56.在りし日の女王と未来の皇帝
幼き皇族カイウス。彼は今、とても緊張していた。
彼は今、生まれて初めての公務の途中だった。帝国の代表として、隣国と交流を深める。それが今回、彼に課せられた任務だった。
……とはいえその隣国、二年前までは愚かな王によって治められていた王国は、とてもちっぽけで貧しい国でしかなかった。
しかしその王国には多くの街道が通っていて、陸の交通の要所となっていた。
他国を手にするための足掛かりとして、いずれはその王国を手中に収めたいと、帝国の者たちはそう考えていた。
そしてその王国は今、国としては瀕死の状態だった。いずれ立ち行かなくなるのは、火を見るより明らかだった。
適度に交流を保ちつつ、帝国の強さを誇示しておけば、いざという時に帝国を頼ってくるだろう。それに乗じて、王国を乗っ取ってしまえばいい。それが、帝国の皇帝や宰相たちの方針だった。
今回カイウスが王国を訪問するのも、そんな意図があってのことだった。彼は幼く、純真で可憐だ。王国の人間たちに好印象を与えるにはちょうどいい。
それに万が一カイウスがしくじったとしても、さほど影響はない。最悪戦争になったところで、あんな非力な王国など帝国の敵ではない。
だから皇帝たちは、今回の公務についてはとても気楽に構えていた。もっとも送り出された当の本人は、がちがちに緊張していたが。
「わたしが頑張らなくては……この帝国の、未来のために……」
彼には前世の記憶があり、六歳という年齢の割にはとても大人びていたが、さすがにこんな事態は生まれて初めてだったのだ。
豪華な行列に守られるようにして、カイウスを乗せた馬車は進む。カイウスにとっては果てしないように思われた旅の末に、とうとう王国にたどり着いた。
ああ、貧しいところなんだな。それがカイウスが最初に抱いた感想だった。王城の内装も、案内に立った文官の身なりも、ひどくみすぼらしいものに見えたのだ。
しかし謁見の間で、彼は息をのんだ。そこで彼を待っていた、美しい女性の姿から目を離せなかった。
髪は暖かな夕焼け色、目は優しい若草色。森の奥の泉のほとりに咲くユリの花を思わせる、清楚で気品にあふれ、でもどことなく寂しげな女性。
彼女こそがこの王国を統べる女王、エルフィーナだった。
「遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました。私が女王エルフィーナです」
「帝国の皇族、カイウスと申します。……あなたに会えて嬉しいです、エルフィーナ様」
頬をほんのりと染めてそう話すカイウスに、周囲の大人たちはみなこっそりと微笑んでいた。
それからカイウスは王国を視察し、その苦しい内情について知った。忙しいだろうに、エルフィーナはいつも彼に同行し、自ら説明役を買って出ていた。
そうやって仲睦まじく話す二人の姿は、まるで年の離れた姉弟のようですらあった。
あっという間に時間が過ぎていき、カイウスが帰国する前日になった。昼に別れの宴が開かれ、エルフィーナは精いっぱい彼らをもてなした。
そうして、その日の夜。翌日の出立に備え、帝国の人間たちがみな床についた頃。
カイウスとエルフィーナは、王城のバルコニーで話し込んでいた。
「もう帰ってしまうのね。寂しくなるわ。あなたが来てから、とても楽しかったから」
「わたしも、まだ帰りたくはありません。民を守りたい、民の力になりたいというあなたの思いが実を結ぶのを見たい……わたしがもっと大きければ、あなたの役に立てたかもしれないのに……」
しょんぼりとしていたカイウスが、ぱっと顔を上げる。自分よりずっと高いところにあるエルフィーナの顔を見つめ、一生懸命に言った。
「帰ったら、あなたに手紙を書きます。困ったことがあったら、いつでも相談してください。……わたしはまだ子供なので、できることはあまりありませんが」
またしても落ち込んでしまったカイウスに、エルフィーナは優しく笑いかける。
「いいえ。私のことを案じてくれる人がいる、それだけでとても嬉しいわ。傾いた国を立て直すのは、とても困難なことだから……ありがとう、カイウス」
その笑顔に、カイウスは見とれていた。けれどすぐにきりりと顔を引き締め、背筋を伸ばして口を開く。
「エルフィーナ様。わたしは、頑張って内政を学びます。そしていつか、またここに来ます。あなたの力になるために。どうか、待っていてください」
「まあ……その気持ちは嬉しいけれど……帝国の皇族であるあなたが、そんなことをしていいの?」
「駄目なのかもしれません。ですがわたしは、必ずあなたのもとに参ります」
エルフィーナは、その言葉が本気だとは思っていなかった。子供の微笑ましい思いつきだと、そう考えていた。数年もすれば忘れられてしまう、そういったものなのだと。
けれどカイウスは本気だった。いつかきっと、エルフィーナの力になる。彼の幼い顔には、決意の色が見て取れた。
「分かったわ、カイウス。立派になったあなたと会える日を、待っているわ」
「はい、エルフィーナ様。いつか、必ず」
そうして二人は、満天の星空の下約束を交わす。誰も見ていない、二人きりの約束だった。
それから、時は流れて。
数々の困難を乗り越えて、エルフィーナはやりとげた。彼女は血のにじむような努力の末に、民たちを飢えと貧しさから救うことに成功したのだ。
帝国の予想を裏切ったその成果が、彼女に破滅をもたらすことになるとも知らずに。
「……王国で、内乱、が……」
十一歳になっていたカイウスは、その一報に呆然と立ち尽くしていた。知らせを持ってきた魔導士ゾルダーが、沈痛な面持ちで言葉を続けている。
「間違いありません。誰もが滅ぶと思っていたあの国が持ち直したということだけでも驚きでしたが、まさか内乱により崩壊するとは」
内乱を扇動した張本人であるゾルダーは、そんなことを微塵も感じさせない表情でそう言ってのけた。
あの王国は、ただ待っていれば帝国のものとなるはずだった。けれどその目論見は外れてしまった。
だからゾルダーは、秘密裏にあの王国を崩壊へと導いたのだった。自分のためではなく、帝国のために。
「陛下はこの件を看過できないと判断されました。これより、帝国による介入が行われます」
「介入……」
もちろん、カイウスはゾルダーのしたことなど知るよしもない。彼の震える唇から、弱々しい言葉が漏れている。
ゾルダーは重々しくうなずいて、さらに答えた。
「はい、介入です。あの王国には、もはや統治者がおりません。そのため我ら帝国が代わってあの地を治めます。民たちも我らを歓迎しているようです」
その言葉に、カイウスが身をこわばらせた。何かをこらえるように、ぐっとこぶしを握っている。
「……以前より、カイウス様はあの王国のことを気にかけておられました」
ゾルダーは静かに目を細め、言葉を続ける。何も知らない者が見たなら、カイウスに同情していると思えなくもない表情だった。
「もしカイウス様が望まれるのであれば、かの地の統治をカイウス様に任せると、そう陛下はおっしゃっておられました」
「……分かった。その任、ぜひ私に。陛下にはそう伝えておいてくれ」
絞り出すような声でそう言ったカイウスに一礼して、ゾルダーはきびきびと去っていく。内乱の詳細について記した資料を置いて。
その後姿を見届けて、カイウスは寝室にこもった。誰も入ってくるな、と使用人たちに言いつけて。
そうして一人になったカイウスは、部屋の真ん中でぽつんとたたずんでいた。さっきの知らせが、まだ信じられなかったのだ。
ゾルダーが置いていった資料に目を通しながら、かすかな声でつぶやく。
「どうして、内乱なんかが……」
あの王国は貧しかった。しかしエルフィーナの努力により、少しずつ国は立て直され、民は富み始めていた。
しかし民は、そのエルフィーナの政策そのものに反感を抱いているようだった。かつて愚王に苦しめられた民は、エルフィーナのことを愚王の娘として、憎むべき存在として見ていたらしい。
「……五年前と、違う。愚王の記憶がより鮮明だった五年前、それでも民はエルフィーナ様を恨んではいなかった」
うわごとのように、彼はつぶやく。幼い頃、あの王国を旅した時の記憶を呼び起こしながら。
「エルフィーナ様は自分を犠牲にして頑張っていた。あの方が民を虐げるはずなどない」
あれからやり取りした手紙の数々。彼女は、苦労しながらも前に進んでいた。一度だけ会ったあの時の、優しい彼女のままだった。
「……まさか、誰かが故意に、民の怒りをあおった……?」
自分がたどり着いてしまったそんな結論に、カイウスは身震いする。窓の外、王国がある方角を見つめて。
誰がどうして、そんなことをしたのか。それは分からなかったけれど、一つ確かなことがあった。カイウスは手にした資料を、食い入るように見つめる。
彼女の本心を知ることなく、民は彼女を排除した。そうして今、彼らは勝利に酔いしれている。自分たちを守っていた女王の屍を踏みつけて。
そんな光景が、カイウスの頭の中にありありと浮かぶ。彼の金色の目から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
その涙を拭うことなく、彼は叫ぶ。王国の民に、呼びかけるように。
「違う、そうじゃないんだ! ……あの方は、お前たちの敵なんかじゃなかったんだ……あんなに慈悲深い方は、いなかった……誰よりも、お前たちのことを気にかけていた……」
できることなら今すぐにでも王国に飛んでいって、一人一人に言って聞かせたかった。
でも、そんなことはできない。彼は皇族ではあるものの、ろくな実績のない子供でしかないのだから。自分の言葉に、民が耳を貸すとは思えない。
力が、必要だ。彼は心からそう思った。エルフィーナの汚名を晴らすためにも、彼女の思いを継ぐためにも。
「俺が皇帝になる。あの方の、民を守るという思いを継ぐ」
自分自身に宣言するように、彼は高らかに言う。涙に濡れたままの目に、強い光が灯る。
「……そしていつか、この件の真相を突き止めてみせる。どうしてあの方が、死ななくてはならなかったのか……」
まだ幼さを残した彼の顔は、不釣り合いに凛々しく、大人びて見えた。




