第三章 56.燎原の火
春もまた、華やかな季節である。
マッサリア地方では、果樹の花が次々と開き、なだらかな丘を薄桃色に染める。
都の外に出なければ花々を愛でることも難しいミタール国メイ城と違って、高台に建つマッサリアの王城の高い塔や窓からは移ろいゆく花の帯を堪能することができた。
城の南に広がる市場でも、様々な野の花が売られ、編んだ花冠を求める人々で賑わっていた。
王妃ルルディは、ふっくらとふくらんだ腹部を恥じ、北の館の奥に引きこもっている。
「ルルディにもこの景色を見せてやりたいものじゃが」
ミタール公は残念がった。
彼らは、娘のために産婆を連れて来ていた。
また、マッサリア王のために貨幣の取り扱いに優れた奴隷数人も帯同していた。
「奴隷といっても専門知識にたけているのでな。給金をはずんでやってくだされ」
「ありがたき幸せ」
マグヌスが言いあてたとおり、エウゲネス王はミタール公の前に頭が上がらない。
「出産までとも思ったが、そろそろ空き家の様子も気になるでな」
「そうですよ、あなた。失礼ながら弟君のケパロス様では力不足です」
「あとの様子は産婆から聞くとしよう。我々は五日のうちに帰途につく」
そこでミタール公はあらためてエウゲネス王の方を向いて、
「そういえば、ルルディを助けてくれた将軍はお元気かな? 顔を見なかったが」
「彼は今、ルテシア王国に攻め入る計画を立てています」
ミタール公はため息をついた。
「戦うばかりが勝利の道ではありませんぞ」
「お言葉、肝に銘じます」
やはり頭が上がらない。
ミタール公夫妻がゆるゆると帰り道についたあと、エウゲネス王は西の館のマグヌスのもとを訪ねた。
華美なものは全て取り払われ、王妃が滞在した形跡もない。
今回の件でマグヌスを罰するなら戦いの後にしようとエウゲネスは考えていた。戦いには彼の頭脳が要る。
マグヌスは床に座り込んで広げた地図を一心ににらんでいた。
背後に王の気配を感じたが、振り向かないまま言葉を発する。
「二十あまりのルテシア領内の砦のうち、過半数は森からの急襲でカタがつくでしょう」
「うむ。残り十か」
「メラニコス将軍が奪った港湾施設からも出撃できます。そして宿敵アルペドン王国」
エウゲネスは腕を組んだ。
「アルペドン王国は『宣戦布告は生きている』と言ったのですね。それを逆手に取りましょう」
「つまり?」
「こちらから申し込んだ停戦を破棄するのです」
「アルペドンはルテシア王国を事実上の属国として勢いに乗っている」
「逆です。戦いに慣れないルテシア兵は軟弱。実質アルペドンの限られた兵力のみで二国を守らねばなりません。伸び切った革が裂けるように破綻するでしょう」
「なるほど。中立国ルテシアへの攻撃を、停戦破棄の口実にはできる」
自国の侵略行為はさておき、口実だけならなんとでもなるとエウゲネス王は考えた。
見下ろすマグヌスの背は、白地に臙脂の縁取りの鮮やかな新しい長衣に、軽く結んだ黒髪を垂らす。
以前の「ボロボロな将軍」の姿は無い。
(まさかルルディはマグヌスに惹かれて……)
小さな疑念が鎌首をもたげる。
それに気づかぬふうを装って、
「ルテシア戦の首尾次第で、アルペドンにも攻め入ろう。メラニコスはうまくやってくれたものよ。港の軍勢は再建中のルテシアの王都に向かわせる」
「はい」
マグヌスはここで初めて振り返って、
「船はどうします!」
「捨て置け。後で使うことになるかも知れん。焼き払うのはいつでもできる」
侵攻は着々と準備されていた。
小麦が実り、血を思わせる深紅のひなげしが花開く初夏、評議会の承認を得たマッサリア王は侵攻にそなえ国内に総動員をかけた。
インリウムを始めとする同盟国にも呼応して兵を挙げるよう求めた。
農民たちは慌てて刈り入れを済ませ、鎧をまとい、剣を帯び、盾と槍を手にする。
半月で祖国内には総動員が整い、同盟国を揃えた後、本格的な進軍が始まった。
その先頭は、身重の妻を置いて出征するマッサリア王エウゲネス。
先頭に立って堂々と鹿毛の馬の歩みを進める。
マッサリアの五将も、全員が出揃った。
百戦錬磨の老将ピュトン。
不気味な黒い鎧を身に着けた黒将メラニコス。
王の側を離れない相談役、智将テトス。
唯一の女将軍、あでやかな竜将ドラゴニア。
……マグヌスは騎兵の再建が間に合わず、わずか五百の手勢を率いてドラゴニアに合流した。鎧も軽装、盾も持たない。
マグヌスの親友ルークは「気が向かねえ」と同行しなかった。
今回、マッサリア軍は不思議な戦法を取った。
森から押し出しては砦を攻め、追われるとすぐに森に逃げ込んでしまう。正規軍の戦い方ではない。
いつ襲われるかわからず、ルテシア領内のアルペドン王国軍は疲弊した。
加えて、砦以外の要所も標的となり、マッサリア側は、森深きルテシア領内を神出鬼没の勢いで荒らし回った。
これを可能にしたのは、マグヌスの持っていた古地図の功績である。
滅ぶ前の旧帝国が張り巡らせた石造りの街道……それは百年近い年月の間に繁茂する森に寸断されていたが、警備の厳しい現在の街道を征くよりも、新たな道を切り開くよりも、ずっと簡単に敵の意表を突けた。
森に隠れた古道伝いに攻撃し、また、逃げる。
深く後を追えば伏兵が放つ弩の餌食となった。
古道の情報が無いルテシア側はなすすべがない。
「我々の悲願である帝国の再建を、旧帝国が後押ししてくれている! この戦いを続けるのだ!」
エウゲネス王は部下を鼓舞した。
他方、森の古道から離れている地域は、もっぱらドラゴニアと彼女の軍に含まれているマグヌス、そしてインリウム国の軍が担当した。
十ほどある砦を、一つずつ潰していく。
三百人程度で守っている砦を、ドラゴニアは一万人近い兵力で攻めるのだから、攻められる方はたまったものではない。
眼前に展開した、軽装の美女に率いられた軍を見ただけで降伏する砦さえあった。
(アルペドンとの本格的な戦いに備えて、兵力を温存する……)
これが最初っからの申し合わせだった。
再建中だったルテシアの王宮は再び火矢に襲われ、崩れ落ちる。
乾いた草むらに火を放ったごとく──旧ルテシア王国は、マッサリアに侵略された。
マッサリア軍の動きはいつも速い。
アルペドン王国がルテシア国王アステラスに救いの手を伸ばそうとしたときには、すでに国土のあらかたがマッサリアに押さえられていた。
アステラスは就いたばかりの王座を捨てて、母国アルペドンへと逃げ帰った。
いよいよマッサリアの反攻が始まりました。
まずはマグヌスの奇策から。
次回更新も木曜日20時前です。
お楽しみに!




