54.ルルのごきげんな朝
ルルの朝は早い。
ジゼルのベッドのそばに置かれた木箱の中で、彼は夜明け前に大きく伸びをする。かぶっていた柔らかな布をきれいに畳んで、箱の中のクッションの上にそっと置いた。
手で顔をくしくしとこすり、毛並みを整える。窓ガラスに自分の姿を映して、満足げに微笑んだ。
そうして一通り身支度を終えた彼は、箱の片隅にしまってあったものをうやうやしく取り出す。
それはジゼルから、カイウスから預かったあの指輪が収められたリュックだった。
厳かな面持ちでリュックを背負うと、ルルは小さな声でちっ、と鳴く。
すると突然、ウサネズミたちがわらわらと姿を現した。彼らは、机の上に置かれた研究ノート、その表紙に描かれた魔法陣から出てきたのだった。
ちちっ、というルルの号令に、ウサネズミたちが整列する。まるで訓練を積んだ兵士たちのような、とても統率の取れた動きだった。
そうして彼らは、静かに部屋から出ていく。細く開けられたままの窓の隙間から、するりと音もなく。
あっという間に外に出て庭に降り立った彼らは、また隊列を組んで走り出した。
「今日も来たね、おチビさんたち。ほら、ちゃんと取ってあるよ」
ルルたちがまず向かったのは、厨房だった。朝食の準備のために、まだ暗いうちから料理人たちが忙しく働いている。
最近料理人たちは、ルルたちのために野菜の切れ端を取り置きしてくれるようになったのだ。
みずみずしいキャベツの芯をかじりながら、ルルはこれまでのことに思いをはせていた。こうやって、素敵な野菜にありつけるようになるまでのことを。
ルルたちウサネズミは、大体何でも食べる。
ジゼルは自分が苦手なベーコンの脂身をこっそりと分けてくれるし、プリシラは三時の甘いおやつをくれる。レイヴンも、酒の肴だとかいう塩味の木の実や干した肉をおすそ分けしてくれる。
みんな、故郷では食べたことのない素敵な味だ。
でもそれとは別に、やはりルルたちは植物も食べたかった。それも、調理していない生の植物を。
でもそのことを、ジゼルたちに伝えるつもりもなかった。三人には今まで通り、素敵なおやつを用意して欲しかったから。これ以上迷惑はかけたくないし、おやつを減らされでもしたら大変だ。
となると、後は自力で調達するほかない。だがここで、一つ大きな問題があった。
ルルたちの世界では、その辺に生えている植物は誰でも自由に食べてよかった。ところが、この人間の世界では違っていた。
指輪を守るという任務をもらってから、ルルは努力した。人間の世界で、人間のそばに居続けるためには、人間のことを知らなくてはならない。
そう考えた彼は、一生懸命に学んだ。絵本で人の文字を覚え、他にも色々な本をゆっくりと読み進めていって。
そのおかげで色んなことを知ったルルは、大いに困っていた。
今まで自分たちが何の気なしにかじっていたその辺の植物は、みんな誰かの所有物だったのだ。
花壇の花、畑の野菜。人間の世界では、そういったものを勝手にとってはいけないのだ。そうなると人の暮らす町では、食べられる草がほとんどない。
ジゼルに迷惑をかけないためにも、もうその辺の草を食べるのは控えなくてはならない。でも、植物は食べたい。諦めて、ジゼルに頼むしかないのか。
そう考えていた彼らは、厨房で野菜くずが捨てられているのを見てあわてふためいた。
どうして捨てるの、もったいない、あれ食べたいと大騒ぎする他のウサネズミをよそに、ルルはニンジンの一欠片を手にした。そうして軽やかな動きで、厨房のテーブルに飛び乗る。
料理人たちが目を丸くして、ルルを見つめる。彼らは一瞬ネズミが出たと思ったようだったが、すぐにルルが召喚獣だと気づいていた。
そんな料理人たちに、ルルはそれはもう優雅な動きで一礼してみせた。
そうして身振り手振りでお願いする。『これください』くらいなら、手旗信号がなくても通じる。
「……もしかして、この野菜くずが欲しいのか?」
「このネズミって、ジゼルお嬢様の召喚獣だよな……だったら、問題ないか……?」
ひそひそと話し合って、それから彼らはルルたちを厨房の片隅の机に誘導する。
「野菜を食べるのはいいが、危ないからここでな」
その言葉に、ルルは片手を挙げて元気よく返事をした。料理人たちはその姿に、顔をほころばせていた。
そんなこんなで、ルルたちは毎朝ここに野菜を食べにくるようになっていた。
今日も心ゆくまで食べた彼らは、机の上で整列し、一斉に頭を下げる。これもまた、毎朝のお決まりになっていた。
料理人たちの朗らかな笑い声に見送られながら、ルルたちは厨房を後にした。
腹ごしらえが済んだら、次は屋敷の警備だ。
もちろん、ここには人間の兵士もいて、いつも屋敷を見回っている。
しかし体の小さいルルたちにしかできないこともある。彼らは今日も意気揚々と、屋敷のあちこちを走り抜けていった。
人間の食料をかじりにきたネズミを説得したり、軒下に住み着こうとしている女王蜂を説得したり。
彼らは毎日、ひっそりとそんな活動にいそしんでいた。自分たちの友達であるジゼルを守るために。
彼らウサネズミは、賢く機敏だけれど戦うのは苦手だ。長い尻尾を振り回すか、小さく鋭い牙でかみつくか。できるのはそれくらいだ。
以前のルルは、自分が弱いことを気にしてはいなかった。自分たちは温厚な種族だ、戦うくらいなら逃げればいい。そう思っていたから。
けれど今のルルは、それでは駄目だと考えていた。あの内乱で、彼は指輪を守り切れなかった。ジゼルの期待に応えられなかった。
そのことを思い出すだけで、足を踏み鳴らさずにはいられないほどの悔しさがこみ上げてくるのだった。
逃げるためにも、守るためにも、最低限の力は必要だ。彼は近頃、ひしひしとそう感じるようになっていた。
頃合いを見て、セティに相談してみようか。ルルはそうも考えていた。
かつてルルは、セティのことをよく分からない人間だと思っていた。まだ子供なのに、やけに悲壮な顔で力を追い求めるセティ。
同じように難しいことをしているジゼルやアリアは、けれどとても楽しそうだった。でもセティだけは、いつも苦しそうだった。
その理由を、あの内乱を経てルルは知った。そうして彼は、セティに同情し、そして彼のことを見直していた。それと同時に、非力な者に戦える力を与える彼の武器を、感心しながら眺めるようになった。
あの機械弓を自分が使える大きさに縮めるのは、さすがに難しいだろう。
でも、あれだけのものを作り上げたセティなら、自分のための護身用の武器も作れるかもしれない。ルルはそんな期待を抱いていた。
ちちっ、ちっ。
物思いにふけっていたルルは、仲間の鳴き声で我に返る。
ほの明るくなってきた裏庭の生け垣の下に、ウサネズミたちが集まっている。困り声を上げながら。
みんなを安心させるように、ゆったりとルルが歩み寄る。ウサネズミの輪の中にいたのは、青い小鳥だった。
夜のうちに猫にでも襲われたのか、翼が傷ついている。疲れたように、地に身を伏せていた。
おびえ切っている小鳥は、ウサネズミたちが近づこうとすると必死に身をこわばらせて身構えていた。ウサネズミたちの話を聞く余裕すらないくらいに、気が立っているらしい。
こんなところに放っておいたら、今度こそ猫か何かに狩られてしまいかねない。
けれど血止めの草で手当てしてやろうにも、小鳥に近づけない。小鳥とはいえ、ルルたちよりずっと大きいのだ。
力ずくで押さえつけようとしたら、ルルたちも怪我をするかもしれない。
どうしよう? と困り果てたウサネズミたちに、ルルはどんと胸を叩いてみせた。
ルルはその場をみんなに任せ、大急ぎでジゼルの寝室に戻ってきた。
もうすっかり夜が明けていて、窓から差し込む朝日が、眠るジゼルの顔を優しく照らしている。
「ん……おはよう、ルル」
枕元の小机にルルが飛び乗ったかすかな音に、ジゼルがつぶやく。春の野の若草色の大きな目が、まだ眠そうにルルを見た。
それから彼女は、ゆっくりと身を起こす。小さくあくびをして、ううんと伸びをした。
夕焼け色のふわふわとした髪があっちこっちに広がって、とても可愛らしい。
ルルはぴしりと背筋を伸ばして、腰のベルトに差してある小さな旗を手にした。
『助けてあげて、怪我した小鳥、裏庭にいる』
旗を振って、そんなことを伝える。とたん、ジゼルは目をまん丸にしてぴょんと寝台から飛び降りた。
「案内して、ルル!」
ルルは大きくうなずいて、ジゼルを連れて走り出す。後ろからのぱたぱたという足音を聞きながら、ルルは満足げに微笑んでいた。
ジゼルは優しい。自分たち召喚獣を対等のものとして扱ってくれる。これはとても珍しいことだった。
他の人間に召喚されるともっとひどい目にあうのだと、ルルはそう聞いている。自分の世界にいる、他の獣たちから。
そしてジゼルの優しさは、他のものたちに広く注がれている。
彼女は夜が明けてすぐに、小鳥を助けるために走っている。寝ていたところを起こされたことに、文句一つ言わずに。寝癖のついた髪と、寝間着のまま。
自分たちは、本当に素敵な人間と縁ができた。彼女がくれる優しさの分、彼女を守っていこう。
裏庭に駆けつけた二人を、ウサネズミたちが大喜びで出迎えていた。




