第一章 22.野心と後悔
ゲランス王国の国王は、半月のかかった星空を眺めながら、自身の軽率な行動を後悔していた。
広いテラスに面した窓は大きく開けられていた。
夜になったというのに暑苦しい晩夏の風が、室内の空気をわずかに揺らす。
「さすが智将テトスと呼ばれる将軍よな。取って返す速さが違う」
マッサリア軍とアルペドン軍が衝突したアケノの原の戦いを察知し、留守になったマッサリア王都を狙ったのだが、よく訓練されたマッサリア軍の帰投は、予想以上に俊敏だった。
彼は国境の峠を越えたものの、マッサリアの王都にはたどり着けずゲランスヘと逃げ帰った。
(無害なふりをして、いざアルペドン軍が攻め寄せるという時に行動を同じくするつもりだったのに)
後悔先に立たず、ゲランス王国はマッサリア王国に敵意を持っていると露見してしまった。
(それもこれも、主戦派のアルゴス将軍の強硬論ゆえ)
小国ゲランスは将軍を一人しか立てず、その結果、軍事的な思惑はその一人の将軍の意思に左右されやすい。
(とはいえ、テトス将軍が報復としてゲランスヘ攻め込むつもりだと分かった今、迎撃する他はない)
アルゴスが、国境付近で不審な動きをしていたマッサリア兵を捕らえて尋問し、引き出した情報である。
「確かにアルゴスは有能な将軍ではある」
彼は小さくつぶやいた。
捕らえられたマッサリア兵は、ゲランスへ寝返ることを承知し、いったん解放された。
まだ、彼からマッサリア軍の動向は報告されていない。
再度の寝返りを国王は警戒したが、アルゴスは「金で動くあの男は使える」と言った。
「王よ、まだお休みではございませんでしたか?」
当の本人、アルゴスの声がする。
「誰のせいだと思っている」
言葉に怒気が混じる。
「私が兵を動かすように進言したことをお怒りですか」
「そうだ」
「ごもっとも。私にもあの行軍の速さは予想外でした」
アルゴスは、壁のくぼみに置かれた油灯の中に姿を現した。
平凡な黒髪黒目で、全身の筋肉がよく発達している。
「ご安心できる材料を一つお持ちしました」
「なんだ」
「暗殺の技に長けた部下を、マッサリアの王都に忍び込ませました」
王は意外な言葉に身動ぎし、それに連れて灯火が映し出す影がゆらゆらと揺れる。
「エウゲネス王が南征の途上にある今、マッサリアの王都を預かるのは智将テトス。彼の暗殺を命じました」
「それは、卑怯というものではないか?」
アルゴスは歯を見せて笑った。
「命がけの戦いに、卑怯も堂々もありますまい。寝込みを襲えば知恵の働かせどころもなく、彼さえいなくなれば、マッサリア軍も烏合の衆」
王は手を上げた。
「哀れよな。成功しても失敗してもその刺客の生命はあるまい」
「覚悟の上です」
ゲランス王は懊悩した。
これまで、アルペドンと行動を共にしてマッサリア王国を討つことばかりを考えていたが、事態がここに至っては独力で戦わねばならない。
「アルペドン王国に援軍の使者は出したか?」
「もちろん」
「しかし、アケノの原で敗北を喫しているアルペドンが、我らのために動いてくれるか」
薄暗い室内で、鈍い輝きを放つものがある。銀製の水指だ。
「我らの銀を約束しましょう」
アルゴスは忍耐強く繰り返す。
もう何度も繰り返された話題なのだ。
「あのマッサリア兵、国境近くにいたというが、銀のことは知っていたのだろうか?」
「あえて問いただしませんでした。問えば我らが銀を探していると逆に知らせてしまいますので」
ゲランス王は、神経質に震える手で水指から器に飲み水を注いだ。
「銀の鉱脈はマッサリア側に伸びているが、彼らはそれを知らない」
マッサリアがそれを知る前に動いて銀の眠る国境の山を押さえてしまえれば良いのだが。
不用意に軍を動かしたために、マッサリア王国に警戒させる結果になったのを、ゲランス国王は再び後悔した。
後悔はもう一つ。
「先代の王が欲張って無理に銀を掘らせたために、鉱夫たちが逃げてしまった……銀の鉱脈があっても今は採掘のしようがない」
「まだ加工していない銀がいくらかあるはずです。装身具に加工してアルペドンに送りましょう」
ゲランス王は低く唸った。
「いずれ尽きる。国境の鉱脈を見つけることと銀精錬の技術者を見つけること、この二つがかなわぬ限り、昔日の銀に飽いたゲランスを取り戻せはしない」
アルゴスは返事をしなかった。
銀は鉄と違って武人には縁のない金属だ。
「インリウム南部の銀山が枯渇して以来、銀は貴重だ。東帝国でも南の大陸でも多少銀は採れるが、足りぬ」
「交易ごとの話は、私には分かりかねます。祖国防衛こそ、我が使命」
防衛が使命と言うならなぜ安易に兵を動かしたのかと、ゲランス王はまたアルゴスを責めたくなったが、マッサリアの王都が空と聞いて、自分もこれは好機と思ったのを思い出して踏みとどまる。
「アルゴス、あなた、まだお休みにならないのですか?」
手燭を持った王妃が入ってきた。
「ご心配は女の私にも分かります。しかし今は丸い岩がどちらに転ぶか案じているようなもの。時の流れを見定めて対策なさいますよう」
アルゴスが頭を下げて王妃に礼を取った。
「お妃様、お言葉の通り」
「アルゴス、あなたは必要とあらば生命まで投げ出して国に尽くすと誓ってくれましたね」
「はい。偽りなく」
「あなた、ここまで言ってくれる将軍です。言葉で責めるのは止めましょう」
ゲランス王はうなずいた。
「分かった。孵る前の卵を指して雌雄を論じても仕方がない。アルゴス、十分にマッサリアを警戒せよ」
「心得ました」
アルゴスは夜目が効くらしく手燭も持たずに王の前から去っていく。
「マッサリアと戦いたくない」
「あなた……」
将軍アルゴスの前で口にすれば「王は怖じたか」と非難されそうな本音を、彼は妻に打ち明けた。
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