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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第二章  転変
32/36

第10話 「Day of the dead⑩」

非常に残虐な表現がありますので、苦手な方はご注意を。







 




 小さな嗚咽おえつが、奇妙な程に静まり返った音楽室の大気を微弱に震わせた。

 止めどなく滴り落ちる涙が、音もなくリノリウムの床を濡らす。

 煌々(こうこう)と輝く電灯の下で、ふくよかな顔立ちを悲痛に歪めた一人の男子生徒が、その丸っこい体躯を小刻みに震わせながら頭を抱えてうずくまっていた。


 東京都立光台高等学校の夏制服である、ネクタイ付きの半袖白ワイシャツとグレーのスラックスに身を包む男子高校生――瀬戸健太せとけんたの心は、完膚なきまでにズタズタに引き裂かれていた。

 痛みを伴った激しい動悸どうきが、健太の呼吸を著しく乱れさせていた。

 耳鳴りと吐き気。その上、肌を不快に舐める脂汗が全身から噴き出ていた。

 また、両の瞳の上に掛かっている黒縁眼鏡のレンズ越しに映る世界は全てが涙のせいでにじみ、網膜を通して脳が認識する酷く曖昧で不確かな現実感が、健太の思考に記憶の逆再生を促した。



 いつも通り登校し、いつも通りのつまらない授業を受けていると、銃で武装したテロリスト達が突如学校を襲い、健太を含めた沢山の生徒や教員らを人質に取って立てこもり事件を起こしたこと。

 そして、当該事件を認知し駆けつけてきた大勢の警官隊が学校を包囲する中、健太が在籍する二年E組の担任教師がテロリストによって無慈悲に撃ち殺され、更にその遺体を犯人らが窓から放り投げたこと。

 その後、犯人グループの一味が健太と同じクラスの美しい容姿を誇る女子生徒――柏木菜月かしわぎなつきを音楽室へと連れ去ったこと。


 これらの出来事だけでもトラウマとなる程の衝撃であったが、しかしそんなものはほんの序の口でしかない事を健太はすぐに思い知る羽目はめとなった。

 テロリストの一人でありながら、いきなり仲間を裏切って殺した謎めいた長身の男が、銃で脅して人質を教室から追い出したのである。

 それからはまさに怒濤どとうの展開であった。

 逃げた生徒らが殺到する廊下にて巻き起こる銃撃戦。耳を覆いたくなる程の絶叫・悲鳴・怒号、そして響き渡る発砲音と構造物の破壊音。

 そんな狂乱の状況下で、たった一人教室に居残っていた健太は機転を利かせて犯人の死体から銃と弾薬を奪い、ある目的を達成する為に決死の覚悟で音楽室へ向かうのだった。


 ある目的……それは、学年のアイドルであり男女共に絶大の人気を誇る柏木菜月ヒロインを悪の手から救出する任務ミッションを達成することで、己が英雄ヒーローとして生まれ変わるというものであった。

 それこそクラスメイトから見下され、日常的に無視や暴力、その他の陰湿ないじめの被害を受けている健太にとって、それは苦境を脱する千載一遇のチャンスに他ならなかった。

 銃という圧倒的な現実リアルの“力”を手にした健太は、好みのラノベやアニメに登場する不屈の闘志とあらゆる敵を無双する強さを宿す主人公を自身に重ね合わせ、危険をかえりみず行動を起こした。


 健太が教室を出る直前、不意に学校中の照明が落とされたことで混乱は極みに達し、人質などの死傷者数はまさしく大惨事というべき、膨大なものとなった。

 そんな最悪の局面において、音楽室へ向かう途中の廊下で足に怪我を負った同じクラスの女子、佐々木希(ささきのぞみ)との邂逅かいこう

 怪我で動けない希を一旦その場に残し、健太は再び慎重に歩を進めて目的地へと向かう。

 幸いにして危機に陥ることなく、やがて目的地である音楽室へ辿たどり着いた健太であったが、しかしそこで待ち受けていたのは夢や希望などではなく、絶望そのものだった。


 音楽室の中には、倒すべき悪党など既に存在しなかった。

 だが代わりにそこ居たのは、囚われの姫である柏木菜月を始め、須賀彰吾すがしょうご篠倉海斗しのくらかいと、そして新見彩花にいみあやかという面々であり、健太はそれを見て暗然たる思いを抑えることが出来なかった。

 その時には既に校内の電気は復旧しており視界は明瞭となっていたが、一方で健太においては、目の前が真っ暗になるような絶望的な状況に陥る。


 直接の原因は、須賀と海斗の二人が揃って健太を役立たず呼ばわりした上に、所持する銃を寄越よこせと強請ゆすってきたことであった。が、それ以上に決定打となったのは、自分が救うはずだった菜月ヒロイン当人が海斗を英雄ヒーローとして頼り、健太に対して一切の関心を示さないことだった。

 結局のところ初めから菜月と海斗の二人の間に……いや、彼女にとって健太の価値など路上に落ちている小石同然のものであり、入り込む余地どころか己の存在が“空気”でしかない事実をまざまざと突き付けられた格好となった。


 柏木菜月の冷淡ともいえる無興味な態度によって、行動理念そのものを否定された健太は同時に銃を持つ意義を失い、やがて須賀彰吾の恐喝じみた言動に屈してしまう。

 所持していた実弾の込められた自動小銃アサルトライフル――AK47と、スクールバッグに入れたAK47の予備弾倉スペアマガジンを全て強奪された健太は、失意と共に身の置き場を無くす厳しい境遇に置かれたのであったが、そんな彼に対し運命は更に過酷な追い討ちを掛けるのだった。


 それは、実銃を手にした須賀が、愚かにも音楽室の壁に向かって試し撃ちを行ったのが切っ掛けであった。

 すると憤慨した篠倉海斗の幼なじみである新見彩花が、軽率もはなはだしい須賀の行動を激しい口調で非難する。

 普段通りであれば、粗暴な性格で不良然とした須賀が、他人の注意に対して素直に己の非を認め謝罪するなど絶対に有り得ないことであったのだが、何故かこの時に限っては様子が違った。

 何と須賀は反発も逆ギレもせずに、多少弁解じみた言ではあったものの、怒る彩花に向かって自身の過ちを認めたのである。


 それを見た健太は意外に思いつつも、瞬間湯沸かし器のごとく気の短い須賀を極力刺激しないよう言葉を選びながら彩花に追随する形で、銃の取り扱いついて注意を促そうとした。

 しかし逆にそれが裏目に出た。

 完全に健太のことを見下し馬鹿にしている須賀にとって、その指摘は到底看過することの出来ないものであった。また、女の前で恥をかかされたという短絡的な逆恨みの感情も作用していたのかも知れない。

 何はともあれ健太の言葉によりキレた(・・・)須賀は、愚かにも暴力を用いて八つ当たりを行ったのであった。



 ――殴られた左頬が熱く、痺れにも似た鈍痛が健太の気持ちをより一層沈ませた。

 思考を現在に引き戻した健太は、ブチ切れた須賀が飛ばした拳によって負った怪我の具合を確認した。

 熱を持った左側の頬は腫れており、加えて頬骨の辺りに走るズキズキとうずくような痛みは未だ収まる気配はなかったものの、鼻孔からの出血は既に止まっていた。

 須賀の殴打がもたらした不条理な現実は、一縷いちるの希望にすがる健太の精神面に深刻なダメージを与えた。


 完全に打ちのめされてしまった健太は、立ち上がる気力すら枯渇こかつし床にしゃがみ込んだまま肩を震わせ続けていた。

 身を焦がすような憤りと、身を引き裂かれるような悲しみが健太の心をどこまでもかき乱す。脳裡には未だ、健太が内に秘めたはかなき夢と願望を容赦なく土足で踏みにじった、既に場を離れた張本人らの影が焼き付いていた。

 溢れ出る涙にけぶる視界の先には、血溜まりに沈むテロリストの死体だけが残された孤独な空間が広がっていた。

 名状しがたい感情の奔流ほんりゅうに突き動かされる唇は嗚咽にむせび、その微かな音響は血の臭いが充満する音楽室の大気を僅かに揺らめかせた。


(……何でだよ……なんで……)


 返答のない無言の問い掛けが、脳内を堂々巡りする。

 そして須賀の理不尽な行為に対する怒りと、海斗・菜月・彩花の三人が見せた己に対する無関心と無情さが、健太の心に悲愴な挫折感を縫い付け四肢の力を奪っていた。

 だがその時ふと、後悔の気持ちとは別に湧き起こる一つの義務感が、かすみがかった脳内にある人物の顔を思い起こさせた。


(……そうだ、佐々木さんが待っているんだ。彼女の所に、戻らなくちゃ……)


 音楽室に辿り着く前、廊下でぎこちない笑みと共に手を振って自分のことを見送ってくれた、佐々木希(ささきのぞみ)という名の地味な顔立ちの女生徒。

 正直なところ、健太が当初考えていた菜月を救出するプランに希の存在は含まれておらず、怪我を負い廊下の壁を背にして座り込んでいた彼女との出会いに関しては、イレギュラーな出来事に違いなかった。

 ただそれでも、普段クラスから孤立し無視やいじめを受けていた健太にとって、非常事態とはいえ希は唯一まともに話ができた人間であり、尚かつ彼女が見せた控え目な優しさが強く印象に残ったのは確かであった。


「ごめん……、いま行くよ」


 ぽつりとこぼした声は憔悴しょうすいに彩られていた。が、しかし健太は掛けている眼鏡を一旦外し、手の甲でぐしぐしと目元の涙を拭ってから再び眼鏡を掛け直すと、ぎこちない動作で立ち上がった。

 謝罪の言葉は、今も健太が戻ってくるのを信じて孤独ながらも廊下で待ち続けている希に向けてのものであったが、それ以上に、馬鹿な失敗を演じた不甲斐ない己を許して欲しいという願望も含まれていた。

 迎えに行くのが遅くなった。いや、そもそもの話、あのとき動けずにいる希のそばに居てやり、彼女の為に尽力をすべきだったのだ。


 のろのろと音楽室の戸口に向かって歩き出す健太の頭の中には、覆水盆に返らずということわざが、わずらわしさを覚えるぐらいに何度も反芻はんすうしていた。

 万が一の際、銃という誰かを護る“力”を自ら手放してしまった。

 何より、本当に助けなければならない人間を、真に守り抜かねばならない人間を見誤ってしまった。

 確かに柏木菜月と佐々木希を見比べれば、十人中十人が前者を美しいと評し、男なら誰しもが希ではなく菜月の為に尽くすことを望むだろう。ましてや命懸けなら尚更だ。

 現に、他ならぬ健太自身がそう考え、希を捨て置いて菜月の救出を優先させたのだから。


 涙はもう止まっていた。

 悔悟かいごの念が、やるせない罪悪感が、健太の気分をどうしようもなく沈ませていた。

 生まれつき美しくあでやかなちょうである菜月には、地面を這いずる醜く愚鈍な芋虫の如き健太の苦悩や心情など決して理解は出来ないし、それ以前に理解しようすら思わないだろう。だからこそ今回の失敗は、当然といえば当然の結果であった。

 蝶の優雅さ、優美さに目を眩んだが故の過ちは、これからの行動をもって挽回ばんかいするより他はない。


 まだ十分に間に合うはずだ、まだ。

 希と別れ、ここに辿り着いてから、まだそれほど時間は経っていない。

 もう絶対に間違わない、そう強く心に誓った健太は、音楽室の引き戸を開け廊下へと足を踏み出すのだった。

 少し前に音楽室から立ち去った海斗らの姿は、既に廊下にはなかった。                                                                   

 奇妙に沈黙している廊下を、丸い面立ちを焦燥に強張らせた健太が早い歩調にて進む。

 その先に待ち受けている、過酷な運命を知るよしもなく――




 異様に殺伐とした気配が、廊下に充満していた。

 無論、現在進行形でテロリストに学校を武装占拠されているのだから、校内が安全だとはつゆほども思っていない。とはいえ音楽室を離れてからというもの、嫌な予感ばかりが膨れ上がるのを健太は抑えることが出来なかった。

 只の気のせいであればよいのだが、自身の直感がそれを全力で否定していた。

 まばゆい照明の下で、健太は人気ひとけの失せた廊下を足早に進む。

 佐々木希が待つ場所まで、後もう少しまでの所まで来ていた。


(もしかして僕より先に、篠倉たちが佐々木さんを助けてくれていたりとかは……ないよな、やっぱ……)


 希望的観測が脳裡のうりを一瞬かすめるも、健太はすぐにそれを否定する。

 常に自分達の意見や都合を最優先にし、他者に対する忖度そんたくや思いやりといったものがいちじるしく希薄な彼ら彼女らでは、例え道中であろうとも怪我で動けない佐々木希を同情心で助けるとは到底思えなかった。

 特に天敵ともいえる須賀彰吾すがしょうごに関しては、自分が逃げるのに足手まといとなるような人間に手を差し伸べる真似など絶対に行わないだろうと、健太は胸中や思考に鬱積うっせきする憤懣ふんまんを便乗させつつ確信を抱いていた。


(それにしても、なんだろう……、さっきと違って空気がやけに重いというか、妙な息苦しさを感じる。それにあちこちから聞こえてくる、この変な音って……いや、もしかしてこれって人の叫び、声……?)


 ふと気付けば、階下から轟いていた銃声が随分と減ったような気がした。

 激しい銃撃戦から生じる数多あまたの発砲音に取って代わり、いま校内を支配している音は、背筋が寒くなるような正体不明の獣じみたうなり声であった。

 鼓動が否応なしに乱れ鳴り、深奥から込み上げる得体の知れない恐怖心が冷汗と鳥肌を全身に張り付かせていた。

 勝手に震えてくる足を懸命に動かし、健太は目的の場所へ急ぐ。

 うなじに走る寒気と、心を浸蝕する最悪の予感を無理矢理ねじ伏せて。


 佐々木希が居る場所は、五階校舎の北側端に設けられた音楽室と校舎南側にある健太が出発した二年E組のちょうど中間地点となる。

 加えて校舎棟自体がH字に近い建築構造となっていることから、音楽室から各HR教室に行く為には廊下を一度曲がる必要があり、その角の先に希が座り込んでいるのだった。

 早足で廊下を直進する健太の目には、まだ希の姿は見えない。だが最早、目と鼻の先であった。

 間を置かず、何かにき立てられるように健太は廊下の角の先へと飛び込んだ。

 そして――



「…………さ、佐々木……、さん?」



 希が居た。――呼び掛ける声が、どうしようもなく震えた。

 希からの返事はなかった。――目に映る光景が、どうしても信じられなくて。

 希の視線は健太を捉えていたが、その瞳に光は宿っていなかった。――辺り一面を染めるのは酷く生臭い、禍々(まがまが)しいほどの赤。


 赤、あかあかあか、赤い血。

 呼吸が上手くできない。息が苦しい。口が無意味に開閉を繰り返していた。

 希は仰向けの状態で倒れていた。

 否、正確に述べるならば、誰か(・・)に押し倒されていた。

 その見知らぬ誰か(・・)は、床の上に倒れている希に覆い被さりながら、一心不乱にナニカをむさぼり喰っていた。


 相手は薄汚れたワイシャツとスラックスに身を包んだ、四十代とおぼしき中肉中背の男性。

 希の上に馬乗りとなっている男が誰かなど、健太には全く見当もつかなかったが、少なくとも相手がまともな人間でないことだけはすぐに理解した。

 何故なら、希の上に馬乗りとなって彼女の頬肉や喉元を喰い破り、更に着ている半袖ブラウスの前を力任せに引き裂き、あらわとなった白い肌に歯を突き立てる者が正気であるはずなど、絶対に有り得ないのだから。

 もちろん彼が健太の見知らぬ学校関係者であろうがなかろうが、そんなのは健太にとってあまりにもどうでもいい事であった。


 むせ返るような血臭に脳が麻痺まひした。

 傷口から噴き出す鉄臭い深紅の液体が、希のからだに男の身体に床に壁に降り掛かり、周囲を赤くあかくアカク濡らしていく。

 その目が痛くなるほどの真っ赤な世界で、希を床に押し倒した男は薄気味悪い呻き声を発しながら、生に満ち溢れた彼女の若々しい肉体を噛み千切り、咀嚼そしゃくしていた。

 くちゃくちゃぺちゃぺちゃねちゃりねりゃり……、と。


 いやになるぐらい静かな廊下に、人肉を咀嚼する音とそれを嚥下えんげするときのごくっという、吐き気を催す不気味な音が鳴り響いていた。

 男の下で、致命的な損傷と欠損を負っている希の体には、未だピクピクと痙攣けいれんが走り生命の終わり告げる微弱な運動が続いていた。

 悪夢すら生温なまるい、地獄を具現したかのような凄惨極まる光景を前に、健太は空白と化した頭で無意識に言葉をつむいでいた。


「……は、離れろ。佐々木さんから、離れろよぉ……っ!」


 小さく弱々しい震え声。

 棒立ちとなった健太の全身は、呆れるぐらい小刻みに揺れ動いていた。

 でも言った。もう希を助けることは無理だと本能で認めていながらも、人の肉をむイカれた男を彼女の上からどかせようと、必死に勇気を振り絞って言葉を放った。

 健太を見送る際、ぎこちない笑みを形作りながら『いってらっしゃい、気を付けて』と言った後、控えめに手を振ってくれた彼女の優しさに報いる為に。

 そして『出来るだけ早く戻ってきてね、お願いだから』と言い、不安げな表情を浮かべていた彼女との約束を果たせなかった罪悪感が、健太をき動かしていた。


 だが、そんな健太の声に対して男は何の反応も示さず、尚も希の肉体をひたすら喰らい続ける。

 その刹那、健太の腹腔に得体の知れない感情が爆発した。

 もし銃を所持していたならば、健太は間違いなく眼前の男を撃っていただろう。

 恐怖心を塗り潰すほどの灼熱の憤怒が、健太の心身を焼き焦がしていた。

 それは、健太の十七年という短い人生の中において、これまで一度も経験したこともない激烈な感情のかたまりであった。


「どけよ、お前!!」


 健太の口から、激高と殺意の入り混じった怒号が放たれた。

 他者に向けて激しい怒りをぶつけたのは、同じく殺してやりたいと思うほど他人に憎悪を抱いたのは、健太にとってこれが生まれて初めての経験であった。

 口で言っても分からないのであれば実力行使で男をどかせてやる、そんな紅蓮ぐれんの怒りに脳を沸騰させた健太が、勇ましく一歩前に踏み出したその時、相手の動きがぴたりと止まった。

 次いで男は、生気の消え失せた相貌を、精彩を欠いた二つの乳白色の瞳孔どうこうを、傍に立っている健太の方へゆっくりと振り向けた。


 見返してくる男の顔をまともに見た健太は、まるで金縛りにあったように一歩も動くことが出来なかった。

 男の上下の唇は千切り取られて無くなっており、歯が剥き出しの状態であった。

 しかしそんな重篤な怪我を負っているにも関わらず、あらゆる感情が抜け落ちた男の血みどろの面相には、何の痛痒つうようも見受けられなかった。

 黄ばみ血走った白眼に加え、鼻孔と醜くえぐれた口周りには大量の血液が付着し、その剥き出しとなった血だらけの歯には人肉の断片が引っ掛かり、ぷらぷらと揺れ動いていた。


 瞬間、戦慄せんりつが健太の総身をはしり抜けた。

 狂暴な肉食獣を彷彿ほうふつさせるような、身の毛もよだつ咆哮ほうこうを口腔からほとばしらせながら男が凄まじい勢いで立ち上がった。

 そして、たじろぎ息を呑む健太の前で、焦点の定まらない白濁の両眼を新たな獲物に定めた男が、永遠に失われた輝かしいを貪ろうと本能が命ずるままに全速力で動く。

 大きく開け放たれた口から赤黒い粘液を滴らせつつ、男が健太に向かって突進した。


「ひっ……!」


 悲鳴が喉から勝手に飛び出る。と同時に、相手の勢いに押されて体を大きくのけぞらせた健太は、恐怖の為に足下がおぼつかずバランスを崩してしまう。

 不幸中の幸いというべきか、体勢を大きく崩した健太はそのまま床へと尻餅をつき、一直線に突っ込んできた捕食者の魔手から逃れることに成功する。

 タイミング的には、健太が斜め後方にすっ転んだことで、男の突進を上手くさばいた格好となったのだった。

 もちろんそれは偶然以外の何ものでもなかったが、しかしその偶然が健太を救ったのは紛れもない事実であった。


 一方、がむしゃらな動きで疾走してきた男は寸前で目標を見失い、勢い余って廊下の壁に衝突した。

 頭から壁へとぶつかっていった男は、ゴシャッともボゴンッとも表現しがたい不気味な音を生じさせた後、派手に転倒した。

 起き上がる健太の目前で、顔面を壁に激しく打ち付け鼻骨を陥没させた人の肉を食する鬼畜のやからは地面へひっくり返るや否や、手足を無茶苦茶にバタつかせてのたうっていた。


 心臓が、胸の内側で痛いぐらいに脈打っていた。

 健太はパニックに陥りそうになる思考の中で、躰の至る所を喰い荒らされ命を失った佐々木希の血に塗れた姿と、バネ仕掛けの人形を想起させる不自然かつ急速な動作で再び立ち上がる男の姿を、忙しなく首を動かして見遣った。

 危機の渦中にある生存本能が、ネットや新聞、テレビのニュースなどで知り得ていた断片的な情報を一挙につなぎ合わせ、とある解答を導く。

 食人鬼、食屍鬼グール生ける屍(リビングデッド)、ゾンビ……感染者ゾンビ

 健太の脳内にひらめく単語の連鎖は、現状の終着駅が最悪中の最悪であることを指し示していた。


 闘争か逃走か。

 例えただの狂人であろうとも、未知の新型ウイルスに侵された感染者ゾンビであろうとも、罪なき希の命を無残に奪った目の前の相手を許すことが出来なかった。

 じゃあどうする? マンガや小説、アニメの主人公みたく自らの危険をかえりみず勇猛果敢に敵と戦うか? 素手で?

 眩暈めまいで視界が揺れ、全身を鳥肌が埋め尽くした。加えて大量のアドレナリンが体内を駆け巡る。

 健太はほぞを噛んだ。希のかたきを討つ為に無謀な戦いを挑むことを、生への執着心が拒絶したのだった。


 故に選択する。

 きびすを返し、直ちにその場から逃げることを。

 背後から残虐な死を運ぶ獣じみた唸り声が迫ってきていたが、健太は振り返ることなく全力で廊下を駆けた。

 走る、走る、走る、廊下を無我夢中で。

 希を救えなかった。希を見捨てた。希を置き去りにして脱兎の如く逃げ出した。


 額から大量に滴り落ちる汗のしずくが目に入り、視野をぼやけさせた。

 全力を投入しても、笑う膝のせいで浮足立ち、全然速く走れなかった。

 せきを切ったように内側から感情があふれ出し、健太の口から意味不明の喚き声がまろび出た。

 己のすぐ後を追う、怖気を振るう咆え声と気配に背筋が凍り付くが、それでも健太は必死に足を前に運び続けた。

 あっという間に息が上がる。呼吸は滅茶苦茶で心臓が破裂しそうだった。


 廊下は明るく、見慣れている筈の校内であるのに、自分が今どこに居てどこに向かって走っているのかも健太は全く分からなくなっていた。

 襲い掛かるパニックが、心中で荒れ狂う情動が、健太の正常な判断や思考を阻害していた。

 だがそれにも関わらず、視界に飛び込んでくる光景だけは異様なほど鮮明で、眼前で起こっている出来事を脳が拒否しても勝手に理解してしまう。

 健太が教室を出た時は別の地獄が、そこに広がっていた。


 犠牲者は、監禁されていた教室から脱出を図った際に、テロリスト連中が引き起こした銃撃戦で巻き添えとなった人質の生徒らであった。

 狭い廊下で、しかも視程不良となる暗闇の中で行われた犯人同士の撃ち合いは、多数の死亡者と負傷者を生み出す結果となった。

 この場合、果たしてどちらの方が不幸だったのだろうか。飛んできた流れ弾の当たり所が悪く命を失った生徒か、もしくは被弾し怪我を負ったものの死なずに済んだ生徒の方か。

 答えは永遠に分からない。ただ、一つだけ確かであったのは、飽くなき食欲を抱えた捕食者たちが群がるのは、生者のみという残酷極まる現実だった。


 走る健太の前に、感染者ゾンビに生きたまま眼球を抉り取られ、断末魔の絶叫を上げている男子生徒がいた。

 逃げる健太の横で、複数の感染者ゾンビに寄ってたかられ、両の五指や手首に腕、更に乳房、腹部、臀部、太股、足首に至る全ての部位を生きたまま喰い千切られ、半狂乱で泣き叫んでいる女子生徒がいた。

 通り過ぎた健太の後ろで、引き裂かれた腹腔に手を突っ込まれ湯気立つ内臓を喰われている生徒、上半身と下半身が分断された状態で貪り喰われている生徒、頭蓋を噛み砕かれプルプルしている新鮮な脳を食されている生徒がいた。


 全てが限界だった。精神も肉体も。

 口の中はカラカラに干上がり、肺は火炎に包まれたように熱かった。

 何かに引っ掛かったのか、それとも単に疲労で足がもつれたせいなのかは判別不能だったが、ともかく健太は前のめりの形で無様に転んでしまう。

 もともと激しい運動を得意としていない健太のふくよかで丸っこい躰は、この時点で完全にスタミナ切れを起こしていた。

 どれだけの距離を走ったのかは定かではなかったが、ぜえぜえと喘ぐ呼気と悲鳴を上げる全身の筋肉は、これ以上の運動が無理であると冷酷に突き付けていた。


 すなわちそれは、健太も希や他の生徒と同じく、文字通り骨肉相食む地獄絵図と化したこの廊下で、獰猛どうもう感染者ゾンビ餌食えじきになる未来が確定したという事実に他ならなかった。

 嗚咽おえつが漏れた。……背後から、人を捕食する化け物の唸り声が鈴なりとなって聞こえた。

 無力な己が悔しくて情けなくて、倒れたまま泣いた。……濃密で濃厚な死神の気配が間近に迫ってくるのを背中に感じた。

『死』がどうしようもなく怖くて恐ろしくて、形振なりふり構わず泣き叫んだ。……全速力で走る複数の足音が、すぐ真後ろで響き渡っていた。


 刹那、圧搾あっさくされた空気が漏れたようなくぐもった発砲音が不意に湧き起こり、唸り声の間隙を縫って健太の耳朶じだに触れた。

 同時に、後方からドシャッという水気を帯びた何かの物体が床に衝突する音が、小さな地響きと重なって聞こえてきた。

 驚き顔を上げる健太の目の前で、信じ難い光景が展開されていた。

 テロリストの一味でありながら教室で躊躇ちゅうちょなく仲間を射殺した後、続いて逃げた人質でごった返す廊下にて無慈悲な銃撃戦を仕掛けた、極めて冷徹であり危険な男が、立射の姿勢で感染者ゾンビに向けて射撃を行っていたのである。


 地獄の渦中において、消音器サプレッサー付きのH&K社製の新型サブ・マシンガンMP7を構えた長身の男……“組織”から『ファング』なる暗号名コードネームを与えられた殺し屋が、健太の前に姿を現したのだった――――














ごめんなさい、本当にごめんなさい。

今回で終わりませんでした。

結局、次で健太くん編は終わりとなります。後、黒幕さんの登場も次回に持ち越しです。

何とか年内にもう一話あげて、キリのいいところで今年を終わりたい。

忙し過ぎて12月はそれこそゾンビ状態となっていますが、何卒次話もよろしくお願いします(泣)


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