがいないの! シュリ、一緒に探して!」
ユウ様は泣きながら、僕の服を握りしめた。
シン様はユウ様より一つ年上の、
いつも僕たちの前を歩く“頼れる兄”だった。
ユウ様の青い瞳からは涙がこぼれ落ち、
金色の髪はぐしゃぐしゃで、胸が痛くなるほど必死だった。
「だいじょうぶ。僕が探します。だから・・・泣かないで」
そう言いながら、手は震えていた。
4歳の僕には、何が起きているのか分からなかった。
ただ――ユウ様が泣いている。
その涙が不安で仕方ない。
その事だけが胸の奥で膨らんでいた。
僕ら二人は、朝の城を必死に駆け回った。
いつも三人で遊んでいた廊下も、
広場も、
台所の裏庭も、
温かい陽の当たる窓辺も。
シン様の黒い瞳が、どこにも見つからなかった。
「・・・どうして? どうして、シンはいないの?」
ユウ様の声は途中からほとんど掠れていた。
けれど僕には
「どうしよう、どうしたらいい」
という自分の胸の音の方がよく聞こえていた。
その時、ようやく気づいたのだ。
僕はユウ様の涙が、世界で一番苦しい。
◇
僕らは泣きながら、彼女の母シリ様の元へ走り込んだ。
「シンがいないの!!」
ユウ様の叫びに、シリ様は息を呑み、僕たちの前にしゃがみこんでくれた。
「シンは・・・遠くへ行きました」
その声は震えていた。
「どうして? どうして行かなくちゃいけないの?」
ユウ様の問いに、シリ様は苦しそうに目を閉じた。
「この城が、もうすぐ攻撃を受けるからです。
あなたたちは姫なので守られますが・・・シンは男の子。
だから――逃がしました」
その瞬間、ユウ様の小さな肩が震えた。
あの日の空気は今も忘れない。
暖炉がついているはずなのに、
部屋全体が冷たい井戸の中みたいだった。
シリ様は優しい手で僕らの頭を抱え込み、
「生きていれば、必ず会えます」と震える声で言った。
シリ様の言葉を聞いたあと、
僕はユウ様の手を握りながら、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
その時、はっきり悟ってしまった。
――もうシン様には会えない。
優しいシン様。
乳母子の僕にも一度も偉ぶらず、
まるで本物の兄のように接してくれた人。
ユウ様が泣けば、いつだって黒い瞳を輝かせてなだめていた。
怖い夢を見れば一晩中そばにいてくれた。
僕が転べば一緒に土だらけになって笑ってくれた。
小さなころから、三人で一緒に過ごしてきた。
これからもずっと、同じように――何の疑いもなく、そう思っていた。
なのに。
幸せは、あっけなく崩れた。
音もなく、朝の光の中で跡形もなく消えた。
その現実を、四歳の僕は言葉で理解できなかった。
◇
その日の昼過ぎ、僕はユウ様の父である領主――グユウ様の執務室に呼ばれた。
普段、足を踏み入れることのない場所。
扉の前に立っただけで、心臓が喉まで上がってきた。
隣にいる母・ヨシノも、いつになく緊張している。
僕の母はユウ様の乳母だ。
そして僕は――乳母の子として生まれた瞬間から、
“シン様に仕える”運命が決められていた。
けれど、そのシン様はいない。
僕は・・・これからどうなるのだろう。
不安が胸の奥で渦巻いた。
重い扉が開き、広い部屋の奥でグユウ様が静かに頷いた。
僕が震えて立ちすくむと、
グユウ様はわざわざ僕の目の前まで歩み寄り、
膝をついて目線を合わせてくれた。
それだけで、胸がぎゅっと締め付けられた。
「シュリ」
名前を呼ばれた瞬間、背筋が固くなった。
「今日からお前は――ユウの乳母子になってくれ」
その言葉に、近くにいたシリ様も、母も息を呑んだ。
「グユウさん・・・シュリは、男の子よ?」
シリ様がためらいながら言う。
「わかっている」
グユウ様は、迷いなく答えた。
そして僕の頭を、優しく撫でた。
「ユウは特別な子だ。光が強い子は、影も同じだけ背負う。
その時――男の乳母子がそばにいれば、きっと支えになる」
意味はよくわからなかった。
ただ、その響きだけが胸に深く刻まれた。
領主からの直々の命。
四歳の僕に拒む権利などない。
それでも、震える声で返事をした。
「・・・はい」
こうして、僕はシン様に仕える立場から、ユウ様の乳母子へと役目を変えた。
人生が変わった瞬間だった。
◇
ユウ様の乳母子に任命されてから、
僕は――彼女との距離にずっと悩んでいた。
明るく人懐っこいシン様とは違い、
ユウ様は癇癪持ちで、強い気性を隠さなかった。
時々、鋭い青い瞳で僕をじっと見つめる。
その視線に射抜かれると、胸がすくみ、言いたい言葉が喉の奥に沈んでしまう。
まして、シン様がいなくなった後のユウ様は、
心がぐらついていて、不安定だった。
僕は、何を言っていいのかわからなかった。
ただ、彼女のそばに立つしかできなかった。
無言で俯くユウ様。
隣に立つだけの僕。
夕方になると、
ユウ様は決まってシン様を思い出し、声を殺して涙を落とした。
その震える背中は、見ているだけで胸が痛かった。
僕にできたのは、
ただそっと背中に触れ、温もりを伝えることだけ。
気の利いた慰めも言えない。
ただ――
彼女がひとりで泣かないように、隣にいることだけは、やめなかった。
それが当時の僕にできる、唯一の“支え”だった。
◇
ユウ様の乳母子になって、半月ほど経った頃のことだった。
その日の朝から、城全体がざわついていた。
侍女も兵も皆、顔を強張らせて走り回っている。
――何かあった。
幼い僕にも、それだけはわかった。
けれど誰も僕のような子どもに事情を教えてはくれない。
ただ、冷たい風だけが廊下を抜けていった。
そんな中で、ユウ様がふいに言った。
「・・・西の部屋に行く」
止めても無駄だと知っていた。
だから、僕は慌ててその後を追った。
ふたりで椅子を引きずり、
よじ登って、背伸びをして――窓の外を見た瞬間、息が止まった。
遠くにあるはずの館が、真っ黒な煙と炎に包まれていた。
ユウ様の祖父母が暮らしていた館だ。
赤い火の粉が空に舞い、
その周囲を、黄色の旗を掲げた兵たちが取り囲んでいる。
幼い僕にも理解できた。
あの館が燃やされたなら、次はこの城が狙われる。
「・・・おじじ様と、おばば様は・・・?」
ユウ様の声は、細く震えていた。
胸の奥がぎゅっと痛くなった。
何もわからないのに、
何も守れないのに、それでも、何かしなくてはと思った。
「ユウ様・・・」
気づけば、僕はユウ様を抱きしめていた。
何が“大丈夫”なのかなんてわからない。
けれど、言わなければいけない気がした。
「・・・大丈夫です。僕がいます」
その瞬間、ユウ様が顔を上げた。
青い瞳が揺れて、涙がこぼれ落ちる。
「シュリ・・・どうしたらいいの・・・?」
抱きしめた腕の中で、
ユウ様が小さく僕の名を呼んだ。
それは、これまで一度も聞いたことのない声音だった。
強くて、負けん気ばかりで、
誰にも弱みを見せたことのないユウ様が―ー
僕の服を握りしめて震えていた。
その小さな指先の震えが、
はじめて“僕を必要としている”と教えてくれた。
その瞬間、ユウ様は僕に心を預けてくれた。
あの時、初めてユウ様が僕のことを『乳母子』と認めてくれた。
◇
それから三日ほど経った頃だった。
朝食のあと、母が不自然なほど明るい声で言った。
「ユウ様・・・今日は、お出かけしましょう」
――お出かけ?
僕もユウ様も同時に顔を見合わせた。
物心ついた時から、城の外に出たことなど一度もない。
「ヨシノ・・・外の世界に行けるの?」
ユウ様は期待するように、けれど不安そうに尋ねた。
母は一瞬だけ、苦しそうに視線を逸らした。
そして、小さく頷いた。
「・・・ええ。外へ行きましょう」
なぜか母の声は震えていた。
事情もわからないまま、僕たちは馬車に乗せられた。
馬車は静かに動き出し、城の裏手の森の中を進む。
やがて、重い裏門の前で止まった。
「降りましょう」
母の声が、かすかに掠れている。
僕は慌てて飛び降り、そして――息を呑んだ。
馬車の後ろに、兵がいた。
数人ではない。
ずらりと、まるで盾の壁のように並んでいる。
ウイ様は小さな体を強張らせ、言葉ひとつ発しなかった。
「・・・母さん?」
僕は震える声で母を見上げた。
母は唇を噛み、肩を震わせていた。
ーー何か、とても悪いことが起きている。
ユウ様が僕の手をぎゅっと握った。
その小さな手は冷たく、汗で湿っている。
◇
重い裏門が軋む音をたてて開いた瞬間、
冷たい風がひゅう、と頬を撫でた。
光の中に――
領主グユウ様と、妃シリ様が立っていた。
ふたりとも、いつもの柔らかい表情ではない。
覚悟を固めた者だけが宿す、静かな強さがあった。
「ユウ、ウイ、レイ・・・こちらへ」
呼ばれた瞬間、ユウ様は胸の奥の不安に突き動かされるように走り出した。
その後を、ウイ様と僕も慌てて追いかける。
ユウ様は、ぐっと顎を上げて父を見上げた。
震えているのに、泣くまいとするその姿は、
幼いながら姫の品格を持っていた。
「・・・父上?」
その小さな呼びかけに、
グユウ様の厳しい表情がわずかにほどける。
膝をつき、両腕を広げると、ユウ様とウイ様を抱き寄せた。
「ここで・・・お別れだ」
ほんの一瞬、ユウ様の青い瞳から色が消えた。
「・・・どう、して」
息が震え、声がかすれる。
それでも、決して取り乱さない。
ユウ様は、そういう子だ。
「父は争いに負けた。この城は・・・間もなく攻め落とされる」
グユウ様は、子供を見るのではなく、
ひとりの“家の後継”を見るような真剣な眼差しだった。
「父はここを離れられない。
だが・・・お前たちは必ず、生き延びねばならぬ」
その言葉で堪えきれなくなったのはウイ様だった。
小さな肩を揺らし、声をあげて泣き出す。
ユウ様は唇を強く噛み、震えながら涙をこらえていた。
胸が痛いほど苦しくて――僕はただ、ユウ様の袖をぎゅっと握りしめた。
「ユウ、母と妹たちを頼む」
その言葉に、ユウ様の喉が小さく震える。
ほんの一拍の沈黙があって――
「・・・はい」
掠れた声だったけれど、その返事は、誰より強かった。
その後ろで、ウイ様が泣き叫ぶ。
「いや・・・父上も来て・・・!」
家臣のオリバーが優しく包みこむように抱きあげ、
泣き声を振り切るように門の外へ連れていく。
「頼む」
グユウ様が母に視線を送る。
母は唇を噛み、深くうなずく。
「ユウ様、参りましょう」
母が声をかけるが、ユウ様は首を激しく振った。
「嫌!!父上のそばにいるの!」
ユウ様はグユウ様の袖から手を離さない。
その小さな手には、必死の願いが込められていた。
僕は、その横顔を見て、胸の奥がぐっと熱くなる。
ーーシン様なら、この時、何と言っただろう。
ユウ様より一歳上の、優しい兄。
僕やユウ様にとって、太陽のような存在だった人。
泣きたい時は隣にいてくれた。
怖い夢の日は背中を擦ってくれた。
僕が転んだら一緒に笑ってくれた。
もう、シン様はいない。
なら――
僕が、その役目になるしかない。
ユウ様が泣いても、僕が支える。
倒れれば、僕が立たせる。
怖がれば、僕が手を握る。
胸の奥で、言葉にならない誓いが静かに形を成した。
僕は、ユウ様の肩にそっと手を置いた。
「ユウ様・・・参りましょう」
強い声ではなかった。
ただの、震える僕の声。
でもユウ様は、はっと僕を見た。
青い瞳が揺れ、
その中に、深い迷いと、痛みと、かすかな信頼が映っていた。
「・・・シュリ」
小さな声が、僕の名前を呼ぶ。
次の瞬間、グユウ様の静かな声が重なる。
「シュリ。ユウを頼む」
その言葉は、幼い僕には重すぎるほどだった。
けれど、迷いはなかった。
「はい」
声が震えても、返事だけは強く言えた。
僕はユウ様の手を握った。
その手は冷たく、細く、それでも――握り返してくれた。
「父上・・・!」
ユウ様が最後に振り返ると、グユウ様は優しく微笑んでうなずいた。
その表情を見た瞬間、ユウ様の足が出口へ向かって動いた。
一歩、門を出た瞬間。
ユウ様は、張りつめていたものが崩れるように、
僕の胸に飛び込んできた。
「・・・っ・・・」
声にならない泣き声が、衣を濡らした。
僕は両腕で抱きしめ、倒れないように、離れないように支えた。
何も言えない。
慰める言葉も持っていなかった。
ただ、抱きしめる腕だけは決して緩めなかった。
ーー守る。
その日、僕は生涯の中心になる“誓い”を
まだ幼い胸の奥に静かに刻んだ。
◇
その記憶は、今も胸の奥で熱を帯び続けている。
「・・・そんな昔のことまで覚えてるのね」
ユウ様は、僕の肩にふわりと視線を落とした。
どこか遠くを見るような、少し大人びた、繊細な瞳だった。
「もちろんです。僕の生き方が決まった日ですから」
そう言うと、ユウ様はほんの少し目を見開き――
そして、頬を赤く染めた。
「・・・シュリはいつも私のそばにいてくれた」
口調は強いのに、声が震えている。
成長と共に僕は気がついた。
姫に男の乳母子。
それは異例のことだった。
けれど、グユウ様の予言通り、ユウ様には様々な試練が降り注いだ。
グユウ様の判断は間違ってなかった。
けれど、グユウ様の思惑と違うことが1点だけある。
その想いは、あの日の裏門で、生まれてしまったのだと思う。
それは、僕はユウ様を好いてしまったことだ。
十四歳の冬に初めて口づけを交わした。
ユウ様は・・・どう思っているのだろうか。
それを知りたくても、聞けない。
なぜなら、姫と乳母子。
決して、許される関係ではないからだ。
十五歳のユウ様は、
昔よりずっと綺麗で、ずっと立派で、
それでも時々、四歳のあの日のように揺れる。
それを見るたびに思う。
僕は、誰よりもこの人の涙に弱い。
だからこそ、誰よりも強くなりたい。
夕陽が湖の面を照らし、金の光が二人の影を長く伸ばした。
「あの日からずっと・・・僕は、ユウ様の味方です」
ユウ様は胸の奥で小さく何かを噛みしめるように、
ゆっくりと頷いた。
「・・・知ってるわ、シュリ」
その声は――心の底から、嬉しそうだった。
「シュリ、私のそばにいてくれる?」
「ユウ様が望む限り、いつまでも」
許されぬ関係でも、心だけは並んで歩ける。
二人の手は触れなかった。
けれど――触れなくてもわかる。
この先の未来を、もう離さない。
短編を読んでくださり、本当にありがとうございます。
今回のエピソードは、
ユウとシュリの“原点”となる場面――
二人の運命が静かに動き始めた日の物語でした。
この短編から続く物語は、
親世代から子世代へ受け継がれる
《血と愛と宿命》を描く『秘密を抱えた政略結婚』シリーズの一部です。
そしてーー
ユウ×シュリの恋の続きは、ここから本格的に始まります。
▼シリーズ本編(ユウ×シュリの続きはこちら)
『秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―』
https://book1.adouzi.eu.org/n9067la/
<連載中・第三部:二人の恋が動き出す>
⸻
▼完結作品(時間軸順・読むと世界が深まります)
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
https://book1.adouzi.eu.org/n2799jo/
※“裏門の別れ”はここで描かれています
『秘密を抱えた政略結婚2 〜娘を守るために、仕方なく妾持ちの領主に嫁ぎました〜』
https://book1.adouzi.eu.org/n0514kj/
※ユウとシュリの恋の芽生えがここから始まります
改めて、読んで頂きありがとうございました。




