第十五章 232.虎の尾を踏む
帝国暦は二四七年春になっていた。
夏至が来れば二四八年になる。
マグヌスの手元にやっとテオドラの贈った花が届いた。
「砂漠のバラか」
押し花になった薄紅色の花弁が、マグヌスの手からハラリと膝に落ちた。
南国の砂漠でしか咲かぬ花が、どうして東帝国に嫁いだテオドラからもたらされたのだろう。
「テオドラは何か言っていなかったか?」
「そうですね、確か『贈り物です』と」
記憶を手繰るように使者は答えた。
ずいぶん時間は経っている。
「贈り物……」
「皇帝ご夫妻は誠に仲睦まじく、養父殿もご安心いただければと」
マグヌスは少し考えて意味が分かった。
南国からの特別な贈り物を東帝国が受け入れたのだ。
エンコリオスも娘を東帝国に贈ると言っていたが、テオドラがわざわざ南国にしか育たないこの花を「贈り物です」と言って送ってきた理由は、他に考えようがない。
「そうか、東帝国は南国と通じたか」
マグヌスはもう使者の口上を聞いていられなかった。
「テオドラも危ないことをする。こちらの和平が破られていない以上、南国との取り決めは密約であろうに」
使者は話し続けていた。
「……謁見の間にはご夫妻の玉座が設けられ、これはテオドラ様が初めてとなる特別な計らいとのこと」
「お役目ご苦労。こちらにてゆっくりお休みください」
使者のねぎらいを王宮のものに言いつけると、マグヌスはすぐに旅支度をして、ロフォスを供にマッサリアへと馬を走らせた。
「マグヌス様、どうなさったんです!?」
「詳細は後で告げる。とにかく来てくれ」
むろん、一刻を争ってどうなるわけではない。
それは分かっている。
ただ、危険を犯したテオドラに報いたかった。
マッサリアへの旅路で数泊する間、マグヌスはずっと難しい顔をしていた。
十七歳まで育てた自分にはテオドラの伝えたいことが分かる。
だが、一月も共に過ごしていないはずの兄テオドロスにこれが伝わるだろうか。
マッサリアの王宮に着いたがマグヌスの至急という言葉の割にはずいぶんと待たされた。
テオドロスは王の間の座に座って一行を迎えた。
「東帝国は和平を破るかも知れません。南国と何らかの密約を結んだと思われます」
テオドラが託した押し花をテオドロス王にそっと差し出す。
「テオドラが私にと託しました。この花が南国の砂漠にしか咲かないと知っている者は少い。南国からの贈り物として東帝国にもたらされたということは……」
「たかが花一輪」
テオドロスは嘲笑った。
彼の手で脆い花弁が粉々になるのを見て、マグヌスは胸が潰れるような気がした。
「テオドロス様、あなたの妹が届けてくれたものを……」
「分かった、分かった。今度南征すれば東帝国が動くかも知れぬと言うのであろう」
「東帝国軍の恐ろしさをテオドロス様はご存じない」
余のものが言うのではない。
まさに東帝国軍四万を葬ったマグヌスが言っているのだ。
「その時にはまた、そなたとヨハネスに頼む」
「ミソファンガロの地はもうございません」
後ろに控えていたロフォスが身動ぎした。
「ロフォス、堪えろ」
マグヌスが低い声で命じる。
テオドロスは、パンパンと手を叩いた。
粉々になった薄紅色が宙を舞った。
「怖じたか?」
普段武装しないマグヌスをあざけった言葉である。
伸ばして後ろでまとめた髪、白に臙脂の縁取りのある長衣。腰に帯びた剣を除けば、一見文官にしか見えない。
対してテオドロスは戦時でもあるまいに、よく磨いた輝く鎧をまとっている。
「怖じるとは?」
表面上は言葉遣いも穏やかなマグヌス。
彼の知略の恐ろしさを知るのは敵対した者だけだ。
さしずめ、東帝国の皇帝アンドラスあたりがそうだろう。
「戦いが怖いのか?」
「不必要な戦いほど無駄なものはありません。避けるべきです」
マグヌスはテオドロスの挑発には乗らない。
「次の南征は、若者を主体に行おうと考えている」
「と、言いますと?」
「おまえや将軍たちの言いなりにはならんということだ」
どこから苦言を呈したら良いか、マグヌスには分からなかった。
(まるでアルペドン人だ)
アルペドンの元王妃に王子の養育を任せたのが間違いだった。滅ぼされたアルペドンの怨念がこんな形で牙を剥こうとは。
「マッサリアには評議会がございます。王の行いも、評議会の意向にかなったものになりませんと」
一番穏当な意見を述べる。
「木陰で涼んでいる連中だろう」
テオドロス自身が同じ言葉で将軍たちに揶揄されたとは、本人もマグヌスも知らぬこと。
「いいえ、例えば議長のリュシマコス殿も歴戦の強者、現在のマッサリア王国の基を築かれたお方」
「おまえは、南征に従軍していない」
テオドロスは痛いところをついたつもりだろう。
「南征ばかりが戦場ではありません」
エウゲネスとともに戦った無数の戦場。
エウゲネスの行方を心配しつつ戦った東帝国侵攻戦。
「テオドロス様は、もっと戦を知るべきです。エウゲネス様はご存知でした」
「自分が父に劣るというつもりか!」
マグヌスは冷静に答えた。
「残念ながら、遠く及びません」
キッとテオドロスは歯をくいしばった。
「無礼者!」
「等しいと申し上げれば、故人を侮辱することになります」
「ああ言えばこう言う……もう良い、下がれ」
マグヌスは一礼して王の間から下がった。
「マグヌス様、大丈夫ですか?」
心配そうなロフォスの顔。
「言い過ぎたかもしれない」
「誰かが言わねばならぬことだったでしょう。でも、マグヌス様ではない」
「ロフォス、ありがとう。私よりお前のほうが落ち着いているようだ」
ロフォスは頭をかいた。
「いや、ミソフェンガロに眠る親父が、冷静にって言ってるんですよ」
十歳そこそこで一族を率いる重荷を知ったロフォス。
エウゲネスとルルディに愛されて王宮でぬくぬくと育ったテオドロス。
「テオドロス様は、もっと早くから従軍されるべきだったな」
そうできなくなった平和を作り出した男が、しみじみと嘆息した。
明日も更新します。
次回、第233話 密談
夜8時ちょい前をどうぞお楽しみに!!




