第六章 96.彼女なりの理由
ルークがマグヌスの元に旅立つ少し前。
アルペドンの王宮で、マグヌスの形だけの妻、マルガリタは孤独な日々を送っていた。
月のものが止まり、悪阻が始まり、明らかに妊娠の兆候が現れていた。
「誰にも言わないで」
彼女は見張りの侍女に哀願した。
腹の子の父親は、インリウムの僭主の息子、飛び地の管理に派遣されていた青年、オレイカルコス。
マグヌスの暗殺に失敗して逃亡を計り、城の屋根から転落して死んでいる。
監視役だった口のきけない侍女はもちろん、手真似でルークにマルガリタの妊娠を告げた。
「マグヌスに知らせて来る。マルガリタ、覚悟して待ってるんだな」
「無礼者!」
軟禁されてみて、マルガリタは初めてマグヌスの怒りの激しさに気付いた。自分の立場の弱さにも。
「どうしよう」
腹の子は日々育つ。
マルガリタは食事を抜いてみたが、一日しか我慢できなかった。
侍女は口がきけないかわりに、さっぱりした果物などを出して、気を使う。身体がだるくて入浴できなければ拭き清めてくれる。
マルガリタはそれさえ苛立たしく感じた。
父を殺し、母を連れ去って奴隷にしたマッサリア王国。
自分は奴隷にこそされなかったが、死刑囚の烙印を押されたマグヌス将軍などと結婚させられた。
思い出すたび怒りは湧きおこる。
同じアルペドンの血を引く──マルガリタには甥にあたる──オレイカルコスが現れたのは、天啓だった。
熟れた女性の魅力を持つマルガリタと血気にはやるオレイカルコスが、マグヌスの不在を良いことに王宮で接近し、結ばれたのはむしろ自然の成り行き。
しかし、宰相ゴルギアスまで巻き込んで、マグヌスを排そうとした計画が失敗に終わったのは、すでに述べたとおりである。
ルークが戻ってくるまで、マルガリタは生きた心地がしなかった。
「出歩いてもいいとよ」
戻ってくるなり、ルークはマルガリタに告げた。
女の部屋に主人以外が入るのは不敬に当たる。
「え、なんと?」
「だから、マグヌスは、お前を自由の身にしたんだよ。前のように、好きな侍女を集めて気楽に暮らせ」
不敬を咎める前に、マルガリタは不信を持った。
「マグヌスが私を許すと?」
「勘違いするな。お前たちを許したわけじゃない。腹の子に罪は無いと、マグヌスの野郎は言っただけだ」
苦々しく付け加える。
「甘い奴だぜ」
へなへなと、マルガリタは寝台に崩れ落ちた。
それから間もなくして、マルガリタは、あの口のきけない侍女ではなく、彼女を慕う昔からの侍女に取り囲まれ、住み慣れた西の館の一室へ運ばれた。
久しぶりに見る中庭の日差しが眩しい。
季節は盛夏に移ろうとしていた。
「マルガリタ様、おいたわしや。まるで練り粉のような血色の悪さ」
「腹の子が生気を吸い取ってしまうようだわ」
「まあ、身重の妻を閉じ込めるなんて、なんて酷い夫」
「そうですよ。自分は醜い侍女を猫かわいがりして」
マルガリタは手を上げた。
「そのくらいにして、宰相ゴルギアスを呼んでくれる?」
「はい、失礼しました」
ゴルギアスが来る前に、マルガリタは最も信頼している老いた侍女を呼び止め、そっとささやいた。
「子を堕ろせる産婆を探しておくれ。呪い師も」
「マルガリタ様……」
「子が産まれても、どんな扱いを受けるか分からない。この私を平然と閉じ込めておいたマグヌスのやり口を考えると……」
これは無かったことにして、すべてを消し去ってしまいたい。
「マルガリタ様、このたびは……」
ゴルギアスも言葉につまる。
マルガリタの苦悩もわかるが、ゴルギアスにはもう、マグヌスを裏切る気はない。
「子が流れてくれれば良いのだけれど」
「何ということを!」
「産まれても殺されるだけなら、産まれて来ないほうが幸せでは?」
マルガリタは憂いを含んだ顔に落ちかかる後れ毛を払った。
「姦通の証拠の妊娠、これを罪に問うてマグヌスが私をどうするか……考えただけで恐ろしい」
人は、自分の尺度で他人を測るもの。
子に罪は無いと言ったマグヌスの言葉はマルガリタの心に響いていない。
「マルガリタ様、お忘れになってはいけません。マッサリア王エウゲネス様が、お二人を夫婦と定めていらっしゃいます。マグヌス様もそれには逆らえません」
ほう、とマルガリタはため息をもらした。
「憎いマッサリアの王に運命を握られているとは、皮肉なもの」
「今は忘れなされませ。そして、無事、出産なさいますよう。そうだ、安産を祈願する祭壇を設け、捧げ物をいたしましょう」
「やめて! 皆に知らせるようなものでは……」
「アルペドンの王女の出産を祝わぬ民がいるでしょうか?」
「アルペドンの王女……」
ゴルギアスは目を閉じて、しばし念じた。
「マグヌス様が私に知らせても良いと判断されたということは、すなわち、広くアルペドンの民に知らせよということ。いっそ、皆に知らしめてしまえば、マグヌス様も無碍にはできません」
ゴルギアスは独りでうなずいた。
「待って、そうではない……」
「触れを出すにふさわしい日を占わせます」
「ゴルギアス! 待って!」
彼はマルガリタの部屋から去っていった。
「誰も、彼も……」
マルガリタは、自分の無力さに泣いた。
「お母様……お姉様……助けて」
そして腹の子を憎んだ。
「お前さえいなければ……」
悪阻の吐き気で苦しい。
それさえも子のせいと、彼女は憎んだ。
マグヌス、マルガリタの思いをよそに、事態は動きます。子どもの運命が心配ですね。
次回 第97話 海戦(一)
いよいよ、ルテシアとマッサリアの海軍が正面衝突へ!




