64 土蜘蛛とライバル ③
「い、いきし? それが彼女の名前なのか?」
「そうだ。なんだよお前、名前も知らなかったのかよ!」
土蜘蛛は鼻で笑ったが、すぐにハッとした顔になって自分の口を押さえた。彼女から自分の名前を教えるなと言われていたのに教えてしまったことに気がついたのだ。
そんなことを知らない誠は笑みを浮かべる。
「そうか。そんな名前なのか。それにしても、いきし、って女性にしては変な名前だな」
「忘れろ」
「え?」
「そんな名前じゃねえ! 忘れろ! いいか? いきしは俺の女になるんだ! 大体、お前みたいな男にあいつがひっかかるわけがねぇだろ! 諦めろ! いいな!?」
土蜘蛛は誠の胸ぐらを掴んで叫んだ。
(いきしって名前を忘れろって言ってるくせに、名前を言ってどうするのよ)
緊張感が持てず小鳥が呆れていると、誠は土蜘蛛の手を振り払って叫ぶ。
「なんでだよ! なんでなんだよ! せっかく好きな人ができてやっと外に出られたのに忘れろだなんて酷すぎる!」
(え? な、なにあれ!)
小鳥が驚いたのは、突然、誠の周りに黒い靄がかかり始めたからだった。威勢の良かった子鬼たちも「ピーッ」と鳴いて、小鳥にしがみつく。
(あの黒い靄は美鈴の彼氏の時に見たものと同じだ)
小鳥が気づくくらいのものだから、土蜘蛛が気づかないはずはない。
「おーおー、もしかして俺に殺意を覚えてんのか? 馬鹿な野郎だぜ」
土蜘蛛はそう言うと、なぜか彼の本来の姿に戻った。黒と黄色の大きな胴体に猿に似たような顔がついている。胴体は小鳥以上に大きく、遠くから離れて見ている小鳥でも恐怖を覚えるほどだった。
「な、な、な、どう、なんで、こんな、化け物ばっかりいるんだよ!」
「そうだ。俺は化け物だ。だから、気に食わない人間を食うことができる。お前は邪魔な野郎だ。これ以上目障りなことをするって言うんなら食ってやる」
「う……っ……、こ、これは夢だ。幻覚だ! 彼女のせいだ! 彼女が僕を苦しめるからっ! 許さない、許さないっ!」
現実逃避を始めた誠の周りの黒い靄がどんどん濃くなっていく。
(これはまずいんじゃない!?)
自分に何かできるわけでもないが、このまま誠が鬼化するのを黙って見ているわけにもいかない。小鳥は勢い良く椅子から立ち上がった。
すると、土蜘蛛が窓の向こうにいる小鳥の存在に気がついた。
「おい、小鳥! よく見ておけ! で、いきしに俺様がどれだけカッコ良かったか伝えるんだぞ!」
「ええ?」
困惑の声を上げた小鳥のことなど気にする様子もなく、土蜘蛛は人間の姿に戻る。
(人間になるんなら、なんでわざわざ蜘蛛になったの? 脅すため?)
「ひいっ! な、なんなんだよ!」
「お前は夢を見てるんだ。悪い夢をな」
尻餅をついて道路に座り込んでいる誠を見下ろし、土蜘蛛は続ける。
「俺がお前を鬼にならないようにしてやる」
そう言うと、土蜘蛛は誠を無理矢理立ち上がらせ、思い切り誠の頬を打ったのだった。




