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終章 243.至宝

 もうすぐ満月という夜。


 アルペドンの牧場は穏やかな宵を迎えていた。

 王都からはずいぶん離れた田舎、冬の寒さに壊滅したメラニコスの軍隊も、このあたりは荒らしていない。


 牧場に養われているのは、雌雄取り混ぜておよそ五百頭の名馬。

 その三分の二は種付けに使われる牡馬だ。

 

 盛んに行われている競馬で良い成績を残したものもいれば、戦闘で傑出した働きを見せたものもいる。


 この馬たちはマグヌスが長い時間をかけて選り抜いたアルペドンの至宝だ。


 一頭ずつ石造りの厩舎に入り、日中念入りに干された寝藁に冬毛で暖かそうな身体を横たえる。


「見廻りはしたか? 小僧」

「いや、これからで……」

「さっさと行け」


 命じられた少年は、部屋を飛び出した。


「もうちょっと暖まってから行こうと思ってたんだ」


 松明を手に、何棟もある広い厩を端から確認していく。

 干し草の甘い香りがする。

 完全に無視を決め込む馬、鼻を鳴らして歓迎する馬……。


「よーし、良い子だ」


 早い馬は、間もなく出産の時期を迎える。

 神経を使う時期だ。

 

「マグヌス様がいてくださった間は、国立の牧場として安泰だったんだけど、次に来る人が馬のことを知らなかったら嫌だな」


 牧場の人々が神経をすり減らしているのにはこちらの理由もある。


「ゴルギアス様がうまく言ってくださればいいのだけれど」


 次の建物に移る。

 こちらは種牡馬がいる厩舎で、猛々しい気性の馬がほとんどだ。


「さっさと終わっちまおう」


 彼が入口の戸を開けた時だ。


「馬たちはここか?」


 彼は喉元に短剣を突きつけられた。


 ヒュウっと息を飲み込む。


 どこの何者か知らないが、馬を害されてはいけない。


「……立ち入り禁止なのに……」

「馬を渡せ」

「ダメだ、出産間近な牝馬は動かせない」

「いい度胸だ」


 短剣がはずされた。


「すぐに牧場の管理者を連れてこい。我々はすべての馬を奪う」


 少年は転がるように駆け出した。

 月明かりがあるとはいえ、夜の道、何度も転んだ。


「大変です! 馬泥棒が……」


 彼の様子を見た当直の男たちがわらわらと厩舎に向かう。


「ああっ、何をしてくれるんだ!」


 馬たちが厩舎から出ている。

 芦毛の馬体が月光に浮き上がる。

 冬、馬たちの息は白い。

 興奮したいななきがいくつも聞こえる。


「ヨハネス将軍に伝えろ。ここの馬たちは智将テトスが強奪したとな」

「えっ、マッサリアのテトス様……」


 薄明かりで顔は見えない。

 テトスは、手近な馬にひらりと飛び乗った。

 同様に乗馬する者十名あまり。


「テトス様、出産が近い馬もいるんです、止めてください!」

「これから強行軍だ。弱い馬は自然と置いていかれる。あとで拾え!」

「なんということを!」


 馬たちが脱走した厩舎は一つ二つではなかった。

 五百頭あまりの馬が、一つの群れになってゆっくりと駆け出した。


「待て、待ってくれ、ああ!」

「ヨハネス将軍に連絡を!」

「こんな夜分に?」

「アルペドンの至宝が、根こそぎ……」

「マグヌス様が見たらなんとおっしゃるか……」

 

 彼らはボイオスで起きた悲劇を知らない。


「許せ、マグヌスのためだ!」


 テトスの声だけが残った。

 馬たちは破壊された牧柵から、皆走り出してしまった。

 

「なんということだ……」


 空っぽになった厩舎を見て、へなへなと膝をつく。


 街道を埋め尽くして駆ける足音は四方に轟き、何人もの農民が数しれぬ馬が走り去るのを目撃した。






 翌朝、急を聞いて駆けつけたヨハネスは、丁寧に彼らの話を聞き、盗まれた馬たちは東の方角へ進んだと知った。


「馬市の時期でもないのに馬泥棒……しかもテトス将軍を名乗って……」


 ヨハネスは、メラニコスたちを受け入れて治療にあたっていた。

 彼らの口は重く、ボイオスで起きたことは断片的にしか聞き出せていない。


「まさか、本当にテトス将軍たちがマッサリアを裏切って……」


 それならば、まさか、もう一つの噂「マグヌスが殺された」というのも事実かもしれない。

 実際、マグヌスが連れていたロフォスたちを捕えるようにという命令が、テオドロス王から出ている。


「まさか……」


 あのマグヌスが……。

 いつも知恵で相手を煙に巻き、軽やかに勝利してみせた男が……。


「百人、逃げた馬を追え。残りは共にアルペドンの王都に帰る」


(メラニコスがどんなに言を左右しようと、ボイオスで起きたことをすべて聞き出してやる)


 ヨハネスはメラニコスたちの治療よりも、尋問を優先することに決めた。


「真実を聞き出せ。場合によっては拷問しても良い」


 メラニコスたちに対して非情極まりない命令を下すのに、ヨハネスは躊躇(ちゅうちょ)しなかった。


 



 逃げた馬たちは軽快に歩を進めていた。


「東帝国まで、長い道のりになる。無理をするな」


 ともすれば駆け足になりそうなロフォスを、テトスは諌める。

 馬の疲労を考慮して休みも取らせ、毎日別の馬に乗った。


 街道の整備が遅れている旧ルテシア領は、方角を頼りに畑を突っ切った。


 ろくな(まぐさ)も無い。

 いくらかは銀を出して買ったがそれでも足りず、畑を荒らすに任せた。

 畑の持ち主が怒ってやってくる頃にはもう馬たちは逃げている。


「もうすぐマッサリアだ。俺は王都に用がある。先に行っていてくれ」

「テトス様、追いつかれてしまいませんか?」

「この馬たちを信じろ。追ってくる奴らも馬だ」

「……そうですね」


 すでに何頭かは脱落している。

 それに構わず、テトスは東を目指した。



明日も更新します。


次回、第244話 大逃亡


夜8時ちょい前をどうぞお楽しみに!!


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