愛の形
ドアが開き、最後に見た時よりも少し窶れたシェリーの顔を見た瞬間、思わず彼女を抱き寄せていた。
「……たった三日、君の顔を見なかっただけで気が狂うかと思いました」
月に一度会えるだけで満足していた頃が、信じられない。この数日間、朝から晩までシェリーのことを考えていた。
何故こんなにも彼女を好きなのか、自分でも分からない。気が付けば俺の世界の中心はシェリーになっていた。
小さな声で「ごめんなさい」と呟いた彼女は今、一体何を考えているのだろう。とにかく話をしなければと思い、俺の部屋で話をしないかと言えば、小さく頷いてくれた。
自室へと移動し、シェリーの好きなフルーツティーを用意させると、メイドはすぐに部屋を後にした。
二人きりの部屋で、テーブル越しに向かい合った彼女へと視線を向ける。その目は、赤く腫れていた。自分のせいで泣いていたのだろうかと思うと、胸が張り裂けそうになる。
「泣いていたんですか」
「……本当に、すみませんでした」
「シェリーが謝ることなど、何もありません」
彼女が何に対して謝罪しているのか、わからなかった。シェリーに悪い所などない。すかさずそう答えれば、彼女の瞳が悲しそうに揺れた気がした。
……一体、どこから話せば良いのだろう。今まで俺は彼女に何一つ大切なことを伝えていなかったのだと、今更になって思い知らされていた。
「両親の話から、してもいいですか」
その言葉に、彼女は頷いてくれて。俺は緊張を吐き出すように小さく深呼吸をすると、改めて口を開いた。
「……母は、とても心の弱い人でした」
母とは口にしたけれど、彼女を母だと思ったことはない。俺を育て、気にかけてくれたのは乳母やメイド達だった。彼女との家族らしい思い出など、何ひとつないのだから。
「母は18の時に初めて参加したパーティで、酒に酔った父に声を掛けられたそうです。酒の勢いで嫁にもらいたいと言った父の言葉を、箱入り娘だった母は鵜呑みにしました」
父はひどく酒に弱く、悪酔いをしてしまうため、日頃から絶対に飲まないようにしていた。
けれどその日は悪ふざけをした友人達によって、無理やり飲まされてしまったという。翌日起きて記憶もなかった父は、母の存在すら覚えていなかった。
「父は本当に綺麗な顔をしていましたから、母は一瞬で恋に落ちました。運命の人が現れたのだと、嬉しそうに周りに話していたそうです。けれど待てど暮らせど、婚約の申し込みは来ない。そして母は、父に婚約するつもりなどなく、その上将来を誓う恋人がいること知りました。初めて会った日からずっと父に思いを馳せていた母はやがて心を病み、体調を崩してしまったんです」
父も母も、誰よりも美しい整った顔をしていた。
彼らに感謝していることと言えば、そのお陰で俺も見目が良く産まれてきたことくらいだろう。シェリーはこの顔をいつも綺麗だと、好きだと言ってくれていたのだから。
「当時侯爵だった祖父は可愛い娘を弄ばれたと怒り、責任を取れと父に詰め寄りました。結局父は逃げ場がなくなり、押し切られる形で婚約が決まってしまった」
たった一度、酒の勢いで言った記憶もない一言が、父の人生を狂わせたのだ。後悔してもしきれないだろう。
たとえ口約束だったとしても、可愛い一人娘が心身共に病んでしまった祖父の怒りは相当だったという。当時の伯爵夫妻も祖父を恐れ、必死に父を説得したと聞いている。
「やがて二人は結婚し、俺が産まれました。けれど父は元恋人のことが忘れられず、母も、母から産まれた俺に対しても愛情は抱けないようでした。いつか父の愛を得られると思っていた母は、少しずつ壊れていきました。時にはヒステリーを起こし、妄言を吐き、自傷行為までして」
母が俺を産んだのも、跡取りを欲しがった父の為だ。それ以上でもそれ以下でもない。
髪を振り乱し、訳の分からないことを口走り、時には笑い続ける母の姿は、子供ながらにとても恐ろしかったのを覚えている。あれが自分の母親だなんて、信じたくもなかった。
「やがて父はそんな母を見捨て、家を出て元恋人の元へと行きました。母は魂が抜けたように虚ろになり、父に似ている俺の顔を見るのが辛いと、避けるようになりました。そして俺が成人したのを機に、逃げるように屋敷から出て行き、それからは一度も会っていません」
愚かな母は、きっと今も父を好きなままなのだろう。
一度だけ、どうしてそんなにも父が好きなのかと聞いたことがある。母は泣きそうな顔で「もう理由なんてわからない」と笑っていた。
母が抱える執着にも似た愛の形は、息子である俺にも受け継がれているのだろう。俺がシェリーに対して抱いているものはきっと、彼女が父に向けるものと同じだ。
重くて暗くて、痛くて苦しいような、そんな愛情だった。
「本当に父は、どうしようもない男なんです」
何もかもから逃げた彼もまた、どこまでも自分勝手で、弱い人間なのだろう。
そして父親らしいことなど何一つしてくれなかったくせに、都合のいい時だけ父親面をして俺を利用するのだ。
「……そんな両親を見てきたからこそ、俺は誰のことも好きにならないと誓いました。そんな感情は無駄でしかないと」
愛や恋など、くだらない。そんな感情を抱いて愚かになる自分を見たくなかった。母や父のように、誰かを傷付けたくなかった。そう言い聞かせてきた、のに。
「けれど俺は、君を好きになってしまった」
俺のその言葉に、ずっと黙って聞いてくれていたシェリーの瞳が、大きく見開かれる。
誰かを、彼女を好きになるつもりなんてなかった。けれどシェリーは少しずつ俺の中に入り込んで来て、いつしか彼女でいっぱいに満たされてしまっていた。恋情とは理屈なんかではないのだと、身を以て思い知らされた。
「魔法学園の最終学年に上がった時点で、婚約者となる相手は決まっていました。数回顔を合わせただけの、父が選んだ相手です。君と一緒になりたいといくら頼んだところで、既に決まっている話を、父が許してくれるはずがなかった」
彼は誰よりも、損得勘定でしか動かない人だった。
「父が誰よりも騎士に憧れていたのは、祖父母から聞いて知っていました。けれど魔力がほとんど無かった父は、何度も試験を受けては落ち、やがて諦めたそうです。子供の頃には、俺の魔力量を知った父に騎士を目指せと言われました。けれどそれを知った祖父母が、強制することではないと父を止めてくれ、俺は自分の夢を追うことが出来ていました」
なんでお前だけ、と悔しそうに呟いていた父を思い出す。騎士が何なのかすらわからない幼い息子に嫉妬してしまう程、父は騎士になりたかったのだろう。
「だからこそ俺が騎士になると伝えた時には、初めて父の心からの笑顔を見た気がしました。そしてその代わりにと、シェリーとの婚約を認めるよう頼んだんです」
俺が父に切れる唯一の交渉のカードが、騎士になることだった。父が果たせなかった夢を息子が代わりに叶えるなんて、何も知らない他人が聞けば美談であろう。
そして父は結局、首を縦に振った。
「すぐに辞めてしまっては困ると思ったんでしょう、父は師団長になるまで婚約は認めないと言い出しました。そして自身の経験から、それまでは君に好意を伝えることも禁じられたんです。師団長になれなかった場合、後から責任を取れと男爵家に言われては困ると」
けれどそんな条件を飲むくらい、俺には自信があった。シェリーは何も言わずとも、ずっと自分を好きで居てくれるという、根拠の無い自信が。
「けれど俺自身、両親を見ているうちに、好意を言葉にするのが怖くなっていたのかもしれません。好きだと、一緒になりたいと伝えて、責任も取れないうちに君の人生を変えてしまうかもしれないのが、怖かった。だからこそ君の好意に甘え、父との約束のせいにして俺は何もせずにいたんです」
結婚適齢期の女性にとって、三年という時間はとても長いものだっただろう。シェリーの気持ちが変わってしまうのも当たり前だと、今更になって思う。全て、俺が悪い。
それでも。今更遅いとわかっていても、伝えたかった。
「シェリー、愛しています。一生、君だけです」
精一杯の、心からの気持ちだった。
そしていつの間にか彼女の茜色の瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出していた。




