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生者と死者に祝福を  作者: もこもっこ
第一章  序開
20/36

第19話 「合縁奇縁」

長いです。








 




 ――九月二十六日。

 黒崎楓くろさきかえで宇賀達也うがたつや、そして高城花音たかしろかのんの三人がスーパーマーケット『グレートバリュー練馬小泉店』を訪れてから、二日が経過していた。

 その日は、昨日から降り始めた雨が止むことなく、ほぼ一日中、空を覆う黒雲から落ちる小さな雨粒が地上を濡らし続けていた。


 太陽が照り付けてない分、連日の猛暑から比べれば気温は下がっており幾分過ごしやすかったが、その代わり湿気を帯びた蒸し暑さが建物内部にこもっていた。

 それは楓と花音が寝所としている、スーパーマーケット二階に設けられた従業員控え室兼休憩室内も例外ではなく、じめっとした空気が部屋を満たしているのだった。

 季節的には秋となる九月末の現在、本来であれば厳しい暑さもある程度は和らぐはずであったが、今年は例年とは違い記録的な酷暑が未だ続いている為、夏の終わりは先延ばしとなっていた。


 休憩室に取り付けられている腰高窓越しから、雨音が静かに響き渡ってくる。

 その音を耳に収めながら、楓はマットレス代わりに敷いてあるタオルを上にかぶせた段ボールの寝床から上半身を起こし、寝起きのぼんやりとした視線を室内に彷徨さまよわせていた。

 部屋には誰もおらず、静謐せいひつが空間を埋めていた。

 雨天の影響により室内は薄暗かったが、ふと気になった楓が壁に掛かっている時計の方へ目を向けると、時刻は既に午後二時を回っていることが分かった。


(随分と寝坊したものだな……)


 ぼんやりとした思考でそんな感想を抱きつつ、楓は緩やかに息を吐いた。

 昨日から随分と長く眠り続けていたような気がするが、しかし実際のところその睡眠は断続的なものに過ぎず、安眠とは程遠いものであった。

 不快な倦怠けんたい感と痺れるような鈍痛が楓の華奢きゃしゃで小柄な体躯を浸蝕しんしょくし、それらが悪影響となって浅い眠りと覚醒を繰り返す状態をもたらしていたのである。

 体調は、まさに絶不調と呼ぶに相応ふさわしかった。


(流石に無茶をし過ぎたか……)


 胸の内で呟きながら、楓は原因についての記憶を辿たどる。

 先日、店舗売り場内で遭遇した感染者ゾンビの“男”との戦闘で、楓は異能力である【念動力】を心身に掛かる負担を度外視して連続行使した。

 それに加え、かつて己が『研修所』の執行者であった“黒崎諒くろさきりょう”の時に会得していた奥の手、精神集中法による潜在能力の強制引き出しを敢行かんこうしたのである。

 文字通り命を削る(・・・・)荒業あらわざを惜しげもなく用い、際どくも死闘を制することに成功した楓であったが、その代わり高い代償を支払う羽目はめとなった。


 戦闘時に受けた損傷もさる事ながら、【念動力】の酷使並びに限界突破した運動機能の発現がいちじるしく楓の肉体と精神を摩耗まもうさせ、その結果、日常生活すら支障をきたす程の重篤じゅうとくな疲弊が楓の総身をむしばんだのである。

 現に今も、僅かな身動ぎをするたびうずくような痛みと共に、自力での歩行が困難なぐらいの酷い脱力感があった。……もっとも、それでも昨日に比べれば、幾分マシな状態には違いなかったのだが。

 どちらにしても現時点では、激しい運動はもとより、まともな日常生活動作すら困難という有様であった。そしてそれこそが、楓の気分を滅入めいらせている原因だった。


(これでは、お荷物もいいとこだな)


 何をするにも誰かの補助を必要とする現状では、仮に不測の事態が起こった際、間違いなく己が他者の足を引っ張ってしまうだろう事は容易に想像できた。

 仕方がないとはいえ、楓にとってその事実は耐え難く、尚かつ最重要目的である本来の肉体を取り戻す(・・・・・・・・・・)為の行動が阻害されてしまっている事が、何よりも悔しかった。


「…………クソ」


 目鼻立ちのくっきりした幼い美顔から、およそ不釣り合いな悪態の言葉が漏れる。

 その時、不意に達也の優し気な顔が楓の脳裡のうりに思い浮かんだ。

 何となくモヤモヤした感情の下、胸中に溜まった不満というか愚痴を達也に向かってぶちまけたい衝動に駆られる楓であったが、その時、休憩室のドアが開けられ誰かが入ってきた。


「あ、起きたんですね、楓さん」


 部屋にやって来たのは、ネイビーのカットソーチュニックTシャツにベージュのテーパードパンツといった衣服に身を包んだ女子中学生、花音であった。

 そして、楓に向かって声を掛ける花音の右手には、色々な商品が詰め込まれた買い物カゴがぶら下がっていた。


「……おはようございます」


 現れたのが達也ではなく花音であったことに対し、心の中でほんの一瞬だけ落胆に似た感情が芽生えかけるも、即座にそれを打ち消した楓は普段通りの平坦な語調にて挨拶を行う。

 すると、柔らかな笑顔を浮かべた花音が「はい、おはようございます」と返事をしながら楓の方へと歩み寄ってくる。


「その服は?」


「あ、これ? 隣の部屋のロッカールームにあったのを無断で借りちゃいました。サイズはちょっと合わないけど、洗濯した制服とかが乾くまでの間、普段着に丁度いいと思って」


 記憶にあった格好とは違った為、ふと気になった楓が小首をかしげながら尋ねると、花音が朗らかな声で答える。


「……洗濯?」


「はい。もちろん手洗いの洗濯なんて初めてだったし色々大変でしたけど、でもそのおかげで、今まで着ていた制服と下着の汚れを全部落とせたので良かったです」


 続けて問う楓に対して、花音は笑んだまま説明し、更に言葉を重ねた。


「わたし、お風呂やシャワーで全然身体を洗えてなかったから、服の汚れや臭いが結構酷くてマジでサイアクって感じの状態でした。一応、達也さんが替えの服を見つけてくれたんですけど、サイズも微妙だったしやっぱり自分の制服の方が一番動きやすかったので、その事を相談したんです。そうしたら達也さんが早速、お店の屋上にバケツや空の容器をいっぱい並べて洗濯用の雨水を溜め始めてくれたんです」


「洗濯用に雨水を?」


「はい。折角雨も降っているから、それを利用しようって達也さんがおっしゃって。けど実際、雨って結構汚いじゃないですか。だから、雨水で洗濯しても汚れが落ちなかったり、逆に変な臭いとか付いちゃったら嫌だなぁって思っていたんですけど、何か達也さんがペットボトルでろ過装置みたいな物を作ってくれて、綺麗な雨水を別な容器に移し替えて下さったんです。そのおかげで問題なく洗濯が出来ました」


「……なるほど」


 花音の話を聞いた楓は、納得したように小さくうなずきながら返事をする。

 ペットボトルや空き缶、又は透水性の袋の中に布・砂・炭・小石などを敷き詰めた手製の浄水器の作成については、サバイバル知識として楓も知っていた。

 雨水であれば、それを煮沸しゃふつ消毒した後に飲料水として飲むことも可能であるが、今回の使用目的は只の洗濯水なのだから、ハンカチやティッシュ、またはキッチンペーパー、コーヒーフィルター、ガーゼ、タオル等といった有り合わせの物をペットボトルに詰めて、汚れの原因となる大気中に含まれた微量なちりほこりを大雑把に取り除く簡易ろ過器を達也が作ったのだろうと、楓は今の話によって理解した。


(あの男、意外に知識が豊富だな。それに判断も悪くはない)


 サバイバル訓練を受けた自分とは違い、恐らくはインターネットを通じて得た知識であろうが、それでも自然の雨水を利用することで無闇やたらに飲料水を消費しないよう機転を利かした達也に対し、楓は内心で評価を上げるのだった。

 すると、心持ち満足げな顔でコクコクと首を縦に振っている楓の直近まで、花音が歩み寄って来る。そして、商品が満載された買い物カゴを床に置いた花音は、身を屈めつつ楓に話し掛けた。


「そんな訳で、楓さんが今着ているメイド服もわたしが洗濯しちゃいますので脱いじゃって下さい。それから、ウエットタオルなんかも持ってきたので、ついでだから体もきましょうね」


「…………は?」


 出し抜けの申し出に、楓が思わず調子外れな声をらした。


「だってその服、見た感じも汚れが結構目立ってるし、洗わなきゃ駄目ですよ。それに、楓さん寝ている時に沢山汗をいていたから、体が汗臭くなっちゃう前にさっぱりしといた方が良いと思います」


「……いや、しかしそれは……」


「あ、替えの服ならここの店員さん使っていた制服が有るので、心配しなくても大丈夫ですよ。割と大き目なサイズなのでちょっと不便に感じるかも知れませんけど、逆にパジャマ代わりだと考えればそんなに悪くないと思いますし、それに体を綺麗にするのも、わたしがお手伝いするので安心して下さい」


「手伝い……? 体を拭くのを?」


「ええ、勿論もちろんそうです。こんな状況ですし、変な遠慮とかは無しの方向で。大体、楓さんまだ調子良くなさそうだから、一人で体を拭くのは大変じゃないですか。わたしなら同性だし、裸を見られたって別に恥ずかしくないですよね?」


「……むぅ……」


 やや遠慮がちな笑顔を見せて話す花音から視線を外した楓が、眉間にしわを寄せながら困ったような声を喉からし出した。

 その時、ふと気になった楓は己が着ているフリル付き濃紺ミニワンピースのメイド服の状態を点検チェックした後、更にえり元へと鼻先を持っていくと、匂いをぎ始めた。

 花音の言う通り、確かにメイド服はあちこち汚れており痛んでもいた。その上、全身が汗ばんでいる為、むっとするような生臭さが鼻についた。


(実際、彼女の言っていることは理に適っている。不衛生だと余計な皮膚病や、傷口の化膿から敗血症となる可能性もゼロではない。その為に身体や衣類を清潔に保つのは、健康を維持する上でも大切だと言えるだろう。しかし、それにしても同性……か。分かってはいるが、改めて言われてみると、どうにも多少の抵抗感は無視できないな)


 身体はともかく、精神的には異性だと認識している黒崎楓・・・にとって、いくら相手が未成年の女子とはいえ、人前で無防備に裸体をさらしたり、ましてや触られるのは出来れば避けたい心境であった。

 しかしだからといって、その代りを達也に頼むのはもっとあり得ない選択肢だった。

 何故なら、本来この肉体の所有者は“楓”という名の少女のものであり、男性である達也との接触に関して注意を怠れば、識閾下しきいきかで拒否反応に近い激しい動揺が心身を圧迫することは、今まで達也と行動を共にしてきて既に何度か体験済みだからである。


(まあ、運動能力がいちじるしく低下している現状では、文句など言えんか。……それというのも、あの男が妙にこの身と密着しようとする悪癖があるせいだ。もしこちらが不潔だと、馬鹿なあいつは阿保みたいに感染症をわずらってしまうかも知れん。全くもって迷惑な上に面倒な話だが、くだらん懸念材料を払拭ふっしょくする為にも、ここはやはり彼女の手を借りて体を清潔に保つのがベストな選択だろう)


 微妙にズレた考えというか、若干おかしな心配をする楓であったが、半ば強引に結論を下すとそれ以上の思考を打ち切る。

 実のところ、ただ汚れて臭い状態で達也に会うのが嫌だというのが楓の本音なのだが、それに関しては無意識に考えないようにしていた。

 あやふやな気持ちの中、部分的な思考停止に陥るその心理状態は、肉体の深奥に宿る“楓”という少女の魂と呼ぶべき想念が強まり、それが黒崎楓・・・の自意識に明らかな変化を生じさせた影響によるものだった。


 幼少期より特殊な環境化で徹底的な訓練を施された“黒崎諒”という名の男は、執行者としての野外訓練で何週間も入浴できなかったり、過酷または劣悪な環境下での任務でどんなに薄汚れみすぼらしい恰好になろうが、これまで一度たりとも他人の目を気にすることなどなかった。

 しかし今は違っていた。無論、性別や生まれ育った環境の差が決定的に異なるという点もあるが、少なくとも出会った当初とは変わり、何故なぜか宇賀達也という存在を頭から追い払うことが出来ず、どうしても彼の目を気にしてしまうのだ。


 その理由は、幼くとも列記とした女性である“楓”の精神と“黒崎諒”の自我が様々な要因により混然一体となった結果、黒崎楓・・・の中でこれまで生まれることの無かった感情が芽吹き始めたからであった。

 もっとも当の本人は、新たに芽生えたその情動を理解し、尚かつそれをどう受け止めていいのかすらも全然分かっていなかった。

 それ故に、黒崎楓・・・は湧き起こる感情を持て余すと共に、不合理な思考の迷宮へといざなわれてしまうのだった。



「――あの、楓さん?」


 花音が心なし不安げな声音で、難しい顔のまま黙りこくっている楓に呼び掛ける。

 すると、楓がその色白の面差おもざしをふっと緩めた後、次いで軽く頭を下げつつ決断の言葉を発した。


「分かりました。それでは高城さん、申し訳ありませんが清拭せいしきを手伝って頂けますか?」


「せいしき? ああ、体を拭くってことですよね。さっきも言ったけど、困ったときはお互い様なんだから、遠慮せずどんどん頼っちゃって欲しいです。……じゃあ早速やりますんで、楓さんは着ているもの脱いじゃって下さい」


「はい」という楓の返事を聞きながら、花音は畳の上に置いた買い物カゴの中に手を入れ『からだふき大判ぬれタオル』と記名された使い捨てウエットタオルやドライシャンプー、そして赤ちゃん用の液体石鹼であるベビーソープといった商品を次々と取り出す。

 それから花音は、寝床の上にてメイド服をぎこちない所作で脱ぎ始めた楓を補助しつつ、声を掛ける。


「ところで一つお願いがあるんですけど、わたしの呼び方は苗字じゃなくて『花音』って名前で呼んでくれませんか? 折角わたしとタメぐらいの女の子と知り合えたのに、苗字でしかもさん付けで呼ばれると、何となくよそよそしい感じがするし。っていうか、むしろ敬語じゃなくて、もっとくだけた調子で話してくれた方が嬉しいかも」


「……承知しました。では、今後は貴女あなたのことを花音と呼称するようにします。その代わり、これからは私に対する敬称や敬語などは一切不要です。後、この口調は残念ながら一種の癖となっているので矯正きょうせいは出来ません。なので、敬語に関してはあまり気にしないで頂きたい」


「ちょっと珍しいけど、癖だったらしょうがないよね。ん、りょーかい! じゃあ、これからは楓ちゃんって呼ばせてもらうね」


 相変わらず抑揚に乏しい語感ではあるものの、特にこれといった不快さを示さない楓の様子に安心した花音が、はにかんだ笑顔を浮かばせて元気良くそう告げるのだった。



 雨降りの午後、若干薄暗い畳敷きの休憩室の中で楓はメイド服を脱ぎ終え、現在は布地の面積がやたら少ないひものTショーツと、これまた布面積が狭小きょうしょうな三角ビキニブラの下着姿となっていた。

 女らしい体型には程遠い細く小さい体躯たいくの楓であるが、しかしながら幼くとも整った容貌に加えて、きめ細やかな色白の肌で構成された、なだらかな丸みを帯びたヒップラインとささやかな膨らみを見せるバスト、そして艶やかで甘柔らかそうな質感の首筋や太股ふともも、また二の腕などを目の当たりにすれば、少女が情欲をそそる危うい色香と愛くるしさを絶妙なバランスで秘めていることに、気付かざるを得ない。


 ましてや、今は半裸にも満たない扇情的な状態なのだ。

 これでは例え同じ女性であろうとも、思わず見入ってしまうのは致し方ない事といえた。

 勿論もちろんそれは、花音も例外ではなかった。

 ベビーソープを少量だけ手の平に取って軽く泡立てながら、花音は楓の美しい白肌に我知らず視線を吸い寄せられてしまっていた。


 段ボールの寝床の上で行儀よく正座している楓の姿は、あたかも美術館に飾られている肖像画をそのまま具現化したかのような非人間的なまでの美がそこにあった。

 だがその一方で、はかなさを伴った艶麗えんれいな総身からは、同性すらも魅了してしまう蠱惑こわく的な色気がにじみ出ているのだった。

 特に、女性のデリケートな部分を申し訳程度にしか隠していない、卑猥ひわいともいえる下着が只ならぬ淫靡いんびさを楓に与えている為、その刺激的な恰好による相乗効果が、健全な性的指向と道徳観を有する花音を戸惑わせ、また頬を上気させてしまうのに一役買っていた。


 邪念を振り払うように軽く頭を振った花音は、間違って妙な気を起こしてしまう前に、さっさと体を拭いてしまおうと考え、そそくさと楓の背後へと移動を開始する。

 そして、早速ソープの泡を背中に塗ろうと手を伸ばす花音であったが、一点気になる事があった為、後ろから楓に向かって話を切り出した。


「あ、あのね楓ちゃん。その下着も服と一緒に洗っちゃうから、脱いでもらっていいかな? それにほら、裸の方が拭きやすいし……」


「…………確かにそうですね」


 控え目な花音の申し出に対し、楓が小さく頷きながら了承を告げるが、その返答には若干の間があった。また声音も、心なしか硬く感じられた。

 何となく嫌そうな雰囲気をかもし出す楓であったが、それでも素直にブラとショーツのひもの結び目をのろのろと手を動かしてほどき始める。

 但し、結び目はかなりきつくなっていた為、只でさえ濃い疲労の影響から指先に力が入らない楓は自力で解くことが出来ず、結局は花音の手を借りて下着を全部取り払ったのだった。


「超美肌だよね、楓ちゃんって。やっぱり、お肌が綺麗だとセクシー系のメイド服とかでも全然似合うし、正直下着なんか攻めてる感まじパないけど、不思議とイケちゃうのがうらやましいかも。肉食系女子とか、わたし嫌いじゃないよ?」


「……花音、貴女の言動は不明確な上に誤解も生じています。大体、私はこんな肌の露出が多い服や下着に興味などありませんし、何よりこの非常時にセックスアピールを重視した衣類などは、無用の長物以外に他なりません。これは、あの男が用意したものを、止むに止まれぬ事情があった為に着ていただけです」


 事情を知らずにいる花音の勘違い発言に対し、一糸(まと)わぬ姿となった楓が、前方に目を向けたまま淡々と反論する。


「そうだったんだ。わたしてっきり楓ちゃんが密かにグイグイいく系の人で、自分で買った服だとばかり思ってた。変な勘違いしちゃってごめんね」


 花音が手の平に乗せた泡を楓の生白いうなじや肩甲骨、脇腹、腕といった箇所かしょに薄く伸ばすように擦り付けながら、謝罪の言葉を述べた。


「別に怒るような話ではないので、私に謝る必要などありません」 


 それに対し、楓は何ら気分を害した様子もなく平坦な語調で述べると、花音が怪訝けげんな表情を浮かべて恐る恐る疑問を口にする。


「ところで、楓ちゃんが今言った『あの男』って達也さんのことでしょ? えっと、その……、あのメイド服と下着類って、もしかしてだけど達也さんが個人的に持ってたとかじゃない……よね?」


「いえ。諸々(もろもろ)の事情で着るものを失っていた私に、衣装などを提供したのは確かに宇賀達也本人ですが、しかしあれら物品については彼の姉が所有者らしいので、あの男が個人的な趣味嗜好(しこう)に基づき同衣装類を保管していたのではないと思料されます」


 楓が首を横に振って、否定の返事をした。

 すると、花音が安堵の吐息をこぼしつつ言葉を発する。


「そっかー、よかったぁ。見た目は優しそうな感じの人なのに、もし他人の弱みにつけ込んで自分のヤバい趣味とかを押し付けるような人間だったら、かなりわたしショックだったかも。……それでさ、ちょっと聞きたいんだけど、達也さんと楓ちゃんって一体どんな関係? ひょっとしてもうお付き合いしちゃってる、とか?」


「花音の言うヤバい趣味の具体的な内容はともかく、私が知りうる限り、少なくともあの男の精神構造が珍妙奇天烈、複雑怪奇であるのは間違いありません。しかし同時に、彼が人をおとしめるような愚劣で悪辣あくらつな人間でないことも、これまでの行いや言動を踏まえた上で、私見を述べるならば確かなはずです」


 楓がからだひねって後ろの花音を見据えると、きっぱりと言い切った。そして、更に言葉を続ける。


「それから私と宇賀達也の関係については、知り合ったのはごく最近であり以前からの面識も無いことから赤の他人に過ぎません。ですが、今現在は彼と避難行動や目的を共有している以上、両者が生存を達成する為の協力者であり、お付き合いをしているという表現はやや稚拙ちせつ的ながらも、妥当だとうではあります」


「そ、そうなんだ」


 何だか妙な迫力をにじませる楓に気圧けおされつつ、花音は返事をするのであった。

 というか、花音が聞きたかった『お付き合い』の意味と楓の答えは微妙に食い違っているような気がしたが、これ以上あまり他人が立ち入った事を聞くのは失礼だと思い、花音はそれについての指摘や詮索せんさくなどはせずに意識を作業へと戻し、今度は背中側に塗ったソープの泡を綺麗に拭き取る為、手に持ったウエットタオルを動かし始めるのだった。



 その後、花音が取り留めの無い話題を振ってそれを楓が一言二言で返事する、といったり取りが続けられたが、丁度身体の背面となる部位をおおむね拭き終わった頃、唐突に楓が質問の言葉を発した。


「……ところで、花音はなぜ私と宇賀達也との関係や、奴個人の事を色々と知りたがるのですか? それに、貴女あなたがあの男を苗字ではなく名前の方で呼んでいる経緯いきさつについても、是非説明して頂きたいのですがよろしいでしょうか?」


「へ? え? えっと、なぜってそれは……」


 思ってもみなかった質疑を受けた花音が、思わず口ごもってしまう。

 すると、何かを得心した楓がわずかに顎を引いた後、振り向きもせずに言った。


「なるほど、言いにくい理由がある……と。しかしこれでよく分かりました。どうせ奴が奇怪な屁理屈を散々貴女に吹き込み、惑わしたのでしょう。ならば案ずることはありません、花音。私がしっかりと言い聞かせますので、貴女の為にもあの男とはある程度の距離を置き、あくまでも他人として過ごすことを推奨します」


「ううん、違うの楓ちゃん。色々知りたがったのは、単にわたしが二人の事をもっと知って仲良くなりたかっただけで、別に変な意味で訊いた訳じゃないわ。それに名前の事は、楓ちゃんに言ったのと同じように、苗字だと他人行儀で嫌だったから名前で呼んで欲しいって、わたしが最初にそう言ったの。そうしたら達也さんが、じゃあ俺も……って感じになったのよ」


「…………そうですか」


「あ、でもね。その時に達也さんが、自分の事は親しみを込めて『たっちゃん』や『たっつん』って呼んでくれて構わないよ、なんて冗談みたいな感じで言ってくれたけど、いくら何でもそれはちょっと馴れ馴れし過ぎるかなぁって思ったから、流石さすがに拒否っちゃった」


 少しだけ申し訳なさそうな様子で話す花音だったが、一方の楓にあってはその言葉を聞いた途端、満身にただよう気配を劇的に変化させた。


「…………調子に乗りやがってあの野郎…………」


「あ、え? か、楓ちゃん?」


 前方を見詰めたまま、楓が異様に重く冷たい声音でぼそっと呟くのを耳にした花音は、思わずぎょっとしながら尋ねる。

 だが、小柄な少女から返される言葉は「いえ、何でもありません」という、実に簡素なものであった。

 もっとも、そのささくれ立つような低い返事には剃刀かみそりのような鋭さと剣呑さが見え隠れしており、花音をドン引かせるには十分といえるものだった。


 結局その後は、不自然なまでに押し黙った楓を気遣いながら、花音は作業を継続する羽目はめとなってしまった。

 ちなみに、ドライシャンプーを使って頭皮や髪の汚れを落とす作業は花音が担当したが、躰の前面……つまり胸部や腹部、更に内(もも)や秘部に関するデリケートな場所については、楓が自分で綺麗にできると申し立てたので、花音はほっと安堵の胸を撫で下ろしながら喜んで辞退するのであった。



 それからやや時間が経過し、ようやく全身を綺麗に拭き終えた楓であったが、肌のさっぱり感とは裏腹に、何故なぜか気持ちの方は苛立いらだちがくすぶり続けていた。


(……別に、あの男と花音がどれほど親しくなろうともこちらの知った事ではないし、そもそも他人の関係ついて考えること自体、無駄の極致であるのは百も承知だ。分かっている、分かってはいるのだが、精神が妙に乱されるのは何故なんだ。クソ、取りえずあいつに会って色々言ってやらねば気が済まん……!)


 そんなグツグツと煮えたぎるような怒気を孕ませた思考を巡らせながら、楓が花音に向かって達也の所在を尋ねようとした時、不意に休憩室のドアをノックする音が響き渡った。


「嘘?! た、達也さん? わ、わ、ちょっと待って下さい! まだ、楓ちゃんの着替えが終わってな――」


 驚愕の表情を浮かべつつ花音が制止の声を出すも、しかしそれは虚しく空振りに終わり扉は開け放たれてしまう。

 そして、薄暗い雨空とは真逆となる実に晴れやかな笑顔をたたえた達也がその姿を現すと同時に、一切の躊躇ちゅうちょなく室内へと足を踏み入れるのだった。


「やあ、我が愛しの楓ちゃん! 起きているかな、起きているよね? けど、ずっと寝ていたせいでお腹が空いただろうし、汗もかなり掻いちゃっているだろうから、喉の渇きはきっと限界に達しているだろうさ。だから俺は、そんな君のために徹底的なリサーチを行い、ベストな食べ物と飲み物をチョイスして持ってきたよ! ――って、おや? 楓ちゃん、まだ着替えが済んでいなかったんだ。アッチャーイッケネー、俺ついつい先走っちゃったかも。ごめんごめん、テヘペロ!」


 まくし立てる達也が実に白々しい謝罪の言葉を口にする。

 無論、完全に確信犯だった。

 その証拠に、真っ裸で正座している楓を達也は両のまぶたをかっと見開き、まじろぎもせずに超絶凝視していた。それはもう目からビームでも発射せんばかりの灼熱の視線を、楓の滑らかなミルク肌で構成された小ぶりの双丘や臀部でんぶ、そして幼い腰回りや無毛の下腹部へと余すことなく注ぎ続けていた。


 だが、慌てふためく花音とは対照的に、楓は座ったままその白磁はくじの美顔を眉一つ動かさず、ただ真っ直ぐに達也へと目線を据えていた。

 そして全く微動だにしない楓が、おもむろに口を開く。


「失せろ、このクソたっつんが」


「いきなり酷い上に、その呼び方にはひしひしと悪意が感じられるよ、楓ちゃん!」


 楓から辛辣しんらつ極まる言葉を浴びせられた達也が、涙目で絶叫する。

 まさに、楓の一言が不埒ふらちな輩である達也を、華麗にノックアウトした瞬間であった。



 未だ降りやまぬ雨の日、そんなハプニングと共に、少しだけ騒がしい一日が過ぎるのだった――――
















大変遅くなり、申し訳ございません。

原因は、現在スランプ真っ最中となっており、仕事の忙しさや私事も重なってお話しが全然上手く執筆できなくなっている為です。

色々努力はしているのですが、如何せん文章が全然書けない状態が続いているので、お待ちして下さる読者様にはご迷惑をかけてしまうのが心苦しいです。

次話も遅れがちなるとは思いますが、何卒よろしくお願いします。

次こそは、今回長文により書ききれなかったお話しを書きますので、そこも合わせて待って下さると嬉しいです。

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