第四章 67.新しい大地 その一
マグヌスの持っているアルペドンの地図で、現地と大きく異なっている箇所があった。
ピュルテス河の周辺である。
現状の地形は、河が平野を大きく蛇行して、巨大な三日月湖をつくっている。
前の戦争のとき「変わっているな」と思っただけで打ち捨てていたことだが、山賊たちと話しているとき、この湖を思い出した。
彼は現地に足を運んだ。
ヨハネス一人を連れた気楽な旅である。
(ヨハネスもずいぶん乗馬がうまくなった)
芦毛馬に乗ったマグヌスは微笑んだ。
まだ、前の騎兵隊長カイに比べて心構えで劣るところはあるが、もうすぐ騎兵隊を丸ごと任せることができるようになるだろう。
周辺の住民に話を聞くと、三十年ほど前に氾濫を起こし、この地形になったらしい。
「ピュルテスの河の神の仕業は止められませぬ」
住民は甚大な洪水の被害にもあきらめ顔。
小舟を出し湖の深さを確かめるとさほどでもない。
長い道をたどって調べると、元の川筋の方は深く窪んだ谷のまま荒廃地として残されていた。
(川筋を元に戻し、湖を干上がらせれば、広い土地が手に入る)
まもなく収穫を迎える麦畑や、山羊が放牧されている荒れ地を巡り、マグヌスは可能性に確信を持った。
一月後、彼は王宮に帰り、治水の知識を持っている者をかき集めた。
「そんな大きな工事はしたことがない」
「しかも、グーダート神国の山賊を定住させるためなどと……」
彼らはたじろいだ。
というかこの河は暴れ河としてあきらめられていた。
「いや、彼らは満足な土地さえあれば山賊にはならない。しかも我々と同じ祖霊神を信仰して迫害されている身。哀れとは思わないか?」
「はあ……」
「工事は小麦の収穫後に行う。この夏は人間同士が戦うのではない、河の神の暴挙との戦いとなる」
マグヌスは宣言した。
初夏──小麦は豊かに実った。
三年ぶりの収穫に、アルペドンの民は沸き立った。
久方ぶりに収穫の祝いと豊穣の女神への祈りが執り行われる。
少女たちがヒナゲシの花冠に純白の着物を着て地区ごとの小神殿で踊りを奉納した。
王宮でも宰相ゴルギアスが取り仕切って、豊穣の女神への感謝の祈りがささげられた。
神殿から呼ばれた巫女たちが、踊りながらたわわに実った麦の穂を棒で打ち、脱穀の様子を再現する。
素朴な歌と太鼓で皆がそれをはやし立てる。
アルペドン流の見慣れぬ儀式にマグヌスが見入っていると、突然、ぬっと人影が現れた。
「ルーク!」
上背のある痩せた身体つきに背に負った長剣。
アルペドンに入ってから、ふらりとどこかへ消えてしまった友人が戻ってきたのだ。
「いい景色だ」
「勝手にどこへ行っていた? その間の食べ物は?」
「あるところにはあるんだよ。クマ殺しのルークと言えば歓待してくれる金持ちはアルペドンにも少なくない」
彼は不敵な笑いを見せ、バシンとマグヌスの背を叩いた。
「代官殿、もっと自信を持て。お前の評判はなかなかいいぞ」
「それは、私が金持ち連中に何もしなかったからですよ。これから評判は悪くなる」
「何をやるんだ?」
「ちょっとした寄付集めをね」
マグヌスは笑い返した。
この国では、市民は誇り高い軍務には就くが税金は払わない。
税はもっぱら在留外人や解放奴隷が払うものである。
ただ、国家が何かの大事業を行うとき、富裕層は率先して寄付をする義務があった。
明文化されてはいないものの、それは強制的な義務であった。
マグヌスは、富裕層にピュルテス河の改修工事の資金提供を求めた。
マッサリア王国の威光を恐れたアルペドンの富豪たちはしぶしぶ応じた。
それを受けて、マグヌスは元の河筋の掘削に軍を動員した。
夏は雨が少なく河の水も退いている。
真昼を避け、多少作業がしやすくなる朝夕に、人が大地の窪みを削り馬が土を運ぶ。
運んだ土は河の堤防になるよう固く高く叩き重ねる。
マグヌスの侍女テラサの発案で、彼等の食事は豪華だった。
上等な小麦粉を使ったパン、干した果物、仔羊の肉を焼いたもの、とりどりのチーズ、ビール。
貧しい市民たちは、食事につられて苦役に就いた。
マグヌスは、陣頭指揮を続けた。
工事の間中、王宮には帰らないつもりだった。
テラサは、ベールをかけて顔を隠しマグヌスに同行していた。
マルガリタの仕打ちを考えれば、元気そうに見えてもマグヌスのことが心配なのだ。
ある日の夕暮れ。
人々は作業を止め、串焼きにした肉を肴にビールを空けていた。
夕焼けが明日も晴天であることを約束して、地上を染めている。
マグヌスも自分の幕屋で薄めたワインを呑んでいた。
テラサが、自分は何も口にせず黙って酌をする。
そのへんの間合いは二人には慣れたものになっていた。
マグヌスは何度かためらってから、テラサに声をかけた。
「お前もマルガリタとの首尾は知っているのだろう?」
単なる確認。テラサはうなずいた。
「王宮中で知らぬ者はおりません」
彼女との婚姻を後押ししたのは他ならぬ自分だ。その結果──結果ではあるがマグヌスの心の傷を開いてしまった。
「こうなった以上、マルガリタとは別れる。そしてお前を妻にしたい」
ドクリとテラサの心臓が波打った。
正妻はまだマルガリタである。
それなのにこの告白……。
「私のように人前に出せぬ女を妻にすると、後悔しますよ」
テラサは立ち上がって逃げた。
「では、王妃のようにベールの内側に閉じ込めてしまおう」
マグヌスの腕が、テラサを捕える。
「放さない」
これが神の試練かと思う。軽はずみな言葉の代償に、自ら現在の妻と立場を争えと……。
マグヌスはテラサの唇に自分の唇を重ねようとした。
(苦難は受け入れる、この人と一緒にいられるなら)
テラサはいったん拒み、そして、覚悟とともにごく控え目に受け入れた。
「ありがとう」
テラサを抱く腕に力がこもる。
「……お食事を……」
「もう要らない」
「では下げませんと……」
「初めてお前が抱擁を許してくれた。もう少しこのままで……」
テラサは、駄々っ子をあやすようにマグヌスを抱いた。
二人は影が夜の闇に溶け込むまでそうしていた。
翌朝、王宮に急使を走らせ、宰相ゴルギアスにマルガリタと別れてテラサを妻にすると告げると、
「とんでもない。私は反対いたします」
と、二十日後に返事が来た。
その後を追うようにマルガリタからの使いまで来た。
「私は別れません」
烙印を持つマグヌスに強い拒否反応を示し、顔も合わせないマルガリタは二つ返事で了解するものと思いきや、なぜか離婚に応じないのだ。
その理由をマグヌスは理解しかね、ひとり悩んだ。
お休みいただき、ご迷惑をおかけしました。
お陰様で体調も戻りました。
引き続きお楽しみいただければ幸いです。




