第三章 55.王妃懐妊
一転舞台はマッサリア王宮、ルルディの「家出」話の続きに戻ります。
ルテシア王国が戦火に包まれている一方で、マッサリアの王宮でも静かだが緊迫した戦いが続いていた。
マグヌスは、西の館に女性用の一角を作り、ルルディが気を許している侍女たちだけを呼び寄せて、できる限り穏やかな日々を提供してくれる。
「ルルディ妃の月のものが遅れている……」
侍女たちの間では、彼女の「家出」の前から噂になっていた。
ルルディ自身が、それが何を意味するかは一番承知している。万一、王子でも産めば、マッサリア王国にとっては一大慶事である。
(とんでもないことになってしまった……)
いっそ王の不興を買って離縁でもされれば良いと腹をくくっていた彼女だったが、この事態に頭を抱えた。
(……母になる)
喜びと困惑の板挟み。
マグヌスは、何も言わない。
西の館に女性用の一角を作り、ルルディが気を許している侍女たちだけを呼び寄せて、できる限り穏やかな日々を提供してくれる。
(思い切って相談してみよう)
悪阻が始まり、これはもう確かだと侍女たちも判断したころ、ルルディはマグヌスを呼んだ。
マグヌスは、重たげな木箱を持ち込んだ。
北の館と違って、二人の間には形ばかりの薄い垂れ幕しかない。
「なあに?」
「私からのお祝いです」
マグヌスは木箱から厳重に包装された包みを取り出した。
「ちょうど昨日届きました」
包装を解くと金属の箱が現れ、蓋を取ると中には黄色みを帯びた白く細かい砂のようなものが満たされていた。
「砂糖です」
「まあ!」
「最近、お身体の具合が良くないとお聞きしておりましたので」
「貴重なものでしょうに、どこで手に入れたの?」
マグヌスは慎重に蓋を閉めながら答えた。
武人らしくない繊細な手がパチンと蓋を閉め、垂れ幕越しにルルディの方へと彫刻の施された容器を押しやる。
「南の国にいるカクトスという学友が時々送ってくれるのです」
「──あの、甘いパン──」
「思い出してくださいましたか」
二人が出会った逃避行のさなか、マグヌスが持っていた携行食。お茶に浸さなければ歯が立たないほど硬くて甘いパン。
「王妃様、今の状況は好都合です。ご両親に連絡を取り、できればマッサリアに足を運んでいただいてください」
「私の両親?」
「はい。お二人こそエウゲネス王が頭の上がらない人物なのです」
マッサリア王国の潤沢な戦費はゲランス銀山が支えているとはいえ、その信用を支持する国家が多いに越したことはない。
王妃ルルディの出身地ミタール公国は、金銀を始めとする硬貨の取引や高級品の取引で栄える交易の中心地である。
ルルディの実家の不興を買うことは避けねばならぬ。
「お母様に手紙を書きます」
「そうしてください。懐妊とあらば慶び事なのでフリュネの愚痴はほどほどに」
マグヌスはニコリと笑った。
「王の寵愛を受ける女」とルルディに宣戦布告した美しい奴隷にしてルテシア王国の間諜、フリュネは頭の痛い存在だった。
今も北の館で王の褥にはべっている。
一方、王妃の懐妊を知ってから、王はルルディを返せと怒りに満ちた矢の催促である。そもそも、王妃が出奔して臣下のもとに身を寄せるなどということが前代未聞の醜聞だ。
「フリュネを処分しないうちは返せません」
マグヌスは突っぱねた。
「妊娠初期は心の安定が大切。王の寵愛を奪うなどと公言している女奴隷と同じ館にいられましょうか?」
「ルルディは王妃としてきちんと立てている。女奴隷など相手にしなければ良いのだ」
「結婚して一年にもならないうちに他の女に心を移すとはありえません」
──王に斬られるかも知れない。
マグヌスは覚悟を決めて王に逆らった。
そんなことはおくびにも出さず、ルルディの前ではかつての追放先である南の国の珍しい生き物のことなどを語った。砂漠に咲く淡紅色の美しいバラ、人語を話す鳥……。
特に王侯貴族が愛玩している「人の言葉を話す鳥」にルルディは興味がわいたようだ。
「マグヌス、ありがとう。気持ちが晴れましたわ」
「お役に立てて何よりです」
この間ルテシア王国が実質的に滅び、マッサリアを取り巻く環境は一時的に安定した。
ルテシアに侵攻した黒将メラニコスはルテシアの良港を押さえ、周囲の穀物倉庫群ごと、城壁で囲って要塞化した。
ルテシア王国を支配したアルペドン王国に対し、名を捨てて実を取ったというとことだろうか。飢饉に輸入穀物で対処する体制が出来上がった。
一応の戦乱の収まりと愛娘からの懐妊の手紙を受けて、ミタール公国の城主夫妻はマッサリア王国を訪れることを決めた。
ほぼ一月の道のり、来訪はおおよそ冬至のあとの最も寒い時期になる。
エウゲネス王は珍しく無く慌てた。
「世継ぎの誕生を前にして、義理の父母が来るというのに……」
やはり体裁が悪い。
彼はしぶしぶフリュネを諦め、メラニコスに褒美として与えた。
「王はもう私を愛してはくださらないのですか⁉️」
フリュネは半狂乱になった。
しかも相手には子がいる。
栗色の髪を振乱し、ほんのり紅を差した頬を自分の爪で傷付けた。
「メラニコスはマッサリア最強の将軍。彼の寵愛を受けるのは決して不名誉なことではない」
エウゲネス王は、半ば自分を納得させるように言った。
最終的には、
「身分をわきまえろ!」
と、怒鳴りつけた。
エウゲネス王はルルディが身を寄せている西の館に足を運んだ。
筋肉がよく発達した身体に冬にも関わらず短衣のみを身に着けて、神々の彫刻もかくやといったたたずまいである。
彼はルルディの前に膝を折った。
「フリュネはもういない。侍女長は奴隷身分ゆえ、鞭打ちの刑の後、売りに出した。私たちを脅かしたルテシア王国の王も国を追われた。お前の両親が来る前に、北の館に戻ってくれ。そして良い子を産んでくれ」
ルルディは、肩のこらない西の館の生活がすっかり気に入っていた。
しかし、
「王自らおっしゃるなら仕方ありませんわ──ただ、マグヌスを叱らないで」
彼女は北の館に戻り、以前のように多くの侍女たちにかしずかれる生活を送りつつ、父母の訪れを待った。
冬至から遅れること一月半、ミタール公夫妻は輿に乗ってマッサリア王国の宮殿を訪れた。
黄金に富むミタールという言い方からは想像できない、質素な身なりである。
王と何やら小難しい相談をしたあと、夫妻は身重の愛娘と久しぶりに再会した。
「ルルディや、お前は幸せ者じゃの……」
「何をもって幸せというか、それによりますわ」
「……」
「ミタールでは経験しなかったことを、ここではたくさん経験しました。そう、忠誠を誓ってくれた人のありがたさも……」
公妃はドキリとした。
(結婚しても娘はなおあの「ボロボロな方」の将軍を慕っている……)
口には出さなかった。
ただただ、不安であった。
舅に頭の上がらないエウゲネス王……銀貨の流通を邪魔されたりしたら大変ですからね(笑)。
ルルディが無事出産までこぎつけますように。
次回「燎原の火」も、木曜日午後8時ちょっと前に更新予定です。
お楽しみに!




