第六章 97.海戦(一)
「お子様が無事誕生なさいました」
使者はエウゲネスの妻、王妃ルルディの第二子となる王子の誕生を知らせるものだった。
リマーニ港の監視所にもたらされた知らせに、マグヌスは分かっていても内心の動揺を抑えきれない。
マグヌスは港の責任者として、早馬をとばして来た使者を労い、トラス島の前線基地にいるマッサリア王エウゲネスに早舟を送る。
「第一王子テオドロス様のときには砂糖をお贈りできたのだが……」
「二人目、三人目となると、我が子でも手を抜いてしまうもの。ましてやマグヌス殿は遠くアルペドンを預かる身」
中年の使者はヒゲに埋もれた顔を崩して笑った。
マッサリアとアルペドンは遠い。
心は離れておらず、永遠の忠誠を誓っているものの、出産の知らせを受けるまで何もできなかったのが悔やまれる。
「しかし、吉兆ですぞ。以前、アルペドンの王都を攻めた時も、テオドロス様ご誕生の知らせから戦いは我らに有利に進みました」
皆に喜ばれて生まれてくる王子と、母にまで疎まれるマルガリタの子と……。
マグヌスの内面の苦悩には気づかず、使者は好奇心を丸出しにして彼に頼み事をした。
「港を見せていただけませんか? 話題に聞く我らが艦隊をこの目でしかと」
「半分はすでにトラス島に派遣済みですが、どうぞ」
港の半分以上は、通常の貨物船で占められていた。
残り半分に約四十隻の三段櫂船。
「これは……巨大だ」
使者は初めて見るのだろう、三段櫂船の船尾に手を触れてみながら感嘆した。
「次の満月までに、全ての三段櫂船が出港し、最期の船に私が乗ります」
「言葉を伝えるしか能の無い儂じゃが、頑張ってくだされ。今年の乏しい実りの中から、精一杯の兵糧を送りましたので」
「凶作、ですか?」
「そこまでは。ただ、皆、来年の実りを不安がっておる」
これまでは、多島海の島伝いに、南の国からもたらされる穀物──特に小麦──に頼ることができた。
しかし、多島海の半分以上、特にアッタリア水道をルテシア海賊に支配されている現状、麦の不作が重なると国力は落ちる。
「アッタリア水道という海の要衝がありまして……」
マグヌスは、使者に語る。
「次の戦いは小競り合いではなく、この要衝を巡るものとなります」
「陸で言うなら峠道のようなものですかな?」
「そうです。朝から吹く北風が山に遮られて我々には常に順風、しかしながら、海水の流れが、時間によって変わる」
「うむ。船にとっては一大事じゃな」
「この自然の理を味方にした者が勝者となりましょう」
それに備えて、テトスはアッタリア水道近くの小島を占拠し、そこに人員を配し、食料や船の補修の材料を備蓄することにした。
テトスの要請に応えて、マグヌスがリマーニ港から貨物船を送る。
決戦を次の夏と思い描いていたルテシア海賊に対し、マッサリア海軍はこの夏に雌雄を決する構えでいた。
「なるほど、後方にいても、戦いが手に取るように分かる」
それだけでなく、マグヌスの間近にいて多くの将官たちと触れたことで、ヨハネスの口調も立場にふさわしいものに変わっていった。
「なるほど、こういう言い方にすればよいのか」
教育と知識によって、自分自身の変化に驚くヨハネス。
そんな彼の戸惑いや成長を、微笑を浮かべて見守るマグヌス。
腕力を振るいたがっていたヨハネスが、隊長の風格を身につけた頃には、輸送の大半は終わっていた。
夏も盛りを過ぎる頃の明け方だった。
「さあ、ヨハネス、最後の三段櫂船だ」
「いよいよですか」
「遅れるなよ」
「同じ船に乗っていて、どうやって遅れるんですか!」
マグヌスは、船尾の指揮所から、港に手を振った。
「使者殿、お見送り感謝します。王妃様によろしく!」
「心得た。海の神と乙女たちに幸運を祈る!」
リマーニの港が遠くなってゆく。
この風景を見られるのは、甲板に上れるわずかな者だけ。
一隻あたり百七十名のルテシアの解放奴隷が甲板の下で、重い櫂を漕ぐ。
勝って生き残れれば、マッサリアの市民権を約束された者たちだ。
「櫂を上げろ、帆を張るぞ」
船長の合図に、櫂を手繰り上げ、一息つく。
「生き残れると思うか?」
「生き残ってみせるさ」
「沈められたら、海賊に助けてもらうさ、味方だと言ってな」
マグヌスは、わざと大きな咳払いをした。
「聞こえてるぞ」
「マグヌス将軍なら問題ねえ。俺たちの思惑なんざお見通しさ」
ヨハネスが伸ばした槍の石突で、漕ぎ手の頭を叩く。
「そんな心積もりなら、メラニコス将軍の船に変えてもらうぞ」
しん、と船の中は静まった。
波音。
船のきしむ音が入り交じる。
戦地に赴く緊張を徐々に高めながら、三日かけてトラス島に到着した。
「マグヌス! 誤解は解けた。私と一緒に王の元へ!」
竜将ドラゴニアが、渡り板を降りたばかりのマグヌスの手をとって引っ張った。
「なぜ、植民市撤退は計略だったと言わぬ? ゲナイオスが全部説明し直す羽目になったぞ」
「……敵船の数はいくらになりましたか?」
「驚くなよ。我々と同じ八十隻だ」
「八十……」
「王もお喜びだ」
そこまでとは。
「いえ、私がリマーニに残ったのは適材適所ですから」
エウゲネスの間近に老将ピュトンの姿を見出して、つい言葉が出る。
「マグヌス、ご苦労。総員、三日後にここを立つ。良く休んでおけ」
軽く言葉を掛けると、エウゲネス王はピュトンと共に歩み去った。
「気にするな。王も一度叱責した手前、バツが悪いのだ」
「ありがとう、ドラゴニア。ということは、決戦は五日後」
「天候によってはそれ以降。王はピュトンの消えぬ火を試したがっていらっしゃる」
それは、王とピュトンに任せて、自分は自分の役目を果たすだけ、と集中する。
三日の休養の後、トラス島に残っていた五十の三段櫂船が動き始めた。
もう、無駄口を叩ける者はいない。
マグヌスは、後列を任さえ二十隻を指揮することになった。
一日おいて、いよいよアッタリア水道が見えてくる。
船影は無い。
「明日朝から総攻撃」
テトスから指示が来た。
彼が占領し、維持してきた小島の周りで休息を取る。
テトスのことだ。
探りを入れてルテシアの三段櫂船を確認しているのだろう。
「潮の流れは?」
マグヌスは伝令を飛ばして問い返した。
「昼前は順。後は逆」
簡潔な返事が返って来た。
ということはルテシアにとっては朝方が不利で、潮に乗れる昼から後が有利ということになる。
帆柱まで取り払っておけば、風向きはさほど重要ではない。
「昼前に勝敗を決するということか」
夏の夜は短い。
緊張のうちに、ほとんどが眠れぬまま夜明けを迎えた。
「船列を整えよ」
伝言が飛んだ。
マグヌスは最後尾につける。
「前列進め!」
しかし、ルテシア側は、半ば船列を組んだまま、アッタリア水道の影に隠れて出て来ない。
「前列……どうした?」
マッサリア海軍は風と潮の流れのままにアッタリア水道に半ば入り、そこで停止している。
時だけが過ぎてゆく。
太陽は無情に天頂に達した。
「潮が、変わる!」
船長が叫んだ。
待っていたかのように、アッタリア水道の反対側の入り口に、ルテシアの三段櫂船が船列を組み、潮の勢いに乗って進み始めた。
双方の距離が、みるみる縮む。
「今だ!」
エウゲネスが号令を発した。
ついに決戦の時……しかしエウゲネス王はあえて有利な潮目を逃します。その目的は……
次回 第98話 海戦(二)
をお楽しみに。木曜夜8時ちょい前をよろしくお願いします。




