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第六章 94.植民市の罠

 五十櫂船の船首で小用を足しながら、植民市の指導者ゲナイオスは密かに笑っていた。


(あの後、どんな展開が待っているかな)


 占領して五年、守り続けた地を手放すのは惜しいが、勝算の見込みの無い戦いで名誉だけのために命を落とすのは避けたい。


 それに、マグヌス将軍の計算通りに植民市には罠を仕掛けてきた。


 守護神の聖火の移動を済ませ、撤退の目処がつくのを見届けて、ゲナイオスは、これまで何度も槍を交えたエンコリオスのもとへ赴いた。


「我々はこの地を去ります。都市はそのまま明け渡しますれば、早く兵を配置されよ」


 土着の領主は疑り深い目を向けた。


「騙し討ちではあるまいな」

「これをご覧になっても?」


 銀の光が領主の目を打った。

 この地では、金貨一枚は銀貨三枚に匹敵する。

 銀は高いのだ。


 これにはもう一つ絡繰(からく)りがあって、金貨は爪の先ほどの大きさなのに対し、ゲランス銀山の銀貨は遥かに大きくずしりと重みがある。


「我らがゲランス鉱山から届いたばかり」


 誰かに磨かせたのか、鮮やかに光る。


「追い討ちは無用に願います」

「お主との雌雄を決せぬままというのは心残りだな」

「それはこちらとて同じ」


 手を握りあって、両雄は別れた。


(あの罠がどう発動するか)


 青い海に放物線を描き終えると、彼は上機嫌で甲板の後ろの指揮所に戻った。


 北に進むにつれ、出会う海賊は友好的になり、航行は楽になった。


「なるほど、海の支配権を得るとはこういうことか」

「先の南征の折、私が時期尚早と申し上げた理由を理解していただければありがたいです」

「うむ」


 ゲナイオスはマグヌスとすっかり打ち解け、率直に話をする。

 

「さすがは、大図書館のメラン殿に認められた御仁よ」

「いえいえ、撤退時のあなたの采配こそお見事」


 出会った当初の険悪さはどこへやら、腕相撲に興じ、順調な船旅の無聊を慰める二人であった。


  

 さて、ルテシアの三段櫂船はナイロでの補給を終え、気まぐれな潮の流れを拾いながら、大陸の岸沿いをゆっくり西進した。

 ナイロで雇った水先案内によると、砂浜は少なく、船がつけられるような所は人の手が入り、すべて港になっているとのこと。

 

 (いかり)を上げて五日、艦隊はマッサリアの植民市の一つに到達した。

 最初に上陸したのは重装歩兵。

 港は、シンと静まりかえっていた。


 港と市の壁の間に遮蔽物(しゃへいぶつ)は無い。


 ヒッポダモスは最初の都市に接近して唖然とした。

 賑わっているはずの広場(アゴラ)にも、評議会議事堂にも誰一人いない。


(襲撃は察知されたな)


 伏兵を警戒して周囲を探らせた後、彼は大胆に手近な屋敷の門を開け、中に入ってみた。

 暴風が襲ったのかと思うほど室内は乱れていたが、やはり人の気配は無い。


 さらに奥へ。

 怯えた女の奴隷たちが数人、悲鳴を上げた。


「主人はどこだ?」

「行ってしまいました……」

「どこへ⁉」

「わかりません」


 彼は部下に命じて探索させたがどこも似たようなものだった。


「戦わずして落としたぞ!」


 ルテシアの船から続々と漕ぎ手が降りる。

 港に付けきれない船からは泳いで陸に渡る。


「俺たちの領土だ!」

「おう、トラス島の仇を取ったぞ!」


 彼らは喜びを爆発させた。


「植民市は、まだ二つ残っているわ。気を許さないで」


 ソフィアの言葉も耳に入らない。


「狭い島ぐらしには飽きた! ここで休息だ!」


 海賊とみなされて行動制限を受け、ナイロでは十分に伸ばせなかった羽根を、ここで思う存分広げる。

 てんでに民家に入り込み、残っていた奴隷たちに指図して宴会の用意をしてしまう。

 かと思えば、早くも生の酒に酔い動けなくなる者も……。


「誰か、次の市の様子を見てきてちょうだい!」


 (たま)りかねたソフィアの声に、ヒッポダモスが、いやいや起き上がった。


「どうせ同じですぜ」

「嫌な予感がするの。お願い」


 ヒッポダモスは、部下を派遣した。

 果して、その部下は帰って来なかった。


 ──深夜。


「やはり、敵将ゲナイオスが逃げたのは計略だったな」


 エンコリオスは、ニヤリと笑った。


「見たか、港の船の数々」


 真っ黒な(ひげ)を生やし、鹿毛の馬を同じく真っ黒な影にして……。


 槍を運ぶ奴隷の頭を、意味もなく叩いた。

 上機嫌の印である。


「しかし、我らの思うがままよ」

「乗るのですか、マッサリアの計略に!」

「我らの父祖の地を取り戻して何が悪い? すでに二つの市は更地にしてのけた。ここも同じ目に合わせるのだ!」


 彼らは、戦いの雄叫びを上げた。


「突撃!」


 彼らは、戦列を組むこともなく、先を争って門に殺到した。




 最初に異変を感じたのは、不安に眠れぬ夜を過ごしていたソフィアその人だった。


「敵よ! 起きて!」


 隣の部屋で寝ていたヒッポダモスを揺り起こす。


「マッサリアの連中はいないはず……」

「あの声を聞いて!」


 我に返ったヒッポダモスが聞いたのは、紛うことなき軍馬の(いなな)き、剣戟の音、くぐもった悲鳴。


「ソフィア様は船へ!」


 手早く鎧を身に着けながら、ヒッポダモスは隣でまだいびきをかいている仲間の横腹を蹴り上げた。

 ルテシアの兵士たちにとっては、完全な不意打ちだった。


「船へ戻れ」

「船を守るんだ」


 雪崩をうって港に駆け戻る。

 しかし、整然と接岸していなかったのが災いして、自分の船がどれか分からない。


 エンコリオスは、その三段櫂船に火をかけた。

 皮肉なことに、ルテシアの漕ぎ手は味方の船が燃える明かりで、自分の持ち船に乗り込む。


「拍子取り、どこだ!」


 船長が、櫂の拍子を合わせるのに不可欠な太鼓打ちを探して声を上げる。


「俺が代わりをやりますから、出港を!」

「ようし、出港!」


 出ようとすると、今度は隣の船と櫂が絡む。


「どけー!」

「そっちこそ邪魔をするな!」


 およそ軍隊とも思えぬ罵声が響く。

 それでも、一隻、また一隻と、ルテシアの三段櫂船は暗い海へ出港していった。


「ああ!」


 ソフィアは、事の成り行きに絶望の叫びを上げた。




冒頭のシーン、お食事中でしたら失礼しました。


次回 第95話 父なき子


マグヌスがパパになるかもしれない! そんな馬鹿な!

の展開です。

来週木曜日夜8時ちょい前をお楽しみに!

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― 新着の感想 ―
[良い点] ソフィアの牙城が切り崩されていきますね。少しの油断も命取りなのだなと、拝読していて感じます。 次回の内容が気になります。
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