プロローグ
「君はここで隠れていた世界だろうがっ!」
姫様の怒号に僕は驚いた。痛烈だった。僕の視界は一度暗転した。それは一瞬だったが、極めて永久的だった。そして半永久的に、僕を閉じ込めうるものだった。姫様は雨に濡れていた。黒く汚れて、濁っていて、氷のような雨だった。いや、もっと冷たかった。どこまでも、どこまでも、僕を遠くへ行かせる雨だった。その雨は姫様の怒号に揺れ、震え、一瞬凝固したのち、何事もなかったかのように、また僕を濡らし続けたが、そんなことは姫様にとってはなんら、関係のないことだった。雨は姫様の長く艶がある美しい髪を濡らし、外灯の光を反射して煌めかせ、雨音は姫様の声を、どういう原理か、拡声させていた。ここは公園だった。僕らは赤い華の公園と便宜上呼んでいる。しかしこの雨の降りしきる公園には名前などない。ここはどこでもない公園。そしてどこでもあり得る公園だった。姫様や、僕らにとっては、あらゆるつながりであったり、宇宙的な際限のない広がりを感じうることの出来る、言わば強力な場所だ。
姉の枕木フミカに言わせれば、歓楽領。
世界はここで縁取られる。
区切られる。
境界がある。
家のようでいて、そうでもなくて、もっと確信に満ちた場所とか、空間。
そういうのって、すごく大事で、必要で、不思議なことだと僕は思う。
姫様の怒号はそんな空間を揺らし、破壊し得る、迫力を持っていた。
怒号の矛先は僕じゃない。
この場で僕はどこまでも傍観者に過ぎなかった。傍観者は僕だけじゃない。兄のジンロウも、姉のフミカも、僕の親友のキティ・ローリングも、泥で汚れた疋田センリも、同様に傍観者だった。僕らは途方に暮れた顔をしていると思う。そして険しい顔をしていたと思う。雨は僕らの顔に立つ皺に入り込み流れて地面に落ちていく。僕らは声を出せない。耳は姫様の声をじっと待っている。僕らは姫様の声を待つように訓練されている。そして姫様の声に犬のように動く。ある場合では犬よりも素早く、利口に。けれど時として、そのように動けるか不安になるときがある。心配になるときがある。
殺せと言われて、殺し損なう危険を考えるときがある。
それが今だった。僕は息を呑む。堕ち続ける雨粒。僕は息を呑む。喉はカラカラに乾いている。嫌な汗が肌から噴き出し体中に張り付いている。
雨と一緒に。
雨は僕の体を綺麗にしようだなんて、嘘でも、思っていないようだ。
僕の視線の先には少年がいた。
少年が立っていた。
故郷を懐かしむ天使みたいに、雨雲に一切の隙間なく隠された空を見上げていた。そこに夢を見ているような、夢を諦めたような、そんな顔をしていた。白く透き通った、美しい顔だった。僕は夢を見ているような気になる。しかしこれは紛れもない現実だったし、雨は冷たかったし、僕は紛れもなく彼のことを深く、愛してしまっている。
僕の胸は苦しい。この苦しさは急に降り始めた雨のせいじゃない。僕は苦しくて、彼の前で格好付けることも出来ない。僕はどこまでも正直に、また素直に、純粋に、彼を健気にも見つめ続けることしか出来ない。この冷たい雨の中、彼は無謀にも翼を広げてどこかに旅立とうとしている。僕はそれを引き留めることなんて出来やしない。僕は無力さを知る。痛いくらいに知る。姫様の怒号だけが、彼を引き留め得る、唯一のヨスガのようなものである気がしている。僕はこれまでにない無力さを知る。
僕は今にも泣き出しそうになっていた。
「今ではもう、誰も星座なんて見上げやしない、」と、彼は歌うように言う。
僕にはそれが歴史の大いなる嘆きに聞こえた。
まさにそれは、その通りなんだけど……、「もうやめよう、」と彼は続ける。「もう泣くことはないように」




