第十四章 217.和平の条件
カクトスの書面を運んだミルティアデスは、首尾を見届けるために港近くの宿に滞在していた。
せっかくの新居を離れなければならないのは大いに不満だったが、今度は危険の無い旅、南国情緒を楽しんでいた。
日が昇ってから起き、宿周りの屋台で気に入ったものをつまみ食いし、飲む。
「病で死ぬかと思ったが助かったし、親父にも孝行できたし」
あとはメランからの連絡を受けて帰るだけ。
宿に帰って寝椅子に横たわり、干したナツメヤシの実を頬張ってくつろいでいたところに、メランの使者ではなくマグヌス本人の突然の訪問を受けた。
驚きと濃い甘みに思わずむせる。
「ミルティアデス殿、カクトスは息災か?」
「はい、ただカクトス様はご多忙でして。マグヌス殿がおいでとご存知ならまた違ったかもしれませんが」
さもありなん。
マグヌスは学友の苦労を想像した。
アルペドンだけであの始末なのだ。
十五の藩主国と首都を取り仕切るカクトスの負う荷の重さがうかがい知れる。
「良かったら、どうぞ」
ミルティアデスはナツメヤシの入った陶器の器をマグヌスに勧めた。
「お気持ちだけ」
膿んだ傷を抱えた気分のマグヌスに食欲は無い。
それに食事の時刻でもない。
「マッサリア王国と東帝国との正式な和平は何時頃になるだろうか?」
和平が結ばれれば、エウゲネス王は後顧の憂い無く南に乗り出すだろう。
「実をいうとマッサリアは先の海戦で失った植民市を取り返そうとしている」
ミルティアデスは座り直した。
マグヌスはとてつもなく重要な情報を漏らそうとしていた。
「マッサリア王の南征は私にも止められぬ。エンコリオスたちもニキアスたちもそれは承知だ。ただ、東帝国まで巻き込んだ大戦乱にはしたくない」
マグヌスの声には張りがない。
自身が王であれば、もしくは執政官であれば必ず止めた愚挙。
義兄弟とはいえ、他人の思惑に従って動かざるを得ないぎこちなさ。
「陛下は」
と言いかけて、ミルティアデスはあわてて言い換える。
「カクトス様は和平を結ぶのならば人の縁をお求めです」
「人の縁?」
「陛下にはまだ正妃がいらっしゃらないので」
「……政略結婚」
「マッサリア王国には、テオドラ様という王女がいらっしゃるはず」
マグヌスの顔が強張った。
親友が放った遠慮のない一撃は、マグヌスの弱点を直撃した。
自分たちと同じつらい日々をテオドラに経験させるのか。
テオドラを養育していることはカクトスに告げてあった。
(いつからテオドラを狙っていた?)
マグヌスはしばしの沈黙の後に言葉を発した。
「私の一存では決められない」
そもそもエウゲネスが娘と認めるかどうか。
ただ一人の娘を慈しむ機会を失うルルディがいかに悲しむか。
「カクトス様はテオドラ様のお輿入れを願っていらっしゃいます」
「皇帝陛下は……」
「まだ、特には何も」
決まったわけではないと、マグヌスは肩の力を抜く。
テオドラには自分たちの轍を踏ませたくない。
愛し、愛される相手と結ばれて欲しい。
「和平の申し出、正式なものをお待ちしております」
「その日をお待ち下さい」
ミルティアデスは、にっこり笑った。
言葉を運ぶ使者に徹しているからこそ笑う余裕もあろうとマグヌスは感じた。
ミルティアデスの言葉に、マグヌスは重い気持ちで宿に帰った。
「東帝国の使者は、和平の見返りにテオドラを求めてきた」
悩みを親友に打ち明けると、明快な答えが返ってきた。
「俺はアンドラスを信用する。良縁じゃないか」
「善政を敷いている為政者が必ずしも善き人とは限りません」
「あの、ミソフェンガロで濡鼠になったアンドラスを思い出せ。自分ひとりなら逃げ切れるのに、臣下を水から救っておまえに降伏した」
確かに。
アンドラスに未熟さは感じても悪意は感じなかった。
「馬の扱いも丁寧だっただろう?」
人の本性は自分より弱いものに接するときに現れる。
「親の目は曇る」
「……そうかもしれません」
ルークは上機嫌だった。
まだ、ビオンの手下を叩きのめした快感が残っているのだ。
これは剣で屠る、血なまぐさい戦いでは得られない優越感だ。
血しぶきもなく、飛び散る手足もなく。圧倒的な力の差の前に、敵は屈服し悲鳴を上げて無様に逃げていく。
剣の修行をした者なら誰でもこの快感は理解できる。
「まあ悩め。俺は出かけてくる」
金貨を数枚、小さな革袋に移しながら、
「銅貨を持ってないか?」
「ありますが、何か?」
「屋台じゃ金貨だと釣りが出なくてな」
マグヌスは、爪の先ほどの大きさの金貨を一枚、銀貨と銅貨に両替してやった。
「今夜は帰らねえよ」
「また、お楽しみですか」
「ワニの丸焼きを振る舞ってやる約束でな」
「酒はエンコリオスのが良いですよ。爽やかで悪酔いしない」
「ありがとうよ」
これまで釣り無しで金貨をばらまいていたのかと、少々呆れた。
「お金は大事に」
「古女房みたいな事を言うんじゃねえよ」
誰が歌うのか、竪琴を伴奏に砂漠の嵐で生き別れになった兄弟を嘆く歌が聞こえる。
「テオドラ……」
十三年育てた娘だ。
我が身を裂かれるように感じる。
「南征さえ無ければ……」
だが、植民市を撤退させたのは自分の判断だ。
エウゲネス王やゲナイオスは取り返したいに違いない。
「アンドラスはどれほど成長しただろう?」
できるならば会って我が目で確かめたい。
(『親の目は曇る』か……)
あの帝国ならば後宮もあるだろう。
そんな中でテオドラは、やっていけるだろうか。
ルークの言ったとおり、マグヌスは夕食も忘れて一人で悩みにふけった。
ところが、帰って来ないはずのルークは、早々に退散してきた。
「ワニの腹から人の腕が出やがった」
女たちの悲鳴、料理人の怒号、治安をあずかる兵士の尋問。宴会どころではなくなったらしい。
「腕だぞ、人間の腕」
愚痴をこぼしていたが、マグヌスが乗ってこないので、諦めて早々に寝てしまった。
二人にとっては、別々の理由で最悪な夜となった。
明日も更新します。
夜8時ちょい前をお楽しみに!
次回、第218話 空白は一つ




