第三章 58.シュルジル峠
アルペドン王国側は、援軍が来るまでマッサリア軍に包囲させ、機を見て王都から打って出て叩く作戦を続けた。
ルテシアの港から潤沢な食糧を得られるマッサリアは夏が終わっても軍を引く気配はない。
包囲された王都の中では、食糧不足が懸念されるようになってきた。
そして、初冬らしく朝から重い雲が垂れ込めたある日。
グーダート神国からの援軍約二万が、アルペドン王国との境にそびえる山脈へ向かったという情報を、智将テトスの密偵がつかんだ。
五将は緊急にエウゲネス王の幕屋に集まった。
「シュルジル峠を越えると思われます」
この有名な峠道はアルペドン王国とグーダート神国との間にある難所である。
「マグヌス、行け」
皆は次の言葉を待った。
沈黙。
「自分だけ、ということですか?」
問い返して、マグヌスは全身の血が凍るように感じた。
王の目に薄っすらと残忍な笑みが浮かんでいる。
「母殺し」の異名を持つにいたった惨事で心の歪んだエウゲネス王は、妃であるルルディの家出で面目を潰され、人の情、兄弟の情を持たない一面をあらわにしていた。
「無理です! 彼の手勢はわずか五百の歩兵です」
ドラゴニアが悲鳴のような声を上げた。
「峠の隘路だ。なんとか……」
「私の弓兵を同行させます」
テトスが王の命を無視して口をはさんだ。
「弓兵はこちらから。テトス殿は弩兵を出してください」
と、メラニコス。
「待て、王命だぞ!」
「そもそも瀕死の身でルテシアの陰謀を明らかにしたのはマグヌスではありませんか。マッサリアに忍び入った彼奴の手先を追い詰めたのも。さらに、先のルテシアでの戦いが優位に進んだのは、マグヌスの古道を用いた計略があったればこそ」
テトスは激しく正論でエウゲネス王に迫る。
「王は一番の功労者に死をもって報われるというのですか!」
エウゲネス王は反論のしようもない。
「ルルディ様のことで王に逆らったのを不快に思われるのはわかります。……私に賜ったフリュネは確かに魅力的ですが新婚の寝屋にふさわしいとは思われません」
メラニコスまで王に意見する。
「私も反対です。戦略的にも無意味です。二万の軍勢にわずか五百をぶつけてどうなるのです! 私の歩兵も送ります」
王は黙り込んだ。
剣呑な雰囲気が王の幕屋を包む。
「ええい、我が陣営の矢を根こそぎ持っていけ!」
ついにピュトンが沈黙を破った。
「ピュトン、おまえ……」
「まずい……グーダートの軍が峠を越えてアルペドン軍と合流するのはまずいですぞ」
エウゲネスは将軍たちの顔を順番に眺めた。
(確かに、多数の援軍はまずい)
エウゲネスの心はやや正気を取り戻した。
「わかった。マグヌス、皆の兵を率いていけ。見事グーダート神国軍を撃破してみせれば、神々の裁定があったものとしてお前を赦そう」
「はい」
一刻も早くと足を早めようとして、立ち止まり、振り返る。
「ありがとうございます」
王の幕屋からの小走りに走り出す。
「まだ足りぬ」
テトスはうめいた。
部隊の編成は短時間で行われた。
弓兵約二千、弩兵約二千、重装歩兵三千、これに、マグヌスの元からの部下が加わる。
最後尾は矢を積んだ荷駄隊だ。
マグヌスは珍しく重装備に身を固めていた。
吐き気がするほどの緊張を覚えた。
王命に逆らって他の将軍たちが貸した兵であり、装備である。
──グーダート神国軍より先に峠を押さえなければ。
峠までは速歩で十日の道のりである。
マグヌスは、道々、持てるだけの石を拾わせた。
「矢が尽きれば投石、それも尽きれば……」
彼の覚悟は、兵士たちにも伝わっていった。
シュルジル峠では、まずグーダート神国の偵察隊と遭遇し、血祭りにあげた。
グーダート神国側の、峠に入る登り道。
わずかな灌木が生えた左右の斜面にびっしりと弓兵と弩兵を敷いた。
次の矢の装填に時間がかかる弩兵を弓兵の速射で補おうというのである。
歩兵は登り口から頂上の一番道が狭くなっているところまで槍で防御する。
簡易な仕掛けもこしらえた。
斜面の岩を掘り起こし、身を隠す場所を作ると同時に、登ってくる敵兵に落とす仕掛けだ。
(間に合った……)
マグヌスはとりあえず安堵した。
二万のグーダート軍は騎兵から現れた。
偵察隊が帰らなかったので用心しているはずだが、二万という数の与える安心感は大きい。
山道を登り、隘路に差し掛かろうというとき、騎兵の足元がピンとはぜた。
道を横断して地中に浅く埋められていた綱が何本も勢いよく張られたのである。
「──!」
綱に絡んで足元がもつれ、馬は狂奔した。
「──今だ!」
馬をなだめるのに気を取られている騎兵隊に、斜面の上から弩が放たれる。
(引き付けて撃て。我々の矢数は少ない)
熟練の弩兵が、確実に騎兵を倒してゆく。
主を失った馬が本隊へ駆け戻り、混乱を増した。
最初の小競り合いはマッサリア側の勝利に終わった。
二日目。
グーダート神国軍は慎重に軽装歩兵を前に出した。弓を携え、斜面に潜むマッサリアの射手を反対に射殺そうという構えである。
「射るな、押さえろ……」
マグヌスは命じた。
軽装歩兵は、抵抗が無いまま登り道まで前進した。
「綱を切れ!」
綱で支えられていた岩石が、斜面を転げ落ちる。
巻き込まれる歩兵たちの悲鳴。
生き残った者に浴びせられる無慈悲な矢。
落下物は道を塞ぎ、グーダート神国軍は危険を侵して排除しなければならなかった。
死体に刺さった矢の回収を試みるマッサリア側と更に乱戦になる。
その小競り合いと言うには凄惨な戦いが数日繰り返された。
緒戦は確かにマッサリア側が有利だった。
しかし、五日目には、すでに矢が尽き投石を始める部隊があった。
待ち伏せに対抗して、敵は軍を小出しにして消耗を誘う作戦に出たため、重装歩兵の疲労は激しい。
狭い道を占領して横からの攻撃の心配が無いとはいえ、次々に数に頼んで新手を繰り出してくる敵の前に、徐々にその数を減らしていった。
八日目の夕暮れ。
グーダート神国軍は麓に戻り、赤々と焚き火をともして休息を取っているようだった。
「敵さん、休んでやがる。こっちも休みましょうや」
マグヌスの部下のヨハネスが軽口を叩いた。
悲観的にならないヨハネスの性格は、こういった危機的状況において良い雰囲気をもたらし、指揮官として好ましい。
加えて、相手の行動が丸見えというのは心理的に優越をもたらす。
「あそこが敵の本陣だ」
指差すマグヌスの声は嗄れている。
「弓兵に、残りの矢を確認させろ。これから敵陣に突撃をかける」
「えっ、こっちからですか?」
「敵もそう思うはずだ」
マグヌスは弓兵に最後の手持ちの矢を提出させた。
弓兵というのは面白いもので、最後の一、二本をお守り代わりに取っておくことが多い。
最後の五十本を十人の選りすぐりの弓兵に手渡す。
「矢が届くところまで必ず送り届ける。敵の指揮官を仕留めてくれ」
夕餉時、弓兵を守りながら、重装歩兵二千が、峠から敵本陣まで下り坂を一気に走った。
(マッサリアの矢は尽きている)
そう信じていた敵将は、無防備に乗馬して防衛の指揮を取ろうとした。
そこに撃ち込まれる五十本の矢。
「命中!」
敵将が落馬するのを見て、叫ぶ。
「撤退──!」
上り坂をあえぐように逃げ帰る。
遅れた者は追撃者の餌食となった。
「よくやった」
マグヌスは、走り疲れて動けなくなった兵に、パンと薄めたワインを支給しながらねぎらった。
ワインは酸っぱくなっていたし、パンもこれで最後だった。
(もう一押しされると終わりだ)
「すまない……」
ルルディの「家出」の件で王を怒らせていなければもっと有利にシュルジル峠を防衛できただろうし、ここで死なずともよい兵が死んでいった。
(この作戦の結果がどう転ぶかは、運命の神のみぞ知る)
マグヌスは改めて覚悟を決めた。
エウゲネス王の怒りをかったマグヌスは、他の将軍の援助を得て全力を尽くしました。
結果は来週木曜夜8時ちょい前です。
お楽しみに!




