第十五章 240.炎状剣
「キュロス! 待て!」
マグヌスの叫びに、ロフォスは隣室から駆けつけた。
全力で逃げるキュロスと鉢合わせになる。
「どけ!」
キュロスに突き飛ばされて、ロフォスはよろめいた。
その隙にキュロスは階段を駆け下りる。
捕えようかと迷っているところへ、マグヌスの呼ぶ声がした。
「ロフォス……」
彼は迷わず走った。
広間の中央に、マグヌスがうずくまっている。
「マグヌス様、どうなさいました!」
マグヌスは少し身を起こし、腹から細身の短剣を抜き取った。
血に濡れている。
「まさか、キュロスが!」
「油断した」
「マグヌス様、しっかり。傷は小さい……」
マグヌスは頭を振った。
「気を付けろ。毒だ」
血脂に汚れて鈍く光る錐のような短剣が、ロフォスに手渡される。
極細の刀身は、マグヌスがいつも身につけている鎖帷子を貫くため。
炎を思わせる波打った刃は、いっそう有効に毒を体内に残すため。
ロフォスは刃に触れないよう、慎重に床の上に短剣を横たえた。
「愚かな……」
マグヌスがつぶやいた。
キュロスと自分の両方に向けて。
「お側にいるべきでした」
「いや」
マグヌスは、落ち着き払って座り直した。
着物の腹部が血に汚れている。
「私の黄金の短剣を、テオドラに渡して欲しい」
「帝妃陛下ですね」
「そうだ。説明しなくても渡せば分かってくれる」
大陸を横断するのか、とロフォスは思った。
長い旅になる。
「城門を開け放ったまま、村の祖霊神の神殿へ行け」
「はい……」
「テトスがいるはずだ。彼に助けを求めると良い」
マグヌスの身体が小きざみに震え始めた。
「マグヌス様、しっかり。一緒に神殿へ参りましょう」
「捨て置け」
そう聞き取れたが、ろれつが回らなくなっている。
「マグヌス様! 誰か来てくれ!」
一番頼りがいのある主が凶刃に倒れた。
途方に暮れつつ、ロフォスはマグヌスの肩を揺すった。
西の空に三日月が見える頃、ルークは、城門が開けっ放しになっているのに気付いた。
「なにかの計略か?」
「行ってみりゃ分かるさ」
マッサリア軍には渡れぬ例の細い尾根道をたどって、ルークは数人を連れて城に入った。
「マグヌス! 不用心だぞ」
城はがらんとして人気がなかった。
「松明をかかげて調べろ。あのマグヌスが理由なく城を明け渡すとは思えん」
広間が血で汚れていることと、例の井戸が埋められていることだけが、以前と異なっていた。
「城は空だぞ、この機に奪い取れ」
夜間、ボイオスの兵士たちは続々と入城を果たした。
マッサリア側では城の周囲に明かりが多く灯るのを確認したが、
「マグヌスの計略では?」
と恐れて、動かなかった。
翌朝、城にボイオスのものである黒い旗が翻るのを見て初めて、マッサリア軍は城の持ち主が代わったことを知った。
「おお、ボイオス軍。あの猛々しい連中とまた争うのか」
前線に立つ兵士からは、絶望の声が聞かれた。
一方、夜間城の棘だらけの空堀に身を潜めていたキュロスは、包囲するマッサリア軍の中へ逃げ込んだ。
槍さえ持たない彼は怪しまれ、すぐにテオドロス王のもとへ連行される。
テオドロスは手を振って、放せと兵士に示した。
「キュロス、首尾はどうだ?」
テトスが地図から顔を上げ、訝しげに二人を見ている。
「約束通り、マグヌスを確実に排して参りました」
「確かか?」
「クマでも倒れる毒を使用しました」
テトスは仰天した。
「今、なんと。あの忠実な男を手にかけたと?!」
テトスの怒号を無視して、キュロスはテオドロスに歩み寄った。報酬を得る時間だ。
「城を、約束通り城をください」
「やるとも」
テオドロスは落ち着いて言った。
アルペドンの城が自分のものになると信じたキュロスは欣喜雀躍した。
「ありがたき幸せ。これからアルペドンに立ち返り……」
「違う」
「え」
「城はそこにあるではないか」
「あ」
キュロスは頭を巡らせて、ボイオスの城を見た。
陰気で黒々とした小さな城。
一瞬であっても自分を信じた養父を刺してきた城。
「小さな家でも良いではないか、ともに住まおう」
マグヌスの声が耳の底に蘇る。
「待て、キュロス、味方殺しの罪は重いぞ!」
テトスが捕縛を命じようとした。
それを制するテオドロス。
「城を手にするのであろう?」
「敵の城ではありませんか!」
キュロスは悲鳴を上げた。
テオドロスは残忍な薄笑いを浮かべていた。
「さあ、行け。おまえにあの城を与える」
弓兵が、彼に狙いを定めていた。
(ここにいては殺される)
キュロスは逃げた。
その足元を追うように次々と矢は放たれる。
いつしか彼は全力でボイオスの城の方へ逃げていた。
「助けて……」
ルークたちが奪い返したボイオスの城からも「立ち去れ」とばかりに、キュロスに警告の矢が放たれた。
どちらへ逃げても矢の餌食。
「父上、お助けを!」
キュロスは叫んだ。
どちらへ動くこともできなかった。
立ちすくむ彼へ、吹雪が視界をさえぎるように両陣営から矢が浴びせられた。
「むうん……」
武装していないキュロスの全身に鏃が食い込んだ。
もはや人の姿ではない。
彼はヨロリと地面に倒れた。
テトスは、見たもの聞いたものが信じられなかった。いや、信じたくなかった。
智将と呼ばれる彼が、すっかり平常心を失ってしまっていた。
(キュロスという男も、マグヌスの死を確認してはいない)
生き延びているのではないかという思いが消えず、心のなかで死んだという知らせとせめぎ合って千々に乱れた。
「マグヌスのことだ、毒消しの方法くらい知っていても不思議はない」
現に、妻マルガリタの盛った砒素からは生き延びたではないか。
さらに、
「この王ではもうダメだ。マッサリアはもたない」
彼は、完全にテオドロスに見切りをつけた。これだけには確信があった。
「そうだ、祖霊神の神殿へ」
自分が言った言葉を思い出し、彼は一人陣営を抜け出した。
これをもって、第15章 巨星墜つを完結とさせていただきます。
明日の更新からは、終章 鎮魂歌 となります。
あと15日で完結です。
夜8時ちょい前をどうぞお楽しみに!!




