第四章 74.あの、なつかしい声
マッサリア王エウゲネスに決定的な別れを宣告され、悲しみにくれるテラサを宿に送ったあと、マグヌスは遅く出た月に照らされた道を一人で歩いた。
祭りでもなければ夜に外出する人は無く、彼は孤独を噛み締めながら自分の幕屋への道をたどった。
と、後から小さな足音が付いてくる。
彼が立ち止まれば立ち止まり、歩き出せば歩き出す。
「……何者だ」
彼は一気に剣を抜き、後ろを向いた。
黄色いオオカミがいた。
「お前か……」
「そうだ。私だ」
「お前は、テラサの薬湯で消える幻覚ではないのか?」
オオカミは笑った。
「幸せ者よ……空の巣に蛇が入り込んでいるのを知らぬとは」
「何だと」
「私は薬では消えぬ。現れたいときに現れる」
「消えろ!」
マグヌスは剣を振るった。
オオカミはスッと石畳の道に吸い込まれるように消えた。
(不吉な……空の巣に蛇とは何だ?)
テラサの言うように単なる幻覚とは思えず、マグヌスは一晩考えを巡らせて過ごした。
翌朝。
マグヌスは案内されて、北の館に入った。
ルルディとの対面の場には相変わらず正面にベールが張ってあり、館の主と訪問者の間を隔てていた。
「テオドロス、ばあやを棒で打ってはなりません」
突然声がしたと思うと、ベールを上げて足元のおぼつかない一人の幼児が飛び出して来た。
「お待ちなさい、テオドロス」
続いてベールの向こうから現れた女性……。
マグヌスは息を呑んだ。
女性は幼子を取り押さえ、ため息をついてはっと動作を止めた。
「マグヌス!」
「ルルディ様……」
そのすきに幼いテオドロスは母の手から逃れ、マグヌスの背に隠れた。
「ベー、だ」
マグヌスはできるだけそっとテオドロスの腕をつかんだ。
「王子様、母上を困らせてはいけません」
「はなせ!」
テオドロスはバタバタと暴れたが、もとより大人の力にかなうわけもなく、母たる王妃ルルディの胸に抱かれた。
「元気な王子様でいらっしゃる」
「身のこなしも言葉も早いんですの。かえって困っておりますわ」
ルルディは王子を見せる体で、さりげなくマグヌスの脇に寄り添った。
子をなしても相変わらず美しい。
テオドロスは指を吸いながら大人しくしている。
「子どもはかわいいものですね。マグヌス、マルガリタ王女とは仲良くお過ごしですか」
マグヌスは目を伏せた。
順調なら、懐妊の知らせがあっても不思議ではない頃合いなのに、マグヌスは、王女マルガリタには指一本触れてさえいない。
そんな様子に気付いてか気付かずか、
「私よりも、この子のばあやがマルガリタ王女のことを心配していますわ。なんと言っても実の娘ですから」
そう、元アルペドンの王妃は戦争捕虜としてマッサリアの王宮に連れて来られていた。
最初は侍女長だったはずだが、王子のお相手に変わったらしい。
敗者の運命とはいえ、一時は栄華を極めた者のたどった道……。
ルルディは同情していた。
「ばあやをここへ」
気品のある老女が案内されてきた。
男性の訪問者と直接顔を合わせて良いものかとためらっている。
「ばあや、マグヌスです。マルガリタ王女の夫の……」
元王妃の表情に今までにない精気が蘇った。
「マグヌス様、初めてお目にかかります。娘は……マルガリタは元気でしょうか?」
声が震え、涙があふれる。
「マルガリタが戦争捕虜の辱めを受けずに済んだのが私の唯一の救い……」
「マルガリタ様はお元気です」
「あなたと……その、夫婦としては……あれはわがままに育ちましたので」
マグヌスは苦笑いしかできなかった。
「夫婦の間には人には言えぬこともあります。母君であっても」
そうかそうかと元王妃は首を振る。
マグヌスはシワだらけの手を取った。
「マルガリタの不幸を望んではおりません。それはお約束できます」
「ありがたい。よろしく頼みます」
「承知しました」
ルルディが、わざとらしく言った。
「あぁ、いけないわ、私たち、直接お話ししてるじゃない」
「王妃様、ベールの方へ」
「待って、マグヌス、なにか私に用があったのでしょう?」
「はい……いいえ、用と言うほどのことはありません」
ルルディが大切にされていること、幸せなことは、ひと目でわかった。
(兄王が羨ましい)
王位を得、
広大な領土を得、
優しく美しい妻を得、
元気な跡継ぎを得て……。
(謀叛を起こしたくなるのは、こういう時か)
マグヌスは自嘲した。
(ついて来るものがいないではないか)
第一、やっと戦乱から逃れられた市民たちを再び戦火に晒してはならない。
「ルルディ様、お時間をいただき、ありがとうございました。これからまた、アルペドンの復興のために力を尽くしたいと思います」
「私にもなにかできることがあれば良いのだけれど」
「お言葉だけで十分です」
「身体に気を付けてね。あなたは時々無茶をするから」
「恐縮です。……お言葉を聞けて良かった」
マグヌスは王妃の前から下がった。
根拠があるわけではないが、黄色いオオカミの言葉が気になって、マグヌスは帰りを急ごうとした。
幕屋を畳んでいると、
「待て待て、マグヌス、王がお呼びだ」
と、気軽に声を掛けてきた者は、意外にもそれほど親しくないはずのメラニコスだった。
「メラニコス! なんの用ですか?」
「わからん。ただ、マッサリア五将すべてに呼び出しがかかっている以上、ただ事ではない」
また戦争でなければ良いが……。
マグヌスは部下に幕屋を建て直させ、急ぎ王の間に向かった。
王妃ルルディの幸福に安堵したものの、マグヌスの心は穏やかではありません。彼も人の子、運命に翻弄されていきます。
次回も木曜夜8時ちょい前をお楽しみに!




