終章 254.無名の墓標
最後に登ってきたテオドラは、井戸の亡霊の噂を聞くと怪異を恐れずさらに掘らせた。
たとえ恐ろしい姿をしたものでも良いからマグヌスに会いたい一心だった。
それこそ、水の底の岩盤を削るまで掘らせた。
しかし、結局、マグヌスの遺体はどこからも見つからなかった。
「ならば、いっそこの城を墓標に」
テオドラは、アンドラスの許可を取って城を内側から焼かせた。
外は堅固な石造りのこの城も、内部の構造材には木を使っている。
崖の上に建っていた城は、内部から炎に包まれた。
高く煙をあげて、ボイオスの民の抵抗の証が崩れていく。
「テオドラ、これで気は済んだか?」
「はい、アンドラス様。この地をミソファンガロ同様、人の立ち入らぬ聖地に」
「そうだな」
攻める側がさんざん悩まされたのだが、この崖には、長い棘を持つ野バラが繁茂する。
放置すれば遠からず城趾も野バラに覆われるだろう。
黒い城を背景に一重の白いバラが咲き乱れる。
暗い目をしたテオドラには、その光景が見えるようだった。
帝国の宮廷の薄紅色をした砂漠のバラは、今も咲いているだろうか。
あの奴隷は鎖で繋がれた花を抱えているだろうか。
花の便りは、確かにマグヌスに急を告げるには成功したが、テオドロスによって無に帰した。いや、マグヌスの立場を悪くしてしまった。
(夫に秘密を作ってまで知らせたのは過ちだったのかもしれない)
「テオドラよ、何を悩んでいる?」
「あなた様を裏切ったことを」
「おまえが私を?」
「養父を喪ったのはその報いでしょう」
アンドラスは、詳細を問いただそうとはしなかった。
運命の女神の操る糸のままに罪を犯し、手酷い罰を受けた妻を彼は赦した。
天にも怪異は現れた。
歴官の誰一人予想できなかったのだが、南天に明るい星が現れ、だんだんとその明るさを増していった。
はっきりと目に見える頃には星は二つに分かれ、泣いてでもいるかのように、青白い尾を長く引いた。
「あれはマグヌスだ」
井戸の怪異を目撃した兵士たちが、誰からともなく言い始めた。
彼の胸に押された烙印、二つの十字を、誰もが思い出した。
ゲナイオスに肩車されたマグヌスの姿を目撃したことのあるマッサリアの市民たちは、目に涙を浮かべた。ことにマグヌスの領地に遺された民は主の死を示した天を仰いで絶望した。
ルークは、兄の家で呆然と青い星々を見守った。
カクトスは、帝妃の手を取って夜空を見上げた。
「テオドラ様、ご覧ください。あの高潔な男の魂は天に昇って神々と共に在るに違いありません」
それが箒星であることをカクトスは知っていたが、単なる天文現象とは思われなかった。
不吉な予兆とされる箒星だが、今回は戦いに疲れた人々の心を癒やすように美しく輝いた。
極大まで明るくなると、夜ごとに小さくなっていく。
夜中じゅう星空を眺めていたカクトスは、翌朝、アンドラスに呼び出されて眠い目をこすりながら皇帝の幕屋に向かった。
アンドラスは武装を解いた姿で、明け方の白い光を浴びていた。
「カクトス、おまえはマグヌスの烙印を見たことがあるのか?」
「はい。幼い頃、川遊びで」
二つの十字の意味は南国には伝わっておらず、彼の胸の烙印は、奴隷、もしくは解放奴隷の印とみなされることが多かった。
「……誤解を恐れて、できるだけ隠していましたが」
アンドラスは焼け落ちた城から目を背けた。
「マグヌスという男……もう一度会って話してみたかった」
「私もです」
最後に別れたのは、マグヌスがマッサリア王国の要望に応えて南国ナイロから帰国する直前だった。
あれが最後の別れとなった。
一心に古地図を書き写していた姿を思い出す。
三日月湖の悲劇のあとで会ったのはエウゲネスであって彼の知るマグヌスではない。
「忘れ形見を、私は確かに受け取ったがな」
名残りおしそうに城趾を見ているテオドラを見やる。
そのお腹は大きくなったが、日頃の鍛錬のせいか、姿勢は崩れていない。
「マッサリア王国という後ろ盾を、ご自身で無くされて、今後どうなさるのでしょう?」
「ミタール公国の祖父母が、後見人として名乗りを上げた。唯一生き残った孫でもあるし。それにマッサリア領のゲナイオスも協力を申し出ている。あそこには、諸王の一族というものがあるのだそうだな」
その中から王が選ばれる一族のことで、マッサリア独自の制度だった。
「ゲナイオスは、そういえばエウゲネス存命中にも一度王位についた人間でしたな」
「人々を束ねるのは上手い。マッサリア領は彼に任せよう」
ただしゲランス銀山は帝国の直轄とされ、マッサリアは往年の力を失う。
これからは、アンドラスの顔と翼を持つ竜の姿を刻印した小ぶりな銀貨が作られるはずだ。
「鉱山の奴隷が解放を求めておりましたが」
「年季の明けた者から順に。ゲナイオスに確認を取れ」
「かしこまりました」
アンドラスはテオドラを呼んだ。
「アルペドンまで引き上げるぞ。おまえはもう馬は無理だ。輿に乗れ」
「はい」
テオドラはお腹を押さえた。
胎動が激しい。
「二人の子だ。大事にな」
テオドラは黙って顔をアンドラスの胸に押し当てた。
南国で、年老いたナイロのメランも、中天に現れた青白い連星が、夜ごと消えていくのを見ていた。
箒星は何年か周期で現れるものもあるが、これは前回の記録も無く、今回限りの星だろうと、観測していた歴官は告げた。
彼女は、自分の後を託そうとした人物が、また一人世を去ったことを嘆いていた。
「大図書は、皇帝の私物となりました。私が心配しなくても、帝国の優秀な官僚がここを維持してくれるでしょう」
ただ、活動は自然と制限される。
これまでのように、各地から広く人材を集めて自由に議論することはできなくなる。
「カクトスに頼むのだと思えば、悪くはない。そう思いませんか」
若き日のマグヌスやカクトスが、元気に論争しながら部屋に入ってきそうだ。
「あの頃が良かった」
せめて夢に現れてくれよと願いながら、彼女は床についた。
明日は最後の更新となります。
次回、第255話 帝国統一
夜8時ちょい前をどうぞお楽しみに!!




